挑戦せよ。平 強 (Tsuyoshi taira)

シリコンバレーのエンジェル投資ブログ

Yosemite 紀行

日本から気功の大家でいらっしゃる、中健次郎先生が訪ねてこられた、何年ぶりかでYosemite に御案内することにした。園内のHotel が取れないので南側の公園入口の近く近くにTenayan Lodge という瀟洒なロッジがあったので予約をした。 Yosemite の見逃せない一つである, Giants Sequoia が南側の入り口にある。おかげさまで初めてGiants Sequoia を楽しむことができました。

Yosemite Valley から南に抜ける岡の上からYosemite Valley が一望に見渡せる、2,3の滝が丁度雪解け水を十分に集めて素晴らしい流れをみせてくれる。夏になるとこの滝のみずもかれてしまう。春先が一番すばらしい。ここからトンネルを抜けて南側の入り口にむかう。昔はここYosemite Valleyにはインデアンが住んでいた、彼らは Ahwhneechee (Ahwahnee の住人)と呼ばれていた。この素晴らしい景観と自然を守るために国立公園にすべく愛好家が政府に働きかけ 1864 に Abraham Lincoln 大統領によってYosemite Grant と言う法案がサインされた。

写真家のアンセル アダム はYosemite をこよなく愛し たくさんの写真を残している、Valley の中にはアンセル アダム の記念館がありたくさんの Yosemite の写真が展示されている。

ビジターセンターではヨセミテ の自然を説明するいろんな資料が展示されているしまた、ヨセミテの四季の素晴らしい映画も上映してくれている。Valley の中は無料の電気バス が走っておりどこに行くのも便利です。Valley の中のホテルは早めに予約しないと取れないのですが。公園の南口をちょと出たところにたくさんのロッジがあるのでここに宿をとるといい。


Lower Yosemite Fall と中健次郎 先生

1903年に Roosevelt 大統領が5月に3日間 Glacier Point にキャンプしてその素晴らしさに感激してさらに Mariposa Grove も国立公園に含めることになったそうです。Glacier Point からのヨセミテバレイは 圧巻です。 この景観はいつまでもアメリカの宝として保護していってほしいものです。


Giant Sequoia

公園の南側の入り口にGiants Sequoia が林立しているところがある。すごく大きな木で樹齢3000年近くのものがたくさんある。 もうたくさん生きたからもういいよとでも言いたいほどの痛々しいのもある。高さは90メーターあり太さは15メートルから20メートルもある。うえのほうはそれ以上栄養がいかないのか成長がともったような感じになっている。それでも3000年の永きにわたって必死に頑張っているという感じです。その根はあまり深くなくよくも水分と栄養を供給できているのがと思うと大変な苦労をして今日までいきつづけてきたものだと感心する。

かって Wawona Tunnel Tree (別名トンネル Tree )と言う幹に穴をあけて自動車がとうれるようになった大木があった。高さ69メートル幹の太さ 27メールで大勢の人がみにきたものだそうですが,1969年に雪の重さで倒れてしまったそうです。現在はもっと小さい木で中がくりぬかれた木が California Tree の名でのこっている。


California Tree


Fallen Monarch Tree (3000年の樹齢の巨木)


Giant Sequoia
この大きな根が必死に大地を捕まえているように見える。


かわいい赤い花がGiants Sequoia の合間にさいている。

Yosemite の南側から入る道は小さな半径で小刻みなカーブの連続です。途中から山の方にのぼると Glacier Point に行ける、南入り口から約1時間ほどで頂上につける。Glacier Point は標高2199 メートルでここから見るYosemite Valley とそれを囲む山々の素晴らしいこと花崗岩の素晴らしい坊主頭のHalf Dome そしてEl-Captain などの山々の神々しいこと、この上もない。氷河期から数千年あるいは数百年にかけて作り出された自然の芸術です。Roosevelt 大統領もここで3日間キャンプをして、この偉大なる自然の神々しさに感激したことでしょう。


Glacier Point から見るYosemite の山々。


Granite の山Half Dome.


Yosemite fall と周辺の


Half Dome には坊主がよく似合う。中健次郎先生と


Misty Trail への挑戦、Vernal Fall 手前で。

Misty Trail, 二つの滝がつながって谷間に落ちて行くTrail を登ってくと霧というよりも水しぶきを浴びて濡れてしまう。先ず初めにVernal Fall の水しぶきの 歓迎を受けるそしてされにもう一段上まで行くとNevada Fall にたどり着くが ここまでくると もはやしぶきでなく雨にあうのです。階段は全部で600階段、中先生はNevada Fall までたどり着かれた。とても元気な先生です。わたくしはVernal Fall までであとは Give UP. たぶんグラナイトの200階段 ぐらい 登っただろうか。 自分で写真を撮るのさえ疲れてしまって ギブアップ この写真はWeb から拝借。

Giant Sequoia は古いもので3000年から4000年のものがある。太い幹が40メートル から50メートルにもなっている。木の先端のほうは60メートル付近で成長がとまっているようだ。この太い幹をこれ以上に維持するのが大変なので、上のほうへの栄養がいかないのではないだろうか。 この大木を見ていると必死に、数千年かけてここまで生きてきたのだと感激する。そしてまたこのような大木が力尽きて倒れているのを見ると ほんとにご苦労さんといいたいようなきがする。根はあまり深くないようだしよくもあの大木を支えて必死に大地にしがみついて生き延びてきたのだと思うとかんげきする。たびたびの山火事にもめげず生き延びてきている。 確かに周りには若い木たくさんはえていて、それが老大木を守っているようにも見える。このGiants Sequoia を保護しまたYosemite の素晴らしい景観を保つべく努力している公園の管理をしている人達に感謝したいとおもいます。素晴らしいYosemite National Park でした。

中先生の著書

わたくしは毎朝先生に教えていただいた気功で腰をなおしています。

起業家と資金調達、海賊と呼ばれた男の苦闘

数名の友人が若い企業家を育てようと、ファンドまで用意して財団をたちあげた。たまたま日本に来ていたので、ついでに仲間にシリコンバレイ の話をしたくれというので、シリコンバレイでの起業の仕方、資金の集め方、ベンチャーキャピタル の活動などの話をした。

シリコンバレイでの起業はまず個人、あるいは数人の仲間で新しいアイデヤ をねりあげます。これが一番重要でいろいろ資料を集めたり、マーケット調査をしたり、あるいはポテンシャルのお客になりそうな会社の人に意見をきいたりします。特許 をとるための調査も十分におこないます。6ヶ月から1年あるいは2年かかることもあります。そして資金集めにかかります。個人の投資家をエンジェル とよんでいます。 5千万えんから1億円ぐらいの目標で金を集めます。この段階では自分たちで出せる資金。 そしてエンジェル投資家、あるいは企業の経営者などの友達からお金をあつめています。

これらのお金は融資でなく投資家がリスクを自分で負って出す、お金です、ですから返す必要のないお金です。見返りは 会社が上場したときに株式市場から換金できます。またM&A によって他の会社が買収しますとその時に大きな見返りがもらえます。最近ではVideo Distribution の会社などが開業して1年にもならない会社が数百億とか一千億とかというような価値で買収されることもあります。 シリコンバレイあるいはアメリカにおけるベンチャーへの投資はあくまでもリスクマネーです、すなわち会社がつぶれたら一文にもならないのです。そんなわけで SEC(証券取引委員会)ではベンチャーに投資する人の資格を規定しています。 すなわち年収が二百五十万ドル以上、あるいは資産が一億円以上の個人でなければいけないとなっています。貧乏人が投資してあとで困ってしまうといけないからです。

ですからシリコンバレイあるいはアメリカ で集めた資金は返す必要のないお金です。善意であるいは利他の気持ちで投下されたお金なのです。しかしベンチャーの成功の確率は1% にも満たないものです。エンジェル投資家は投資したお金で大儲けしようという考えはほとんどありません。むしろ若い起業家を助けたい、あるいは彼の夢に共感するので投資するのです。

こんな説明をしたら友人たちの大半がびっくりしていた、とにかく返却する必要のないお金が存在するのが不思議のようでした。

懇親会の時いろいろきいてみると大半のひとが親の借金を数億もかぶってそれを返すのに大変苦労した、自分の会社の運営のほかに 夜の道路工事、レストランンの、ウエイター などをして昼夜休まづにがんばってやっと借金を返した。そして会社の運営をコツコツとして売上をのばして今日やっと安泰になったのだと。まさしく失敗を許さない社会のなまなま しいはなしでした。

わたくしが起業の大半が失敗に終わりそして各々が数億円つかってついには会社をしめたいう話を聞いてむしろそんな起業家はけしからんといった感じを持ちながら聞いておられたように思う。日本では失敗は許されないし一度失敗するともう二度と立ち上がれないという社会通念が厳然としてあるのをひしひしと感じさせられました。ですから失敗を恐れずがんばろうとか一度、二度の失敗を恐れずに頑張ろうという掛声があまり現実味のあるものでないことを実感させられました。

だから日本での起業は大変だなあーとおもいました。リスクマネーを出してくれる資産家があまりいないこと、日本でも資産家はたくさんいるはずですが。投資のほうも失敗は許されないのですね。だから土地などあるいは国債などの価値がゼロにならないものにしか投資しないのです。 資金の運用もリスクの大きな株式投資にはされていないのです。アメリカの資金運用が株式投資がメイイン になっているのとの大きな違いです。企業の年金などの資金が株式投資にむけられています。そしてまたそのお金がベンチャー キャピタルのところにも回ってきているのです。アメリカでは一度、二度の失敗はなんということはないのです。しかも大きな失敗をした人ほど人がまた投資をしてくれるチャンスがおおいようです。それには失敗の原因を十分に検討して次は同じような失敗をしないという確証があるのでしょう。

日本もそろそろ一度、や二度の失敗をゆるして若き起業家をサーポートしてほしいものです。そしてもっともっとベンチャーキャピタル に資金を投下してほしいものです。アメリカの ベンチャーキャピタルの年間の投資額は年間3兆円以上もあります。そした年間4千社ほどのスタートアップ に資金が投下されています。そしてほぼ一社平均すると7億円以上の投資となっています。新しい技術、新しいビジネスモデルには少なくともこれぐらいの資金がひつようですね。それに比べて日本のベンチャーキャピタル は年間わずかに二千億円ですよ。これでは一社当たりはわずかな金額しか投資できないです。

スタンフォード 大学のダシャー先生が日本の企業のIPO までの期間を調べたらなんと20年だという話をされていた。またシードマネーがおじいちゃん、おばちゃんからもでている場合がるとのこと。おじいちゃん、おばあちゃんは かわいい孫のために箪笥貯金をしているのですね。たしかにオレオレ 詐欺でおばちゃんが 一千万もだまし取られたという話が新聞に出ていることからもうなずけるところです。 桃太郎も鬼が島に鬼退治に行く時はおばちゃんの投資(きび団子)があったから、犬や猿や雉 をやとえたのです。若い起業家の皆さんとりあえずおばちゃんにあたってみたら、その前におばちゃん孝行もおわすれなく。

日本の企業のIPO までの時間が20年もかかっているのはベンチャーに投下される資金が少ないしかもその後の発展のための資金が銀行融資しかないことによるものとおもわれます。先ほどの友人が親の借金を背負って借金を返しそしてコツコツ自分で稼いだ金を元にして発展の資金としてきたことまた銀行借り入れで運転資金を借りているので企業の運営をものすごく慎重に行い不渡りを出さないような慎重な会社経営をしてきているのでIPO までの時間がますます長くなっているのです。稲盛さんが京セラを始められる時に篤志家が資金を出してくれたようです。 たぶん数百万円ぐらいではないだろうか。いわゆるエンジェルですね。 その後は自社の利益と 銀行融資で発展させたようです。 上場した時も市場からはそれほど大きな金を集めたという話しを聞いていないのでその後は自助努力によって大きくなったのです。そしてそれで世界に冠たる企業に成長していることはいかに経営がうまかったかということだとおもいます。日本の大企業は財閥企業意外は 大なり小なりこのようにして大きくなったのでしょう。

スタートアップ の資金調達は 最初のシードマネー をエンジェル投資家から数千万から一億ぐらいでスタートしてその後1年以内に3億円から 5億円 ぐらいあつめます。このお金でプロトタイプを作りあるいはインフラのソフトの開発を終えるように努力します。そのごいよいよ商品の販売あるいはソフトウエアーの販売などの次のステップ にうつります。そして次に本格的な量産販売にうつります。このあたりで10億から30億円の資金調達が必要になります。このころには多くのベンチャーキャピタルにお願いして資金をあつめます。そして売上をあげて利益をあげ自給自足できるようにしないといけません。

日本では第二弾の3億とか5億がまずあつまらないのでこのあたりが銀行融資でまかなわれていたようです。だから日本の経済はこのように大手の銀行によってサポートされていたのです。そしてこの融資を受けるための人と人のかかわりあいが重要であったのです。融資は現実にはアカントレシイーバブルのかたがわりで 補償金みたいなものだったのでしょう。スタートアップの企業が大きな商売をするのに結局は数億円の補償金が必要だったのです。

出光 佐三 の伝記を小説化した "海賊と呼ばれた男“を友人が読んで初めから終わりまで涙を流しながら読んだのでぜひ平さんにも読んでほしいと言ってわざわざ日本からおくってくれた。いや素晴らしい本だったというかなんと素晴らしい人間がいたものだとところどころ涙を流しながら読んだ。 この本を読んでなるほど日本では絶対に失敗してはいけないのだときがついた。失敗しないために死に物狂いで事業をする、そして従業員をだいじにし、従業員を家族のように最後まで面倒をみる。出光 佐三 は小説のなかに国岡鐵造 というなまえででてくる。鐵造には日田 重太郎というメンター がいた。日田は 国岡鐵造の人物を高く評価しその評価を一時もくずすことはなかった。日田重太郎は 淡路島の資産家だったが実家との折り合いが悪くひとりで神戸で生活していた。そして自分は仕事もせずに茶や骨董を楽しむ風流人であった。鐵造は従業員数名の酒井商会で活躍するのですが。実家の凋落を知って独立をかんがえます。しかしお金はないのでどうしたらいいのか迷っていました。それを感知した日田が京都の別宅を8千円で売って6千円をお前にやるから独立しなさい。という当時の六千円というのは今の六千万ほどの額になります。鐵造はそんな大金をただでもらうわけにはいかないと返済など条件を決めようとします。しかし日田 はそれはお前にあげるのだといいます。そしてそれなら次の3つの条件をいいます。

1) 家族と仲良く暮らすこと。
2) 自分の初志を貫くこと
3) このことは誰にも言わないこと。

このお金で鐵造は機械オイルの商売をはじめます。これが鐵造が石油の商売にかかわるきっかけとなります。恩師から頂いた 士魂商才 (武士の精神で商売をやる)の額を掲げてがんばります。

しかし3年たっても一向に売上があがりません。 そして日田からもらった6千円も底をつきます。愈々会社を閉める覚悟で日田に深深と頭を下げて日田さんもう駄目です店をしめます。いただいたお金を使い果してしまいました。と言います。日田はそうかと言って二人で門司のまちを海の見えるところまであるいていきます。そして日田は 鐵造さん神戸のうちを売れば7千円になる、鐵造さんこれでもう一度頑張りなさい。と言ってまた7千円を工面します。そして日田は鐵造さんとことんやってみろそしてそれでもだめなら“一緒に乞食やろうよ”。といった。鐵造は感激で言葉にならなかった。

いや! 素晴らしいこんな人がいたものですね、あるいは鐵造という男の魅力がすばらしかたのか。その後鐵造はいろんな苦労を経ながら大きくのびていきます。 いつも部下を思いそして国家を思いながら事業に邁進します。

その後の鐵造は 石油の確保のために大変な苦労をします。戦後の日本はアメリカからの石油の割り当てで何とか産業が維持されていました。 欧米の石油メーカー大手7社が 7人の魔女と呼ばれて日本の石油産業を牛耳ろうとして日本の石油会社に資本を入れ合弁会社を作り持ち株比率大きくもって進出してきます。 鐵造にはそれがわかっていたのでこの7人の魔女との戦いをくりひろげます。 またGHQ が欧米の大手の後ろ盾になったりしているのでその戦いは大変なものでした。 しかし日本の将来のために鐵造は必死にがんばります。 GHQにも殴りこみにいたり、日本政府にも絶えず意見をぶっつけていきます。日本のため将来の日本の石油政策のためにこれほど頑張った人はなかってことでしょう。そしてこの石油のための戦いに全神経をつかいます。 ひとつ間違えば石油産業は 7人の魔女のために日本の復興がおくれてしまします。そしてこの戦いのために大型タンクの 手だって、そしてついには大型精油工場の建設とどれも大きなお金のいるプロジェクトでした。 もしこの戦いに負ければ日本の復興はおくれてしますのです。国家のために一大時です。 鐵造はいつも国家のためを第一考えて大きなリスクを自分でかぶって勝負にでます。それにはまた大型タンクの買収には国岡商店のはるかに及ばない資金が必要だったのです。ここでも資金源は大手の銀行だったのです。日本経済は大手の銀行によってささえられていたのです。銀行の頭取の裁量によってなん百億という融資が決済されていたのです。 その後も大型精油工場をつくる時もまた大きなお金がひつようです。そのつど鐵造の信念と国を思う 意気に感じて融資が決まっていき産業の基礎が次々うちたてられています。そして圧巻は 日章丸 の建造です。そしてイラン がイギリスからの圧力で石油が 輸出できない時に鐵造は 日章丸を イランのアバデーン に向かわせてイランから大量の石油を購入します。 イランはこの時イギリス から経済封鎖さされており日章丸が石油を大量に買い付けた おかげで国の経済がすくわれたのです。日本はこの時イランの救世主となったのです。

とにかく資金繰りの難しい日本の社会でこれほどの苦労をして個人で国を支えて人はなかってのでしょう。とにかく日本での起業はいつもこの資金源の確保に大変苦労してきたのです。もっと機関投資家が企業をサポートして産業を活性化しないと一個の企業一人の個人でできるこの荷は限界があります。鐵造のチャッレンジ は素晴らしい、それも国家のためという大義名分をいつももっていたからできたのでしょう。昭和というときは終戦後の経済の建て直し相当な苦労が大きかったのです。これからはもっと資金調達がやりやすい社会にしていきたいですね。それにはベンチャーキャピタルにもっと資金を投下してほしい。不動産で儲けているところなどは少しは ベンチャーキャピタルにお金を投下してほしいですね。そうすれば アップルとかあるいは第二の京セラ などのような大きな会社ができて経済をささえてくれるのではないかとおもいますが。

この本を読んでエンジェル投資家として投資した 二人の起業家のことがおもいだされます。一人は ハイエンド のイメイジ プロセッサー の開発の会社、もう一人はオンラインイーコマス 二人ともがんばって事業を大きく育っててくれそうな人物でした。自分のお金をある程度とほかのエンジェルさらに 台湾のベンチャーキャピタルからお金を入れてもらいました。 しかしイメイジプロセッサアー のほうはなかなかソフトに開発がおわりません。次から次えと問題が出て開発は大幅におくれてしましまいます。ついには資金がきれてしまいました。投資してくれていた台湾の VCもサジをなげてしまいました。

オンライン、イーコマスのほうも追加の資金調達が追い付かず自分の金も底をついたのでどうしてもそれ以上ささえることができませんでした。 二人の起業家に済まないがもうこれ以上支えられないと宣言しました。 二人とも最後の望みを持ちながら頑張ってくれたのに最後にはわたくが支えらずついに会社をとじました。最後は従業員を全員解雇して当人たちも給料もなしで最後の締めくくりをしてもらいました。自分は家を売ってまで支える力はありませんでしたしまた彼らを2,3が月支える金もだせませんでした。ごめんなさいなんとか自分で頑張ってくれと言うしかありませえんでした。二人にはこの経験を生かして ここから立ち上がってほしいと祈っています。

もう一社テレコムニケーッションの会社は インターネトのバブル期の前後に2変 3変してたびたびの方向転換をしながら苦労しました。 IPO 準備終了ご 次の日についにマーケットがクラッシュ して、その後のいろいろな方向転換をしながら苦労しました。 その時に メインの投資家だったVC が 最後の最後まで 支えてくれました。しかし我に運なくついに会社を閉めました。 最後まで助けてくれたベンチャー キャピタルにいつの日にか恩返しができればいいなあとおもっていますが。 いつになることやら。

起業はただお金を儲けるためにやるのではなく世のため人のためになる 大きな使命を持ってしなければいけないのです。 起業するには自分にちゃんとした哲学があること。 使命感を持ってスタートしなければ挫折してしまいます。鐵造の使命かん 国家のため人のためという大きな志がひつようです。

本の最後にフランスの世界的な作家 アンドレ マルロー と出光 佐三 とのインタビユウの 様子が書かれています。30分の約束で始まったインタビュウは なんと3時間に及んだそうです。それももっぱらマルローの一方的な質問だったようです。マルロー は首を切らない会社 出勤簿のない会社に非常に興味を持ったのです。マルロー は出光の ”マルクスが日本で生まれていたら“ という本を既によんでいたので特別に彼に会いたかったようです。 マルローは日本でのモナリザ の展覧会のためにドゴール政権の文化相としての来日だった。マルロー の質問は 武士道から 仏教から日本文化などの広範囲にわたったようです。さすがは文学者そして歴史学者そしてマルローの最後に質問は なぜあなたはそれができたのかでした。 出光は “それは人を信頼していたから”でした。 マルローはさらにそれは国家でも同じかと問うた 出光はそうだといった。さすがにお互いに人を見る目をもった人物だったのです。

この本を読みながら数々のスタートアップに投資してきてそしていろんな危機に直面して苦労してきたが これほどに窮地を潜り抜けそして物事を成功に導いている 鐵造の人物に触れて大変感激した。 起業とは世のため国家のためにする大義名分も必要なのです。

これから起業する若者はこの本をぜひ読んでください。百田さんという作家のすばらしさ。 これほど迄に出光佐三 の業績を明らかにしてくれてほんとにありがとうございました。

出光 佐三 
が愛した仙崖 和尚の 双鶴画讃  鶴は千年亀は万年我は天年 と銘うたれています。

平成の咸臨丸-青木Foundation

青木Holding の青木擴憲会長が 長野県の優秀な中学生の見分を広めるために中学生を世界に派遣して勉強してもらうために奨学金を用意された。2年に一度10名程の中学生をヨーロッパ とアメリカに送り込み勉強してもらう。今回は春に、ロンドン を訪問しこの夏に ニュヨーク、ワシントン、シリコンバレイの旅が企画された。 私はシリコンバレイの企画に参画しました。サンフランシスコ到着後すぐに Gilroy の花栽培の大農場を見学してシリコンバレイにかえり我が家でDinner をした。次の日に HPのガレージの見学、Google を訪問 その後 皆さんはUC Barkley を訪問しました。

8名の研修生各々個性豊かでしっかりと自分の意見を持ち、将来を真剣に見つめている姿は頼もしいかぎりでした。夢を持って行動している子、 又これから自分の夢を探すのだと頑張ている子、皆大きく羽ばたけるような子供たちでした。

何時もは日本の大学生達と向き合っていたのですが。中学生は大学生と比べてある意味ではもっと意気揚々としているようなきがします。シリコンバレイの話とアメリカの起業家の話、スタートアップの仲間のはなし、シリコンバレイの 挑戦する若者たちの話をして彼等を鼓舞してあげた。

Google 訪問、開発のエンジニヤーマネジアーがGoogle でどんな開発がおこなわれているかを説明してくれました。そしてGoogle のMission Statement をまず一番初めにせつめいしてくれました。曰く“Google’s mission is to organize the world’s information and make it universally accessible and useful.”と言うことでした。そして色々な開発が何時もこのMission Statement , にかなっているかをチェックしているようです。これは全従業員に徹底しているようです。質疑応答で生徒の一人が Google はFace Book と競争するために何か新しいことを考えているのかとの質問にたいして、Face Book との競争ではなく Mission Statement にかなっているかどうかが問題でFace Bookとの競争はかんがえていないとのことでした。生徒の皆さんはこの点わかってくれたかはさだかではないですが、さすがにGoogle は一貫して Mission Statementを尊重しているようです。青木さんの心積もりは将来の日本の総理大臣を作りたいとのことだった、だから“平成の咸臨丸“と名ずけてこの企画がなされています。別れ際に皆さんが将来大臣になったとすればどの大臣になりたいかの質問をしたら、外務大臣候補者が4名。経済産業大臣が一人 、文部大臣が一人、厚生大臣が一人そして総理大臣が一人でした。頼もしいかぎりです。さすがにGlobal な子供たち外交官志望がおおいようです。

青木さんのこのような活動を今後とも続けられるそうですので頑張ってほしいとおもいます。又同じような試みをいろんな所でやってほしいものです。

Gilroyを訪問した際に、Gilroyで活躍してい内田さんが、ギルロイと青森の田っ子町との姉妹都市で毎年高校生がお互いの町にHome Stay してお互いの国のことを勉強していることを説明してくれました。外国を見ることによって日本のことを見直すことができるのだと話してくれました。

この企画に参加した子供たちはGlobalization に目が開け将来地域をかつぎ、又は日本を背負って行く人材となることかとおもいます。

私が投資しているインドの会社の若き社長にこの青木さんの活動を話したら是非彼も学生をインドに呼びたいといってくれた。 それには売上を上げて利益を早く上げてほしいとたのみました。

私も一生懸命に会社をサポートするから2―3年以内にお金を作って学生をインドに呼ぼうねとちかいあいました。 ご期待ください。さてこれから投資したインドの会社の盛り上げに頑張なければ、3年後はインド行きも企画にくわえてもらいましょう。


8人の侍と守屋指導員と共に


今日は昼食抜きだったので皆さん頼もしくたくさんたべてくれました。


付き添いの稲川弘子さん、Joel Tiala さんそして、
青木Foundation の守屋ゆりさんと生徒達。


素敵な寄せ書きです。


Google の新しい試み風船を上げて太陽電池で動くLocal Router を沢山上げてInternet のないところをCover する、New Zealand で実験済みAfrica での実用を狙う。


Google 訪問


Ted Uchida さんの案内で Gilroy の花の栽培をしているところを見る。

天空の仏教都市、高野山を訪ねる。

空海(弘法大使)は777年に生まれ頭がよかったので奈良の大学で勉強します。しかし儒学では世の中の矛盾は解決できないと、大学をやめて修験者に交じって自然の中で荒業をしながら修行していきます。吉野の金峰山、四国の石鎚山、そして土佐の室戸岬の洞窟の中などで修行をつみます。修験者(山伏)は鳥取の大山、山県の羽黒山、吉野の金峰山 などの霊山と言われるところで修行をつみます。とても大変な荒行のようです。四国の石鎚山には登ったことがありますが、頂上近くの最後の50メーターが凄い岩の絶壁になっていてそこには鉄の鎖がつけられていた。勿論昔はこんなものはなかったでしょうから命がけでのぼったに違いない。今では頂上の近くに山小屋がありそこで味噌汁を御馳走になり大変うまかったことをおぼえている。石鎚の頂上に登り詰めると見晴らしがよく瀬戸内海の向こうに本島の山々がみえた。友人で羽黒山で修行している山伏の話を聞いたことがありますが。一日おにぎり1個と沢庵ひときれで1週間険しい山を歩いて修行するそうですが。終わって麓に帰ってきたらお菓子にむしゃぶりついたと言っていました。大変な荒業だそうです。日本は八百万のかみ神が霊山に棲みそしてまた仏も霊山に居られるから人里離れた山には自然かの霊気がただよっているものです。修験道者も仏教の求道者もこのような場所をさがして修行したのでしょう。修行は体力の限界の中から何かをみいだすのでしょう。天台宗の千日峰回行の修行も又自然から学ぶための修行のように思われる。空海は四国の室戸岬の洞窟で修行しているときに明星が口に飛び込んできて悟りを開いたと言う。

西の入り口にある 大門 ここから弘法大使の廟まで4.5キロ程。

804年空海は遣唐使が使わされる事をしり、自費でこの船にのります。当時の遣唐使は国の金でまかなわれていたからもし自費で行くならもの凄く高いお金ではなかったかと思われる。空海は金集めが上手だったのだろう。唐にわたってからも仏典の筆写の費用、仏教の法具の購入などに多くの金をつかっています。まさしく平安時代のEntrepreneur だったのです。日本に仏教をもちかえるための信念にかられてお金も修行もしゃにむに頑張ったのです。当時の金持ちは豪族か或いはお寺或いは天皇家ぐらいだったとおもう。だから心当たりの多くの人達からお金を集めたに違いない。プレゼンテイッションがうまかったか、情熱がほとばしって人の説得がうまかったのか。或いは日本の仏教のためにと強い信念のために人を説得できたのだろう。

考えてみると聖徳太子の頃からお寺だけは立派なものが建っている。聖徳太子が遣唐使の派遣を考えてから中国のお寺の建設の技術が入ってきたに違いない。それにしても法隆寺、四天王寺、などのすばらしいお寺を作るにも相当のお金が必要だったと思う。国のお金でないと難しかったに違いない。それが空海は金剛峰寺のような壮大なお寺を作るのには沢山の浄財を必要としたのでしょう。この浄財を提供する市井の人たちもお金持ちが大半だったと思いますが、他にも沢山の人達が少しづつ提供して大きなお金となったと思われる。これこそ今のエンジェルインベスターに、似てしかもドーネーションですからそれだけ信仰の篤い人達が信仰のためには自分を犠牲して資金を提供したのだろう。西洋の教会は権力、即金持ちだから簡単に素晴らしい教会がいたるところに立てることができたのです。

主殿(総本山金剛峰寺)屋根には水桶が備わっている火事の時の火消し用

不動堂 (金剛峰寺)素晴らし屋根の曲線です。

金剛峰寺の蟠龍庭(ばんりゅうてい)日本最大の庭園兎に角すばらしかった。

奥の院の入り口

奥の院の弘法大使廟までの2kメートルにわたり歴史上の有名な侍或いは詩人、或いは戦国大名の霊屋、墓標、供養塔、その数は何千とあります。そしてまた近代の企業の供養塔や顕彰碑がたくさんあります。小松製作所、化学会社、松下電器などなどたくさんです。日本の先祖崇拝のあらわれです。ですからこれらの会社或いは侍の子孫が毎年ここをおとずれたものとおもわれます。企業の場合などは大勢に人達がおとずれるのでしょう。

毎年訪れる訪問者のための宿坊が沢山必要だったのでしょう。そのため弘法大使も数軒のお寺の建立に力をかしたりしています。 そしてまたこの宿坊には必ず本尊が祭られています。阿弥陀如来像、数々の菩薩そしてまた不動明王などが有名な仏師によって作られています。宿坊には数体の本尊がおかれています。兎に角空海は素晴らしい経済圏をつくりあげたものです。これこそentrepreneur(起業家) の最たるものです、空海はどうして資金をあつめることができたのでしょうか。

当時の遣唐使は20年と言う滞在期間で唐におくられています。さすがに宗教をもたらし文化をもたらすためにはそれぐらいの年月がかかるのでしょう。時の権力者はそこまで理解して遣唐使を派遣していたのです。ところが空海はわずか2年で密教とそして唐の文化、技術を日本にもたらしたのです。空海は唐の密教の祖、恵果阿闇梨に逢った、恵果は空海をみるなり、ああこれが私のおしえを受け継ぐものだと直感します。それから恵果阿闇梨はものすごい勢いで空海に密教の奥儀を伝授します。そしてわずか3カ月で恵果は死んでしまいます。しかし空海はこの間にすべての法嗣を受けたのです。この為中国側の法灯は途絶えて日本に移ったのです。道を極めた人は、人を見る目があるのです、ですから空海と会ってすぐ空海が自分の教えを引き継いで行く人だと分かったのです。空海は密教の他に中国の文化を理解しそして土木工事の技術をも身につけて日本にもっていきます。農業が主体の経済においては土木工事がどれほど役に立ったことか。そして大きなお寺を作る技術も日本に持ち帰ることができたのでしょう。日本の大工の匠はこの為に益々磨きがかかったものとおもわれます。

高野山は約800メートルの山の上にある平坦な土地にできた町です。周りは1000メートル級の山々に囲まれています。ここに空海は天空の仏教都市をつくるのです。

昔は女人禁制の場所で女人口までしか入れなかった、空海の母も女人口のそとに家を作り住んでいたという。戦乱の世の中でどちらかの権力者に拠ってしか生きられない時高野山はどちらにも組しなかったから戦乱をまぬかれています。一方比叡山の方は僧兵などを大勢抱えて権力を行使していたので信長の 焼き討ちに逢い本堂は焼けおちほとんどの 僧侶が殺されてしまった。その後秀吉が高野山にも食指をのばしますが。武氏出身の僧 木食応其 が仲介して存続できたその後秀吉が帰依して高野山の存続が確保された。これも庶民の仏教としての密教がもたらした功徳かもしれません。

高野山の町はわずか128平方キロメートルに小さな町です。しかしこの小さな町に123軒のお寺があります。そしてそのうちの50-60軒が宿坊をかねています。鎌倉時代、そして徳川時代にはいって、平家、源氏、そして豊臣、徳川の菩提寺、など、他に霊屋、供養塔などが何千と建てられこれにお参りする人々が毎年何万人と訪れて宿坊にとまっています。当時のたとえば徳川時代初期の訪問者を推察してみるに

たとえば宿坊とお寺を含めて100軒とする 年間之訪問客が一軒に500名とすると そして一人1万円の宿泊料とすれば約5億円の経済効果となる。そのほかにお土産やとか 籠やとか色んな商売があったでしょうからこの4-5倍程はあったでしよう。 20億として今の価値にする場20倍ぐらいに考えれば400億の価値です。 空海はやっぱり日本一の企業家だったのですね。明治の起業家そして昭和の大企業家と並び称されてもいいような企業かではないかとおもいます。

金剛峰寺のその後の修復に明治の頃の寄進者の立て札がずらりと並んでいる、曰く 一金千円也、どこどこの何とかさんと言うセメントの立て札が沢山ならんでいる。 多分今の金にしたら一千万円ぐらいのかちかもしれません。
これぞ見返りを期待しない投資資金なのです。これぞシリコンバレイの投資家の心意気のお金です。日本もこのような投資家が沢山いたものですね。そうでないとあの壮大なお寺は維持できないです。このように日本経済は仏教の信者の寄進に拠るお金でお寺を中心とした経済を作り上げていたのです。もしかしたら今お金を持っているのはお寺ではないだろうか。このお寺のお金をベンチャーキャピタルの運用に回してもらえば日本経済ももっと早めに回復するのではないだろうか。

空海は Globalize(国際化) された素晴らしい起業家であり又宗教家であったと思う。

遍照光院の精進料理のDinner 豪勢で食べきれなかった、
食べてしまってから写真をとった。

編照光院という宿坊にとまった 本尊は柿不動尊 であったそして阿弥陀三噂、不動明王などが安置されている。これも大変なお金がかかっていたのでしょう。この宿坊も空海が建てたと言う。朝の勤行に参加させてもらった、そして阿字観を経験させてもらった、阿字観は座禅をして自分を無の境地にして仏を見るための行為です。30分の座禅ですが。足が痛くて自分を無にすることなどはまず無理であった、御坊さんにどうですかと聞かれたので足が痛くて それどころではありませんでしたと答えたら、残念そうな顔をされたので恐縮してしまった。

阿字観はこの絵も前にして我が心を無にして仏をみることです。

一泊のたびでしたが 空海のベンチャー精神をみて日本は今こそベンチャー企業を育てないと国がシュリンクしていきそうである。 お寺のお金をどうかベンチャーキャピタルに預けて運用させてください。 先の朝鮮総連の建物跡を鹿児島の僧侶が49億円で買おうとした所を見てもお寺に沢山のお金が遊んでいるのでは。真言宗、天台宗、その他浄土真宗、そのた諸々にお寺が日本経済の発展のために浄財をベンチャーキャピタルキャピタルに預けてほしいものです。
そんな思いをした高野山でした。

弘法大使像 に水をかけて奥の院にすすむ。

奥の院入口ここで皆さんはお経をあげてから境内に入っていった。

Hochiminh Visit March 21st, 2013/04/06

初めてVietnam を訪問した。
Hochiminh 市でソフトウェヤ を開発している会社をたずねた。

フランス領であった町は昔の面影を残し意外ときれいな街だった。大きな交差点はロータリー式で信号がない。三方,四方から来る車は見事にお互いの流れをみださないようにうまく流れていく。秩序を乱さないようにスムーズ に流れている多くのバイクが見事な流れとなっていく。台湾で見た、北京で見たあの流れとは一寸違っているみたいです。国民性なのか。ところが交差点で信号がないところがあるまず横断することは不可能だったせまい道で横断しようとするとバイクはまず止まらない、わたるのは必死であった、結局街の人がわたる後についていったユックリと歩いてバイクが避けるのを見て長い間かけてやっと5メートル程の道を横切ることができた、急いではいけないバイクの人におれは今わたっているのだと理解させるようにユックリ歩くこれもリヅム、流れをうまくつかまないといけないようです。ここでの生活活動はこのようなタイミングでしないといけないのだろう。

車もバイクも流れを乱さないように同じリズムで流れていく。

街の市場は賑わっていた。大体どの国の市場は同じようにごちゃごちゃしているしお客の値切りと真剣に対応している。ベトナムは コーヒーが美味しかったので粉とコヒーを濾すためのカップをかう。

市場は賑わいをみせていた。経済は順調のようだ。


街はフランス領の頃の名残でヨーロッパ風の建物が多い。


フランスのオペラハウス に似せたサイゴンのオペラハウス、
街の中心は素敵だ。

2007年06月23日 11:55 発信地:ワシントンD.C./米国
2007年【6月23日 AFP】ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)米大統領とグエン・ミン・チェット(Nguyen Minh Triet)ベトナム大統領の会談が22日、ホワイトハウスで行われた。1975年のベトナム戦争終結以降初のベトナム大統領による訪米となったが、全米各地でベトナム国内の人権問題に対する抗議活動が起こり、会談の中でもブッシュ大統領もこの問題に言及した。

ベトナムの歴史は18世紀にフランスの植民地になって以来数々の戦争にまきこまれた。1940年に日本軍が進駐した。日本軍の進駐は逆にベトナムを独立させるきっかけとなった。日本軍を 救国の神兵 として歓迎したと言う。だから親日なのかも知れない、東南アジアの国々は大なり小なり日本の侵攻により彼らの独立を促進した事は否めない。日本の敗戦と共にベトナム革命がおこりホー、チ、ミン 引きるところの共産国家が宣言された。これからが18年に及ぶ戦争の渦の中にまきこまれるのです。フランスとの戦いや さらにアメリカはフランスを支援するために、アイゼンハワー大統領の頃ベトナムへの援助が増やされた。1946年、ケネデー大統領になってさらに援助が増やされていく。そしてJohnson 大統領になっていよいよ、米軍の投入となっていきます。ソ連とアメリカの冷戦が進行するにつけ戦争ははげしくなっていきます。アメリカは共産主義のドミノ現象を食い止めるべくますます兵力を増強していきます。北ベトナムは中国、ソ連から援助をうけます。南ベトナムがアメリカからの援助で代理戦争の様相を呈していた。このベトナム戦争において米軍は 54万人の兵力を投入しそのうち5万8千人が死亡した。一方南北ベトナム人は何と2百万人が死んでいる。この為ベトナムの人口は若い人が大半をしめている。米国との戦争においてはるかに優れたアメリカの近代兵器、ヘリコプターを使った機動力そしてさらには化学攻撃枯葉作戦などの攻撃に耐えて遂にはアメリカをベトナムからおいだしてしまった。ベトナムは 唯一アメリカを撃退した民族だと思う。これもホー,チ、ミンの偉大な人道的な指導力に拠ったものだと思う。ホー,チ、ミンは若くしてフランス、中国、ソ連などにわたり社会主義国家の建設のために努力した。そしてまたアメリカにもわたり英語の習得にも努力している。このような人物ありきで初めからグローバルな考えでベトナム人をリードしたようです。グローバルにものを考えるとは いつの時代でも大事なことなのだ、日本の明治維新も政府の要人が1年以上にかけて世界を見てきたからあの素晴らしい発展ができたのです。ホー、チ、ミン 御爺さんもしかりでした。日本の若者ももっと若いうちに外国を見て回ることが必要ですね。ベトナムの現在の指導者も多分にこのホー,チ、ミン の感化を受けた人達が多いに違いない。

1975年米軍がサイゴンから撤退した。ヘリコプター でサイゴンから脱出する映像は世界各国に放映された、その中に南ベトナムの要人が多数ふくまれていた。最後の副大統領だった、グエン、カオキ 少将もふくまれていた。

2007年6月23日 にベトナム戦争が終わって初めてベトナムの大統領がアメリカを訪問ジョジ、ブシュ 大統領と会談した。そして帰国の前にベトナムからの移民の多いサウス、ロスアンジェリス(little Saigon) でベトナム大統領とベトナムの経済界の人達とアメリカの産業人とのレセプッションが行われた。 友人のロバート、リーがこのレセプッションのアメリカ側のコミテーになっていたので私も参加させてもらった。 ホテルの外ではベトナム人を主体の人権問題に対する抗議デモがあった多分共産党時代の人権無視などに抗議していたのではないかと思われた。レセプッションが始まってベトナムの大統領が入場しメインゲストとの挨拶がかわされた。そして何とかっての敵グエン、バンチュー 少将がいて大統領と握手を交わしているではないか。そしてお互いに親しく歓談を始めたのです。時の流れは過去を流し去って今は同じ民族としての血のつながりでしっかりとつながっているのでしょう。 この時の訪問で確かベトナム政府は 100憶円程の契約が成立したとその後の報道があった。この元首の訪問は経済外交のいいチャンスなのですね。安部総理大臣が今回のロシヤ訪問にも経済界から百名以上の人が参加しているので国家元首の経済外交は確かに効果があるようです。このレセプッションにはIntel のエグゼクテブが参加しておりこれがベトナムにインテルの工場を作るきっかけとなったようです。ベトナムは 戦争中に2百万人が死んだというそのせいで今は20代30代の人が大半です。ベトナム人は勤勉で真面目にはたらいています。 親日であり、又日本人の気質に良く似ています。中国人に対しては警戒心が強いようです。ソフトウエアーの開発がさかんです。 そのうちインドなどのようにソフトウエアーの産業が大きくなるのではないかとおもいます。日本の企業も沢山進出し工場を建てているようです。中国の不安定さ賃金の上昇をみるとベトナムは労働の質、従業員の安定性などを見る限り今後発展が期待できそうです。日本企業が沢山進出してくることでしょう。

東京の桜

3月25日San Francisco から目黒に帰ってきた。目黒川の桜はもう最盛期でした。何時もより2週間は早い開花です。何だか異常気象で夏のような暑さと冬が交互にきたそうです。何時もは4月初めに目黒に帰ってくるのだが今年は3月末に来てよかった。それから又雨が激しく降る日が続いたり、又夏みたいな日になったり桜も大変な気候に悩まされたのでは。目黒川の両側はその支流五反田近くまで桜の名所となっている。

我が家から毎朝1時間程散歩して桜をたのしんでいる。
日本はほんとに桜がすばらしい。桜の下で会社の連中と酒を酌み交わせて歓談している姿は何となく微笑ましい。
これが日本のコミュニケイッションの重要な一つなんだろう。
東京の桜の名所千鳥が淵と靖国神社にもいってみた。


目黒川の桜

願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ 西行
おしなべて 花の盛に なりにけり 山のはごとに かかる白雲
山家集 西行


目黒川の桜

桜花今ぞ盛りと、人はいえど、われは寂しも、君としあらねば、
大伴 池主

花の色は移りにけないたづらに わが身世にふるながめしまに
小野小町

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり


靖国神社には桜が にあう、

しき島の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花
本居宣長


千鳥が淵の桜

久方の 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ
紀 友則

目黒川 花のピークから 2週間その間 嵐の様な強風と雨に花はすっかり落ちでしまった。
そして緑の葉が鮮やかに夏をむかえようとしています。

昨夜(4月6日)の強風で花びらが川面に浮かんでいる。ソメイヨシノ と八重桜の新し花弁が混ざってみずもに美しい綾をなしてくれる。ソメイヨシノの終わりを告げて八重桜が変わって春をつげてくれる。

久方の 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ
紀 友則


目黒川のしだれ桜

自然の営みはみごとです。 ソメイヨシノがすっかり花を落としたらリレイ 競争のバトンタッチのように
八重桜がさきみだれました。

いにしへの 奈良の都の八重桜けふ九重に にほひぬるかな
伊勢大輔(いせのだいふ)

我が故郷与論じま

久しぶりに与論島を訪れた、与論の田中教育長から島の人たちと与論高校の後輩たちにSilicon Valley の話をしてくれと依頼されたので、母の一周忌でもあったので墓参りを兼ねて尋ねることにした。与論島は周りわずか25km、人口5000名の小さい島です。
島の一番高いところが90メートル でそこに城あとがある。ここに琴平神社があり島の中心となっている。実家がこの神社の近くにあり、懐かしい場所である。
琴平神社の絶壁の崖を降りていけばシゴーの海がすぐそこにある。この海が我々子供たちの遊び場であった。しまはサンゴが隆起してできた島なのでどこもサンゴの石ころだらけです。シゴーに行く途中の崖がサンゴの岩棚になっておりここが昔の風葬のあとであった。

空からの与論島

与論島は今では火力発電所がありさらに水道が全島にひかれている。
サンゴでできた島なのでいたるところに鍾乳洞がある、実家の裏にもあった。
家の近くには“ヤゴー”と言う鍾乳洞があったここはきれいな水が自然に出来たサンゴの雨桶(とい)を通ってながれていた。この水が近所の人たちの飲み水であった、一番先が飲み水を汲むところでその次が野菜などをあらうところ、そのあとが洗濯する場所であった中は結構広いので子供たちは一番後ろで水浴びをしていた。当時はふろが我が家にはなかったので何時もここで水浴びをしてふろ代わりにしていた。お袋は毎日ここに飲み水を取りに桶に水を入れそれを頭に載せて2,3回往復していた。そしてそれを大きな水がめに入れて毎日の飲み水と炊事の水となっていた。”ヤゴー“は家からほぼ100メーター程のところだったが重たい水桶を頭の上に乗せて運ぶのは大変な作業だったとおもう。
数年してから兄貴がドラム缶を手に入れてきてそれに水を入れて風呂を沸かしてくれた、いずれにしてもヤゴーからの水が必要なので何回も風呂に入れるわけではなかった。
ヤゴーの水浴とシゴーの海が我々のお風呂場であった。
今は各家庭に水道がひかれ立派な風呂もついている。隔世の感がある。
ヤゴーも今は見ることもなく忘れされている。

城跡から沖縄本島が見える。

久しぶりの島なので島を一周しようと想いたった、周囲25km、5時間もあればあるけるので茶花の町をあとにしてあるきはじめた。しばらくすると後ろから来た車が止まってどこに行くのかと言う、グスク まで行きますと言ったらそれは大変だ送ってあげるから乗りなさいという。いや歩きたいのでいいですと断るが何としても連れて行ってあげると言う。多分自分の仕事があるはずですが。何べんもことわっても兎に角乗れと言うついに諦めて乗せてもらうことにした。さてグスクに着いたからもう後は車はこないだろうからゆっくりと昔の畑道をのんびり楽しめるなあと思ってあるきだした。20分もしない内に又車が来て止まった、そしてどこに行くのかと聞く大金久の海岸まで歩きたいのだと言った、そんな遠くまで大変だから乗せていくから乗れと言う。色々失礼にならないような理由を並べたが又これ以上ことわったら親切を無駄にしそうなのでついにお願いして乗せてもらうことにした。ついに私の与論一周の夢は実現しなかった。この次はなにがなんでも島一周したい。或いは与論一周マラソンのある時にもう一度たずねたい。

室生犀星 の詩、
ふるさとは 遠きにありて思うもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

ふるさとは乞食になったら帰りたくないと言う、しかしこの島は乞食になった時にも帰ってこれる島ではないだろうか。

与論島何の取り柄もない島ですが。ここに帰ってくると落ち着けるし、何もしなくても心が安らぐ、故郷と言うものはそんなものなのでしようね。
作家の島尾敏雄さんは、与論に2回ほどたずねたようです。 その最初の訪問時にエッセイをのこしています。

島尾敏雄全集から
私は都会に生まれそして育ったが、自分を手がかりにして人間を知るための方法をその都会の中では会得しにくかったように思う。すべての人間世界の[進歩](とひとまず言っておくが)の中でその[進歩]の調子に疑惑の気持をいだき始めてから、ある意味ではあとづさりの方法をかんがえた。

戦線を整理し始めると、自分がたしかにつかみとれるかぎられた世界(この場合かぎられたというのは, 平面的な広さのことを言いたいのだが)私の目のまえに大きくすがたをあらわしはじめた。そのとき私には辺地がたいせつな意味をもちはじめる。都会は魅惑を内にしたまま色あせてこわばりはいめ、辺地はやわらかく心象を広げてくれる。

その自分の責任を管理で来るだけの広さ(実際にはせまい場所)に自分を重ねて投入することによって、私ははっきり自分を確かめることに希望をもつだろう。その時すでに。現実のせまさ、その境界を越えてふくらみ始めるだろう。私の心象のなかでは。与論島は、狭い小さな弧島ではなく,なにかいいあらわすことのできない広さとしてとらえられている。
[島尾敏雄の与論島より]

作家の森瑤子がこの島に住み着いたのもこの自然だったのでしょう。
親戚の内から抜け出して“シゴー“の海に裸で飛び込んできた、泳ぐと言うよりは浴びてきた。どこの海よりもきれいな 澄んだ海でした。

百合ガ浜と言う潮が引くと浜辺から1.5メトル程先に突然砂浜 が現れるそこまではボートで連れてくれるし或いは泳いでいける。素敵な砂浜です。そしてそこには星の砂がいっぱいあります。ある夏に息子を連れてお袋に会いに行く、息子に親父の故郷を見てもらいたくて連れていいた。先祖の墓参り自分の過ごして島をじっくりと見てもらいここが私の心のふるさとであることを認識してもらうためにつれていいた。同じく娘を次の年につれていった。
今は息子はアメリカで医者をしている。 娘はパリでTV向けの広告用の映画の制作をしている。この何もない自然の島を二人とも楽しんだようだ。

与論小学校のガジュマルの木

昔、通った与論小学校によってみた。校庭の隅に大きなガジマルが昔と変わらない姿で立っていた。昔はよくこの木の下で遊んだものでした。
校長先生に会って話しを聞いた、学校にはすでにFiber が引かれ子どもたちはNet で色々勉強していると言う。この大洋の孤島にまで文明の利器が来ているのです。どんな子供たちが育つのだろうか。

島には大きな産業がない、昔から砂糖黍は生産されていた、しかし作付面積はたいしたことはないと思う。野菜を植えたり、いもを植えたり、落花生を植えたりしないといけないから
それほど砂糖黍に作付面積は裂いていないでしょう。今はほとんどの農家が牛を飼っているらしい。役場の人に聞いたら島内で牛が5千頭居ると言う。島の人口と同じです。
牛がある程度育ったらこれを松坂とか神戸に送り其れが松坂牛 などになるそうです。
牛がある程度与論の経済に貢献しているようだ。

城跡に建てられた日本復帰の記念塔

奄美が日本に復帰した時は日本の最南端だと言うことで大変な観光客でにぎわったようです。夏ばには 何万人と言う人がスキンダイビング にキャンプにきたようです。
今は最南端と言うキャチフレーズ がなくなり元の静かな村になっているようです。
与論の海はとてもきれいです。ハワイなどよりもはるかにきれいです。この自然をゆっくりと味わってほしいものです。

島にはソテツがあります。赤い実をつけます。栗のように硬い皮でおおわれ中にでんぷんの白い実があります。ソテツの実を鉄のガイドの上におき柄のついた刃物で二つに割り中の実を取り出して日に干して毒気をぬきます。十分に乾かさないと毒にあたります。戦争中はこのソテツの実で島の人が飢えをしのんだのでした。
このでんぷんをおこめと混ぜておかゆにしたり或いは麹を混ぜてミソをつくっていた。
おばちゃんとこのソテツの実を割る手伝いをよくしたものでした。今はこのソテツの実も忘れ去られてせいぜい 田端義雄の“赤いソテツの実も売れるころ”の奄美の歌に残っている位ですね。

琴平神社では旧暦の八月十五夜の祭りがおこなわれる。島中の人が御馳走を作りみんなで十五夜を祝う、相撲大会も盛大に行われる。
なお十五夜のおどりは 琉球と奄美の文化が入り混じって特別な趣の踊りとなっています。
このため、重要無形民俗文化財として国が指定したようです。

与論の十五夜踊り

私が生まれた時は 日本は日中戦争のさなかであったそして1941年には日米戦争に突入していた。戦争が進むにつれて日本は段々と敗戦の色がこくなっていた。
B29が日本全土を絨毯爆撃を繰り返し多数の一般市民が殺されていった。
沖縄本島も米軍が上陸する前に同じように絨毯爆撃で大勢の人が死んでいった。
与論島は沖縄の最北端辺戸岬からわずか20キロメートル です。
戦略時に価値のない島ですから米軍もこの島には目もくれていなかった。日本の軍隊もほんの数十名位しか駐屯していなかった。

沖縄に米軍が上陸する前の一週間は 空母や戦艦など数十隻から毎晩のように艦砲射撃が行われていた。与論からは毎晩の艦砲射撃が鮮やかな光となって続いていたのをみることができた。まるで1メートル置きにそれが1キロメートルから 2キロメートル程並んだように砲火を浴びせていた。我々は比較的大きな(多分100名程は、はいれたとおもう)鍾乳洞が避難所であった。
子供たちは一番奥に集められて大人たちは危険がないと判断されたら村へかって行って仕事をかたずけに行っていた。
鹿児島から沢山のゼロ戦が飛んできて敵艦に体当たりして敵艦を破壊したのですが。又燃料が尽きて敵艦にたどり着く前に海に落ちたゼロ戦がたくさんあったと大人たちがはなしていた、のを何回かきいた。このころはゼロ戦の燃料もほとんどなくなってしまっていたのでしょう。
それから毎日のように艦砲射撃の鮮やかな光の軌跡を毎日見ることになった。
艦砲射撃は7日間続けれてその後に米軍が上陸した。
この戦いで日本の軍人および民間人二十万人が命をおとして。米軍もまた一万二千 の軍人が死亡し三万八千人が負傷したのです。尊い人命がうしなわれたものです。
沖縄を占領するのが目的だったし、又与論島の戦略的な価値がないので与論えの攻撃はなかった。
今思うと母が毎日神棚に天照大御神の写真を掲げて毎日のように日本軍の勝利を祈っているのを聞いていた。日本は神の国であった。
何はともあれ子供のころはなぜ戦争になったのかなど知る由もない、ただ 鬼畜米英と言う言葉だけは良くきかされた。

終戦(1945年) の時は6歳でした。そして次の年に与論小学校に入学した。校舎は焼けてなくなっていたので村の人たちが建てた掘立小屋 四隅の柱を地面に立ててそして横棒を通して固定し屋根と壁は萱ぶきであった。
まず学校が始まってから全校の生徒がみんなで浜辺に砂を取りに行ったそしてその砂を床ならぬ地面にまいてその上に座って勉強した。机はもちろんないのでみんな家の人にお願いして空き箱で簡単な机を作ってもらってそれを学校に持って行ってそれで勉強した。
それから数年してからちゃんと床のある教室ができた。
与論小学校では4年生までいて4年生の後半に 名瀬市に移りそこの名瀬小学校に転入した。
奄美の島々は海を隔てて孤立しているので各々が独自の方言を持ちお互い共通したところが少なかった、特に与論と名瀬ではほとんど外国のようだった。名瀬にわたってしばらくは方言がわからなくて苦労した。そのころから標準語を使いましょうと言うことになっていましたが。子供たちはまだまだ方言のほうが使いやすかったようです。

与論では犬を見たことがなかった。名瀬に来てから大きな犬を見てびっくりした。おまけに終戦直後食料難であったので犬達は大変飢えていた。だから目がらんらんして輝き子供なとかみついて食べてしますのではないかと思う程怖かっただから犬を見るとこれは大変だと目を合わせないように犬が通りすぎていくことをひそかに祈っていた。
そんなわけで今でも犬は怖い。

終戦後奄美は沖縄と共に米軍の信託統治となった。日本本土との交通が遮断されました。
日本にはかってに行けなくなったのです。当時は本土に行かなければならない人達はどのようにしていったのでしょう。ビザなんてなかったとおもうし。
大学え行く人や本土に仕事に行く人は密航で島をはなれたらしい。勿論米軍につかまれば罪人になるわけです。そんなわけで島民全員が日本復帰の大運動を展開したのでした。
島出身の詩人の泉 芳郎氏 が先頭に立ってこの運動をもりあげました。
中学生であった私もブラカードを持ち毎回の島民大会に参加したものでした。民族の団結と言うのは大変強いものです、全島の99%が参加した署名運動などもその強さをしめしています。1953年トルーマン大統領の時のダレス国務長官の声明により1953年12月25日にクリスマスプレゼント として奄美が日本に復帰したのでした。中学2年生のときでした。
盛大な提灯行列で島中の人たちが祝ったのでした。
沖縄の復帰はそれからさらに遅れること19年近くになってニクソン大統領の時に佐藤栄作首相との間で日本に復帰することになるのです。
沖縄では戦争中に多くの人が殺されそしてまた米軍の基地を残しいまだ大変な苦労を強いられています。アメリカの基地がどれほどアメリカのアジヤ政策に必要だったかはその後のベトナム戦争或いは中国と台湾の緊張時などで証明されています。そして今又中国との尖閣島の問題を見ても今沖縄に米軍がいることがどれほど助けになっていることか。
しかしとは言っても沖縄の人たちがどれほどこの為に苦労を強いられていることか。
これからの日本の政治はこの沖縄の苦労をどのように軽減していくかが重要な課題ですね。

名瀬では中学校、高校と勉強し、それから東京に出て都立大学で電気工学を勉強し、将来大きな発展が期待できる半導体産業に就職しました。
与論島はサンゴが隆起してできた島なのでハブ(毒蛇)はいなかった。
奄美大島は 古生層の島でハブがたくさん生息していた。ハブの血清ができる前は年間数名の人が死んでいた。だから決して藪の中とか山にはいかないようにしていた。高校3年間で確か一人の生徒がハブにかまれて死んだ。
奄美の中で大島本島と徳之島にはハブがおり喜界島、沖永良部島、与論島にはハブはいなかった。この3つの島はサンゴの隆起してできたしまなのです。だから高い山がない。
東京に出てからはどんな藪でもどんな山でもハブがいないということで大変山に行くのがたのしみでした。そんなので山に魅せられてついには日本中の山を彷徨したものでした。

与論での子供たちの遊びはもっぱら海でおよぐことでした。
魚釣りをしたり貝をとったりでした。
海には沢山の熱帯魚がおよいでいます。我々はその群れの中に糸を垂れて魚が食いつくのを待っているわけです。熱帯魚は美しいのですがちっとも美味しくない。ただ魚を釣ったと言うよろこびだけでした。
サンゴの海は潮がある程度引くとところどころに小さな湖みたいなのができる。この湖を泳いで先のサンゴの上まで泳いで休む或いはそのサンゴの上にあるツブガイ などをとってくるのです。 モリを持って行って岩のなかにいる魚をつくのですが、まずとれないウツボがいるときは怖さが先にたちこれをモリで仕留めるよりは向かってきたらどうしようかと恐れてしまうのが先に立って逃げてしまったものでした。
このサンゴの湖で子供たちは少しずつ泳ぎをおぼえていくのでした。

与論はサンゴの隆起で出来た島なので島中がサンゴの石がごろごろしていました。こんなところを皆裸足であるいていた。足の裏がしっかりと鍛えられてじょうぶになっていたのです。
おばあさんが 草履の作り方教えてくれたので自分の草履を作ってはいていたがすぐすり減ってしますので結局はだしにかえっていく。
足を怪我してもつばをつけておさえておくだけでした。そのうち自然になおっています。
今だと10針位縫わないといけないけがもそのままで海で泳いで消毒して自然になおっていました。
与論は陸から約1.5キロメートル 位までサンゴの岩に囲まれているこの為に船は桟橋には横付けにできない。船と言っても40トンとかあるいは50トンの漁船です。この為名瀬から与論に来る船はおきに碇をおろし、ハシケが迎えに来る、冬などは波があらく本船からハシケに移るのは大変危険なしごとでした。子供のころは身軽だからかんたんにのりうつれたのですが。老人や女性は大変でした。
ある程度の船が横付できる岸壁が出来たのはそれから数十年あとでした。

与論の方言、与論或いは奄美の方言は奈良時代或いは平安時代の古語がそのまま方言として残った言葉が多い。
たとえばこんにちはとは ”ウガミショウラ“ と言うこれは”拝みたてまつる“なのです。
私は今はほとんど方言を忘れています。ありがとうと言う方言をおもいだしてお世話になった田中 教育長に”トウトガナシ“とお礼を言ったら大変喜んでくれてそして島の方言を何とか残そうとして与論の方言で諺になっているのを集めて子供孫たちに伝えたいと努力されています。掛け軸を作りこれを各家庭にくばり子供たちにおぼえてもらおうとしています。
その中の一つを紹介します。

打(ウ)チジャショリ ジャショリ 誠(マクトウ)打(ウ)チジャショリ 誠(マクトウ)打(ウ)チジャシバ、 何恥(ヌンヌハジ)カチュンガ

これは代表的な与論の古謡の一つであり、[打ちだせ打ち出せ、誠を打ち出せ,誠を打ち出せば何が恥ずかしいことがあろうか。否何も恥ずかしいことはない。
英語の説明がある。
Don’t ever be ashamed, if you are sincere and honest.
良いことわざです。是非こどもたちがこれを何時も口ずさんでほしいものです。
昔は論語の一節を唱えながら心に刻んだものです。
“遠方より友来たり又楽しからずや、或いは 、子曰く、徳は弧ならず、必ず隣あり”。

我がこころのふるさと与論島、これからは何回も行きたいですね。

奄美群島

そして 我が人生のマインド マップ

Norman Mineta さんのこと

経済Society でNorman Mineta さんに Life Time Achievement Award を今年の新年会でさし上げることになりました。その席で講演をしていただきました。Mineta さんは日系二世としてSan Jose で生まれた。2000 年から2001年まで Clinton 大統領時代の商務長官として初めてのアジア系の閣僚となった。されに請われてBush 大統領時代の運輸長官として2001年から2006年まで閣僚として活躍された、御存じのように2001年9月11日の 9.11の大変な時にスピーデーな対策を打ちその後の空の安全をかくほされたのです。この時Mineta さんは次のHijack を避けるためにすべての飛行機の緊急着陸を命じた、そうして空の安全を保つための空港のセキュリテイを強化し、空港の警備員や、荷物の検査官の教育など大変短期間になしとげたのでした。

日系人として生まれて大変な苦労をされてこられました。1941年12月4日の日本軍による真珠湾攻撃によって日系人特に太平洋岸に住んでいる日系人は本国にいろんな情報を流したに違いない、そしてアメリカに対する忠誠心がないのでは、としてすべての日系を祖先に持つ人達を強制収容所に入れます。有名なのがカリホルニヤ のManzanar ですが。Mineta さんの家族はワイオミングのハートマウンテン の収容所にいれられます。

総勢11万人にも上る人たちが収容されます。1946年戦争が終わってから収容所から解放されますが。たいていの人たちはもと、持っていた土地や家をうしなっています。そしてみんな無一文から再度の努力で頑張ってきています。Mineta さんは1975年から1995年にわたってカリホルニヤ選出の下院議員として議会で活躍します。1980年にいたりJimmy Carter 大統領の時期になり日系人を収容所に入れたのは正当性があったかどうかの調査委員会が設けられて“個人の正義か認められなかった”と結論ずけられた。ここに至るまでにMineta さんを始め日系の上院議員及び下院議員が色々努力された。Regan 大統領になって正式に政府としての謝罪と $20,000 の保証金が交付された。これもMineta 議員とその他の日系の議員達の努力によります。

今回の東北震災で日本人の我慢強さそして礼儀正しく 秩序正しい行動に対してMineta さんは大変感心されていたそして当人もそのような精神を持っていることに誇りを持っていらしゃる。そして、日本人の我慢、そして災害に対して仕方がないという気持ちそれが正しい行動に導いているのだと言っておられた。やっぱり親或いは祖先から受け継いだ文化がまだえんえんと続いていることに矜持をもっていらっしゃる。兎に角大変立派な政治家として活躍されたMineta さんに感謝したい。新年会は 300名近くの人たちが参加してくれました。Mineta さんの話に感激した人たちが会の終わりの時間を過ぎてもMineta さんと一言話をしようと列が少しもなくなりませんでした。ついに最後まで参加者と歓談していただきました。我々日本人としてこんな素晴らしい先輩を持っていることは大変うれしいですね。最後にDasher 先生から参加者に何かひとことお願いしますとの質問に対して、自分はSan Joseの市会議員さらには市長にもなりました。それは絶えずソサエテイに参加することでなにか社会に貢献できるのだと言われて、皆さんも是非色んな社会的な活動に参加することを勧めてていらしやいました。そして日本の若い人達にお願いとして是非アメリカの大学に留学してくださいと言われた。2011年の外国からの留学生は 中国、インドからの学生が10万人を超えるのに日本からはほんの2万人だったそうです。是非倍ぐらいの学生に来てもらいたい、そうでないと中国インドの若者に負けてしまうと心配しています。 若者よチャレンジしてみてください。アメリカだけでなく或いはインドなどに留学するのもいかがでしょうか。

経済ソサエテーの今年の目標は “Redesigning US-Japan Business for the next Generation “です。峯田さんはこの目標は大変重要なことです、是非がんばってください。と応援していただきました。峯田さんは色んな国家的な賞 或いは表彰を受けておられるのですが。事の他今回の経済Society の Life Time Achievement を大変よろこばれていました。だから最後の一人まで話を聞かれてみんなを激励してくれました。我々も今年の目標のために努力しないといけないなあとおもいました。Chimmy Shioya 会長を始め会を支えてくれたボランテヤーの皆さんありがとう。
来年も良い新年会を企画してください。


日系人が収容された収容所の所在地


Mineta 議員え Life Time Achievement の盾を送るChimmy Shioya 会長


Mineta 議員と 猪俣サンフランシスコ日本総領事御夫妻と


鏡わり。


Reagan 大統領がCivil Liberties ACT 1988 にサインをする  
Mineta 議員は左から二人目そのほか日系の議員がみまもった。

明治維新のカギは奄美の砂糖にあり

大江修造(東京理科大学教授)

先日小平さん 達が始めたエンジエル投資家の育成を目的とする財団法人アーネスト育成財団にシリコンバレイの活動に関する講演をしてきました。グループの中に奄美出身の大江修造、理科大学教授がいらした。講演の後で彼が書いたこの本をいただいた。子供のころ(6,7歳のころ)、与論島でサトウキビを刈り取り圧搾機にかませて砂糖汁を取る作業の手伝いをしたことがあった。当時の圧搾機は回転部分に長い棒をつけてこれを牛にひかせてサトウキビを回転ギヤーにかませて砂糖汁を回収する方法でした。そんな思いでを浮かべながらこの本を読んだ、そして奄美の黒砂糖が薩摩の財源になりそして明治維新の財源になったことを知り大変感激しました。我々の祖先が苦労して日本が外国の植民地になるのを避けさらには明治維新の資金源を提供したことを知り祖先の苦労に改めて頭がさがりました。
砂糖キビは1609年頃奄美の人が中国から苗を持ち込んで始められた。丁度薩摩が奄美の支配を始めた頃にあたる。以前は奄美は琉球の支配下にあった。また当時は琉球は独立した王国であったが。中国の明に朝貢していた。砂糖黍は奄美以南の亜熱帯でしか成長しなかったこのため奄美、琉球が黒砂糖の産地であった。慶長15年(1610年)に100斤の生産数量であった黒砂糖は全島で生産されるようになり、1805年には700万斤となった。当時砂糖は外国から入ってくるだけで高価なものであった。このため薩摩はこの黒砂糖の販売或いは琉球との密貿易によって多大の資金を得た。

徳川時代の政権維持のための施策によって大名達は多大の出費を強いられるプロジェクトを課されていた、その一例が宝暦の治水工事であった、薩摩藩はこの工事のために大変な出費をよぎなくされている。この木曽川、長良川、揖斐川の工事は難工事で薩摩藩は900名以上の人を派遣してこの工事にあったそして 85名の人が死亡した。 このためこの費用として40万両という借金を大阪商人から借りている。この担保が奄美の黒砂糖であった。当時の黒砂糖の生産数量はまだ少なかったので薩摩藩として砂糖の増産を奄美に強要した。このため逆に奄美で大飢饉がおこってしまう。そしてこれを契機に黒砂糖の総買い上げを藩が実施して益々の搾取政策が実施されるのです。

日本が外国の植民地化を避けられた理由。
ペリー提督が来航し日米和親条約が結ばれる7年前にすでに琉球王国では開国させられていた。琉球、奄美には度々英国、フランスなどの軍艦が度々訪れて水や食料をもらいそしてまた無理やりに条約に調印させられている(流球の開国)。これが薩摩藩が外国の驚異を恐れそして軍艦の購入或いは鹿児島湾の方々に砲台を建設して外国への備えをしたのでした。

薩英戦争(生麦事件)
島津久光の行列に英国人 リチャードソンらの4名がぶつかりそれを薩摩の藩士が リチャドソンを無礼者として切りつけてころしてしまう。英国はこれに対して賠償金十万ポンドと犯人の処刑を要求、幕府は十万ポンドの賠償金を払うが薩摩藩は犯人の処刑を無視しました。このため英国は7隻の艦隊で鹿児島湾に投錨します。交渉のために双方で会談が行われたが物別れになり戦闘が始まり薩摩は砲台からの攻撃で英国の艦船二隻を沈没させた。一方薩摩側は砲台を破壊されさらに市街地が砲弾を受け焼けてしまった。英艦の砲弾の到達距離が日本のものよりはるかに遠く薩摩藩の者を驚かせた。これが薩摩藩が後に英国から 軍艦を買うことをうながしたのでした。この戦闘で薩摩側も多くの軍艦を沈められてしまった。折からの天候不順のため英艦も思うように戦えず結局英艦は横浜に帰還してしまう。薩摩の実力を見てこれはこのまま戦えば不利とみたようです。このため薩摩の実力を見て幕府よりも薩摩藩との交渉に重きを置くようになります。 その後薩摩は英国から軍艦を買うことになり逆に友好な相手となり大政奉還への相談或るいは外国との対応などについてのサジェスション などをもらったようです。

この戦いで薩摩藩は外国の技術の進歩に驚き軍艦を買いさらに Globalization に目覚めて数多くの藩士を英国に留学させるのです。(今のSilicon valley へ日本の大学生を送るのにていますね。)当時の黒砂糖からの収入は年間20万両ほどまでにふえていた。 黒砂糖以外の藩の収入は一万両ほどもなかったから黒砂糖が薩摩の資金源になったしこれば明治維新を実現するための大きな資金となったのです。この頃の薩摩の 支出額は 軍艦船舶 126万両、留学生派遣 7万両、大砲など 19万両、合計 152万両 であった、奄美の黒砂糖が担った役割は凄いものでした。この黒砂糖を確保するために 薩摩藩は生産の全量買い上げを行い徹底的に搾取政策を実施したのでした。また江戸への藩兵500ー700名の派遣にも多大の費用がかかっていた。また薩摩から江戸への藩兵の輸送も春日丸という軍艦があったからこそ出来たのです。もしとう時の陸路を馬で出かけていたら多分一ヶ月はかかたでしょう。そうすれば鳥羽伏見の戦いにも江戸城無血開城にも間に合わなかったし、明治維新は実現しなかったでしょう。或いは日本が中国のように諸外国の植民地となってしまっていたかもしれない。テクノロジーの進歩そしてGlobalization は今も昔も変わらないですね。今こそまたもっと真剣にテクノロジー の進歩またGlobalization を考えないといけない時です。

当時の鎖国の世界から外に目を向けていた薩摩の先見の明はりっぱでした。また留学生を送る英断もたいしたものです。流石に島津久光 また斉彬 の藩主 の英明にもよるのでしょう。

西郷と奄美
西郷隆盛は三回奄美に島流しになっている。最初が奄美大島の龍郷村、二度目が徳之島そして三度目が沖永良部島である。月照とともに自殺は測ったが無事助かってその後奄美に島流しになっている。この奄美でのしまならしの三年間が西郷にとってその人間性を磨きまた精神的な支柱を得ることができたようです。特に中国に留学して奄美にいた 岡程進儀 に漢詩或いは漢籍の指導を受けている。その後2度3度の島流しに合うがこの時こそまた西郷の人間性をさらに大きくする機会となった。かれは行李にいっぱいの漢籍を詰め込んでこれを熟読して人間を磨いたのでした。

本書の著者の大江さんは美しい自然、きびしい自然。それに愛加那(島で結婚した妻)を始め岡程進儀、得藤長など多くの人々との出会いで人間性を高めていったと述べています。まさに同感です。

奄美大島は終戦後1946 に沖縄とともにメリカ軍政府の下で日本と切り離されてしまった(二,二宣言)日本本土への交流が遮断された、本土に行くこともできなくなったのです。(いわゆる外国になったのです)。 翌年から日本復帰のために島民運動が展開されました。その後奄美大島日本復帰協議会が結成され(詩人の泉芳郎氏が議長)そして村民を上げての復帰運動がつづけられた。八年後の1953年の12月に日本に復帰したのでした。私は中学2年、及び3年の時にこの民族運動に参加しました。島民の99.9%の署名が集まったときいています。高校に入るときは日本に復帰しており卒業とともに日本にも行けたし大学に進学することもできたのでした。軍政府当時は 通貨は日本円ではなくて B円という通貨がつかわれていました。

兎に角奄美の黒砂糖が薩摩の資金源となり幕末の薩摩の活躍をささえたのでした。篤姫の徳川家への嫁入りの費用にもこの奄美の黒砂糖が大いに貢献していたのでした。薩摩の奄美の黒砂糖の政策はひどいものでした。さらに島民の扱いを徹底した差別待遇で行つた。黒砂糖の全生産量をやすい価格で藩がすべて買い上げ島民にはその価値がどれほどあるかも知らしめなかったのです。一種の税金みたいにしてすべて搾取したのでした。そして明治の世になっても県が買い上げておりそれに気づいた島民が黒砂糖売買運動などを起こしその後にやっと島民が自由に売買できるようになったようです。

今も島民の中に影をのこしていこのような黒砂糖政策での差別待遇が奄美の人たちのあの物悲しい島唄の響きとなったのでしょう。沖縄の島唄のあの明るさとの差となっているのでしょう。

私は与論島の出身なので与論島は島が小さいのであまり砂糖黍は作ってなかったのでしょうね。
奄美大島と徳之島そして沖永良部島が主な生産地だったようです。喜界島の記述を見ないので喜界島も当時は砂糖黍はなかったのだろうか。

1954年日本復帰後に日本政府は奄美復興特別処置法を制定して、確か100億ぐらいの復興資金と投下したようにきおくしています。当時大島高校から数名が東京の大学で勉強していた。夏に名瀬市に帰るたびにみんなで一体この復興資金がどのように使われているかをみんなで島を回って調べてみようではないかと、5,6名でキャラバンを組んで島々を回ることにした。私が登山の経験があるのでラジウスなどの自炊道具を持ち島の学校の宿直室にお願いして寝泊まりをして徳之島、沖永良部、与論島を見て回った。そして復興資金がどのように使われたかをしらべました。やっぱり復興の主なターゲットが黒砂糖の生産のようでした。大きな砂糖工場ができていました。島の人たちにこのような工場を建設する資金もなかったでしょうし、結局は鹿児島の企業が進出してこの工場を経営しているようでした。島の雇用を増やしたことは確かかもしれない、或いは砂糖黍を売ることで収入を得ていたのでしょう。しかしはたしてこの新しい工場が昔の値段よりも高くで買ってくれたとは思われないし、それはまた、ある意味では資本家の搾取に近いものだったかもしれない。ただ徳之島には大きなパイナップル畑ができていたこれは大きな変化だし、亜熱帯の農産物として一つの産業となっているとおもう。2週間のキャラバンをおえて今度はこの探索旅行記を本にすることにしました。 そして大阪で成功されている奄美出身の社長の会社を訪れて寄付をお願いしてガリ版刷りのほん“島” を発行するこができました。 後にこれが南海日日新聞に取り上げられて数回にわたり掲載されました。しかし当時の我々は表面から眺めただけで離島の苦しみ離島の楽しみの真髄に触れることはできませんでした。ただ少なくとも大きな砂糖工場が数軒できたのが復興の証ぐらいの認識に終わったとおもいます。

兎に角この大江修造教授の 本をいただく機会を得てもう一度我が故郷にもう一度思いを巡らす機会ができてうれしく思います。

かって島尾敏雄さんが 名瀬の文化会館の館長をされておられるころ数冊の本を出版されたその一つが“離島の悲しみ、離島の楽しみ”であった私がまだ大学生であったころ出版された、文学者の目からよく離島を見つめてくださった。又奄美の事をよく理解し奄美を愛して下さったとおもいます。戦争中人間魚雷の隊長として奄美の加計呂麻島で其の日が来るのを待っておられてそこで終戦を迎えその後、奄美の女性ミホさんと結婚し、名瀬市に移り住んで、文筆活動をつづけられた。高校生のころに数回お目にかかったことがありました。目のすごく澄んだ方だったと記憶しています。 島尾さんは “死の棘”で昭和35年に芸術選奨を受賞します。そして文壇での地位をきずいていかれます。島尾さんは又奄美の歴史に興味を持ち古書を集めて奄美の歴史に関する本なども出版されています。その中のひとつが “名瀬だより” です。私は名瀬中学、大島高校と名瀬ですごしました。今回の出逢いからアマゾンで島尾さんのこの本を手にいれることができました。名瀬のことハブ(毒蛇)の事そして島の精神生活などがすばらしい洞察力でかかれていました。奄美は島尾さんという作家を魅了することで素晴らしい宝物を得たものです。或いはミホさんという女性と奄美が島尾さんという人を引き付けたのでしょう。島尾ミホさんも又作家として数冊をのこしています。 私の 故郷の探究はこれから始めなければなりません。

北八彷徨

我が心の山小屋 高見石、学生の頃は毎月のように高見石小屋にいったものでした。特に秋には カラマツの葉が黄色に色づくころに出かけたものです。当時は薩多さんが小屋主であった、その後小屋主が代わり現在の小屋主になったようです。アメリカにわたり数十年が過ぎ何時も思い出すのが故郷の与論島と 高見石小屋です。故郷と言うのはどうしても忘れ得ぬ存在ですね。これと言って特徴のあるところでもないのに何時もどっかで思い出されてしまうものです。与論島は小学校4年生までしかいなかったのですが。忘れ得ぬところですね。まるで自分の性格を形成してくれたようにおもわれます。小学校の校庭のガジュマル と浜辺の白い砂そして海で見る熱帯魚が心に残っている故郷です。

高見石小屋もまたかわらぬ元の景色のままでいつまでも昔を思い出させてくれる。だからただここにきてもはや知らない人たちと一夜を過ごして行くだけで満足して又明日からの生活に戻れるものです。日本に帰るたびに一度はここにきています。 それもここ数年からですね。それまでは仕事、仕事で何も見えない自分でした。 しかしここにきてこの素晴らしい山の気を少しでも感じてほしいと 若い人に声をかけてでかけています。今回は みんな忙しく児玉君だけが同行してくれました。

児玉君は子供のころ父親の仕事の関係でBoston ですごしていました。故郷の話になったら彼はBoston ガ故郷だと言う。なるほど小学4年までぐらいにいたところが故郷なのだなあとお互いに認識したものでした。高見石は渋の湯から2時間ぐらいで 登れるので気軽に来れるところです。又冬も小屋の人がトレイルをつけていてくれるので安心して冬でもこれます。冬は山を歩くのでなく山小屋にとどまって小屋の人たちや其の日に泊まりに来た連中と日ながらに話をして過ごすことが多かった。日本の自然はほんとに心をおちつかせてくれるものです。時たまお寺で座禅をしにいくのですが。この自然の中にいるだけでお寺で座禅をしているような感覚におそわれる。そして時折今やっている起業の事を静かに思い出すこともできる。だからこういう場所をもっているということはしあわせです。

このような山を歩くことによって宇宙の気が自然にわが身しみ込んでくるように思う。そんなわけでこの山は自分にとって英気をもらいに来るような場所です。北八は 南八 に比べてなだらかなやまなみです。 南のゴツゴツした急な山と違いなだらでやさしい山です。茅野から麦草峠 或いはピタゴラス ケブルカーで北横岳の麓まで行き後はなだらかな山裾を麦草に向かって行くとゆっくりした山歩きができ麦草ヒュテ、白駒荘 そして高見石などに泊まることができる。高見石から眺めると北八がゆったりとなだらに連なっていて素敵な景色です。白駒池が森の中にひそかに浮かんでいます。

高見石からのパノラマ、
児玉君がIphone 5 をもってきた、このパノラマ写真が Iphone 5 の作品です。180度カメラを回すと其の光景がすべてこのように素晴らしい パノラマ 写真にしてくれます。これが一つの売りものになっているのでしよう。 よくこのソフトの開発を頑張ったものだとおもいます。しかし電池がすぐなる、薄がたにしているので仕方がないのでしょう。 電池の開発は 次のIphone 7 位にひつようですね。いまの薄さで 倍に長持ちしたら又大ヒットになるでしょうね。 電池の開発者がんばってください。

夜の星空の観賞は素晴らしかった。
夕方 小屋の主人が手製の望遠鏡を出してくれてお月さまをみることができました。月の明かりで星が少し見えにくかったが カシオペヤ、 ペガサスの方形 アンドロメダそして白鳥がくっきりと見えた。明け方3時半ごろに起きてトイレに行った時全天素晴らしい星空が見えた。オリオンがそしてシリウス、双子が南の空に手に取れそうなところに煌々として見えた 北の方には北斗七星がすばらしかった。こんなに 沢山の輝く星を見たのは久しぶりだった。星になった神話の神々も日本の北八を眺めてそのなだらかな山並みをめでているようです。其のうれしさを一そう表し嬉しそうに輝いているのでしょう。すごく寒くてすぐに部屋にもどった。この素晴らしさを又数々の友人に味あわせたいとおもう。次回は今回こられなかった人たちとこよう。

高見石で児玉君と

帰りは久しぶりに佐久側に降りようと中山峠から稲子湯の方におりた。途中 緑いけと言うちいさな素敵な池があった、そばにシラビソ小屋がある、泊まってみたい小屋です。リスなどがたくさん来る小屋のようです。途中から カラマツが増えていくこの針葉樹は秋になると黄色に色づきそのうち葉っぱを落としていく今が黄色に色づくころでした。

落葉松林

白秋の詩がとても素敵に北八にぴったりです。


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。

来年の秋は又カラマツの林を心行くまで散策したいものだ。

タイトル:なぜ私はシリコンバレーで成功できたのか (電子書籍)
著者  :平強
定価  :400円(税込)

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