シリコンバレーのエンジェル投資ブログ

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平 強 / Tsuyoshi Taira

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1939年、鹿児島県奄美大島与論町生まれ。 日米の電子機器や半導体メーカーを経て、三洋電機の米国法人・サンヨー・セミコンダクター・コーポレーションに二十年勤めた。 その間、GMやIBMに電子部品を供給する道を開き、デジタルカメラの黎明期の技術開発に携わった。

96年8月、電子技術ベンチャーに投資するタザン インターナショナルを米国カリフォルニア州のシリコンバレーで設立し、「エンジェル投資家」に転身。 有望な技術を発掘しては投資し、経営にも参加して育てる。

スタンフォード大学のインド系学生の技術に目をつけたベンチャーでは、75万ドルの投資資金を調達・投資。 2年後、オンライン販売のアマゾン・ドットコムに2億1000万ドルで売却した。 その投資回収率、実に300倍。 インターネット・ブームで空前の活況を呈していた時期とは言え、最前線の戦いに参加して勝利を収めた日本人はほとんどいなかった。

2000年4月の米国ネットバブル崩壊後もエネルギーは衰えることなく、 現在は、米・欧・アジアにまたがって投資活動を展開している。

Tsuyoshi Taira is the CEO of Tazan International Inc, a Venture Capital and Management Consultancy Firm.

Mr. Taira has been involved with a number of Silicon Valley startup companies as founding investor/director including Atmel Semiconductor (NASDAQ: ATML), Pico Power Technology Inc (acquired by Cirrus Logic), Junglee Corporation (acquired by Amazon.com, NASDAQ: AMZN), Armedia (acquired by Broadcom, NASDAQ: BRCM), Apptivity (acquired by Progress Software, NASDAQ: PRGS) and many others.

He has been instrumental in providing seed stage financing, management and marketing advice, especially f or the Far Eastern market to the startup companies. Currently he serves on the boards of Silicon Storage Technology Inc. (flash memory company),, and Teleweb (Call Center in China). In addition, he is on the advisory board of Reveo (Revolutionary Electro Optics Technology Company) and several other companies. Previously, Mr. Taira was Chairman of Sanyo Semiconductor directing Sanyo’s US marketing strategy. Most of his career was spent at Sanyo Corporation except for five years when he worked at Fairchild Semiconductor.

Mr. Taira graduated from Tokyo Metropolitan University with a BSEE. He also received an Honorary Doctor of Humanities from Newport Asia Pacific University in March 2000. He has published a number of books including “Audio Amplifier”, “Transistor physics And application” as a Co-author and most recently a book on entrepreneurship, “My fellow engineer, let’s challenge” from Nikkei BP.

夏草や兵どもの夢の後 ――バブルと貪欲経済のなせる技――

兵どもの墓

Sooner Inc.

エンジェル インベスターとは個人の投資家で若きアントレプレニヤー が起業するときに最初に資金を提供するひとです。シリコンバレイではこのような投資家がたくさんいるので起業がしやすくそのために沢山の優良企業がシリコンバレイに出来上がったのです。
Apple、Google, Yahoo  しかりです。
エンジェル投資家は結局のところ若き起業家の夢に感動して自分もその夢の実現のための伴走者として若き起業家を援助する人たちなのです。成功した操業者は自分が助けてもらったので今度は自分が次世代の若き起業家に手を差し伸べるのです。Steve Jobs が電話帳で Hewlett Packard さんの番号を調べて電話します、そして周波数カウンターを作るための部品を分けてくれと頼んとき何と20分も話しをしてくれたとのことです。そしてHPでアルバイトをさせてくれたそうです。(Steve Jobs の14、5歳のころ)彼はまたIntel のDr. Noyce  にも話しに行っていろいろおしえてもらったそうです。 これぞシリコンバレイの雰囲気なのですね。ですから起業する若者を助ける人達がたくさんいるのです。エンジェル インベスターは投資家として結局は起業家の夢に共鳴して 起業家のマラソンに伴走する応援団なのです。

2006 年4月 今のDrop Box と同じようなIdea でSooner Inc. が立ちあがりました。自分のファイルをWeb に預けどこからでもアクセスできる技術でこれは大変便利になると投資をしました。 当時はまでCloud Computing もできていなかったし、ましては ローコスト のStorage もなかったですから全部自社でNetwork からStorage から Server を用意しなければいけなかった。 それから数年して Cloud computing, 或いはCloud Storage などが大変安く利用できるようになった、そして,Drop Box が創業された。Sooner は自前のStorage を用意するのに大変なお金がかかった。だから創業して数年してもう資金調達ができない状況になってしまった。そんなわけで残念ながらついに会社をしめることになってしまった。後発のDrop Box はアマゾンなどの安いCloud computing を利用しさらに Cloud 上の安いStorage を使うことによって何十ギガバイト というStorage を安く提供してSubscriber をふやしていきます。 Sooner はこのCloud Computing の波にのりおくれたのです。運、不運はありますが。起業のタイミングは 遅からず、早からざる時に興さなければいけないのです。そして必要なInfrastructure が安く手に入るタイミングを狙わなければいけないのです。素敵なInfrastructure の一枚の絵が投資家の夢をふくらませます。 しかしその一枚の絵を実現するためには多大なお金がかかります。青写真を見る時は各々のBlock にどれだけお金がかかるかを十分吟味して資金調達をしてかからないとインフラの 開発の段階でお金がなくなってしまします。一枚の素敵な絵は大変な代物です。そのためにたくさんの金がひつようになります。大概の失敗の原因はInfrastructure を自分でつくるためにお金がかかりすぎて資金がなくなってしまうことです。夢を一緒に追うものにとっても、状況判断をしかりしないといけないことを 5,6年もたってからやっと理解しました。

The Innovator’s Dilemma

技術の進歩はあるバリヤーを越えると一気に進むものです。そのバリヤーを越えるためには関連する技術の発展のために大変な投資と研究がつづけられていいます。たとえばMoor の法則が適用できるまでには半導体を製造するための色んな技術の大幅な進歩が必要だったのです。まずはWafer のサイズがおおきくならないといけないし。製造装置の進歩があるいは材料の進歩などがひつようです。エッチング装置、露光装置、ホトレジストなどの進歩が必要になります。そして初めて40ミクロン。25ミクロン、18ミクロンと線幅を大幅にちいさくしていけるのです。 ですからMoor さんが予測した、半導体の集積度は 18け月で倍になると言うことが実現していったのです。集積度が上がると性能は4倍以上にはやくなります。同時にメモリーIC の容量が4倍8倍に多きくなっていったのです。今では テラバイトのメモリーICもできるようになったのです。

同じことがLCD の世界でもおこりました。Active Matrix の白黒の4インチのDisplay ができた時、世の中が大騒ぎしました。しかしそのサイズの頃にだれが50インチの LCD ができるなどとは夢にもおもいませんでした。でもあれから30年何といまは50 インチ、あるいは100インチ のLCD TVが可能なのです。

Internet の急速な進歩と共に色んなデーターを一つのDisplay に表示する必要があります。特に1秒を争う株式取引ではこれが大事です。Wall Street で大型のDisplay が必要とされていました。そこに現れたのがプラズマ デスプライでした。何せ38インチのデスプレイが可能でした。 しかしブラウンカンを使っているので消費電力が1K Watts とお大きく又文字が焼きついたりしていました。それと大変高価でした。

このころのLCD の製造技術はやっと19インチのおおきさができたところでした。Wall Street の要望を聞きIBMでFace Down の技術は開発していた優秀なエンジニアー達がこの19インチのLCDを4枚継ぎ合わせて38インチのLCD を作ろうと会社をおこしました。これは19インチのLCD を4枚つなぎ合わせて、継ぎ目がわからないようにして38インチのデスプレイを作ることでした。このプロジェクトを完成させるには4枚の各々のLCD のつなぎ目がわからないように4枚の色合わせ、精密な切り口、そして今までにないおおきさのバックライトをつくることなどなど大変は技術の開発がまっていました。何とか寄せ集めでプロタイプができた時にWall Street の連中に見せたらもう上を下えの大騒ぎになりました。それ程までに皆が必要にしているものでした。しかしいろんな問題点の解決には一つ一つが数年もかかるようなしろものでした。Engineer はChallenge 精神が 旺盛でNo Problem ですすめますが。一つ一つのバリヤーは大変難しいものでした。資金は益々枯渇するし資金の額も大きくなっていきます。 ついにベンチャーキャピタルストからの資金は出なくなってきました。 そんなわけでついにオランダのフイリップス に会社ごと預けるはめになりました。フイリップス は多分さらに数十億近くの資金を投下したようにおもわれる。 それから数年してついにフィリプス もギブアップしてしまいました。このためにまたもう一つの墓石をたてるはめになりました。 百億近い金が消えてしまったのです。しかしサムライたちはまた次の挑戦にかかります。

LCD の技術は Sharp の努力と、さらにはSamsung の努力でその後大きな飛躍をします。そして38インチ 40インチの Display が簡単にできてWall Street も電力の少ない大型のDisplay が使えるようになったのです。 しかしその後に価格競争のためにSharp , Sony などが経営をあやうくしてしましました。LCD のTV の業界は今後ますます。難しさをましていきます。

このころJunglee のファンダ―の一人Anada と共にMITの学生にJunglee のはなしにいきました。そのお昼の時間に にProfessor  Christensen が彼が書いたThe Innovator’s Dilemma の本の話をしてくれました。当時の半導体装置のコントロールに使われていたMini Computer PDP-11がほとんどの半導体会社が使っていました。確か数億円もするしろものでした。DEC(Digital Equipment Corporation) はこのミニコンピュウター のおかげで半導体産業から大きな売り上げをあげていたのです。盤石の会社のイメイジでした。しかしIntel  がCPUを開発しそしてその性能が18け月で倍倍になっていくものですからあっという間にPDP-11の性能を上回ってしまいました。 Dec のコンピュターのなんと十分の一の値段で 半導体製造装置のコントローラーができるようになったのです。この為 アメリカ East Coast  の雄であったDEC もついにCompac Computer に買われてしまたのです。そしてまたこの日の出の勢いであったCompaq もHPにかわれてしまいます。 技術の進歩は大変なものです。 Innovation  を十分に見越して戦略或いは商品開発をしないとお金ばかりつかって陳腐な商品をつくって自滅してしまいます。絶えず技術の進歩を見ながら先取りして開発を進めることが必要です。やっぱり4,5年先を見ながら商品を開発していかないと出来た時に陳腐なものになってしまいます。永続性ある会社を作り世の中に貢献できる技術は開発して10年20年と長生きできる会社をつくらなければいけないのです。そのためには優秀な人材を確保し夢のある商品を作り続けなければいけないのです。生存競争は大変です。何時自分の商品が陳腐化しているのかを世界を見渡ながら判断して新しい商品を作り続けなければいけないのです。

Steve Jobs  の先見の明

1986 年ごろに4インチの白黒のLCD がやっと研究所で作れるようになりました。 Steve Jobs  が John Scale に追い出されてNEXT というServer  の会社をやっていた時、NEXT を訪問してSteve Jobs にDisplay  をみせました。彼は大変興味を持ち今彼が必要としているDisplay のSpec  を紙にかきはじめました。4インチしかできない頃に彼は何と11インチのDisplay を要求していたのです。とにかくもし百万個以上買うというなら3年以内に作って持っていくから、とにかく百万個というのを書いてくれと頼んだが Buy Lots  でごまかされてしまいました。しかし世の中はその後11 インチのDisplay が見事に$250 以下で出回ったのです。その後のLCD Display  を使ったMAC computer が市場を席巻します。これもまた日本のLCD メーカーが作り出した大きな市場でした。Jobs は絶えず先を見て何が必要かをいつもかんがえているようでした。だからJobs が Next からApple に戻ってからはApple が大きな発展をするのです。もちろんIphone  Ipad  ITune の成功が世界一のかいしゃにしたのでした。

我々はまた次のSteve Jobs を探さなければいけないのです。我々の投資先からそんな英才が出てくることを楽しみにしてがんばっていきたいとおもいます。

Blue LED(白色のLamp ができるまで)Gan Semiconductor の話。

LED の世界もたえざる新技術の開発ですすめられてきました。GaAs が主体であった赤色のLEDから日本で開発された Liquid Phase のGaP のGreen LEDができて LEDの応用がすすみました。そして三原色のもう1色 Blue LED がなかなか製造ができませんでした。日谷化学の中村さんがSIC の基板の上にGaNの結晶を積み上げることができてBlue LEDの製造がすすみます。 しかしSICの基板が 高いのでBlue LED はなかなかやすくなりまえんでした。Blue LED ができないと白色の光ができません。そのために世界中でBlue LEDの研究とコストダウン の努力がなされていました。

Korea  の若きEngineer が 欠陥のない結晶の作り方をおもいつきました。発想はコップに水を入れてこれを急冷すると 氷の結晶が水の上にできることからのヒントを得た技術でした。かれのかんがえは GaNの液 を高圧で低温にすれば結晶ができると言うアイデヤした。数億のお金を集めて装置をSilicon Valley の 装置メーカに作ってもらて検討が進められました。 小さい サイズの結晶が出来た時そしてその結晶が欠陥のほとんどない素晴らしいものだったので皆な大喜びしました。ランプを組み立てて光らせてみると何とその輝度のすばらしいと。皆エキサイトしました。 1000里を行くものは一歩がだいじです。まだまだ1000里ものこっています。結晶はGaNの液の上につくります。 少なくても 100ミクロンの厚さがひつようです。そしてまた経済的には 少なくても 直径3インチ 位はほしいわけです。
これからがエンジニヤーの苦労 のはじまりでした。 100ミクロン の厚みを確保することそしてなるべく大きなサイズまですること、このターゲットは生やさしいものではありまえんでした。それから数年エンジニアー はがんばりました。 しかしやっぱり目標 を達成できませんでした。そしてEast Coast  の化学会社にエンジニアー をつけて引き取ってもらいました。この会社は当初投資してくれていましたから、エンジニヤー の 生存を確保するために会社ごと引き取ってもらいました。

E-junction

Samba とMuthu そしてその仲間たちとE-Jnction をはじめた。商品の開発には、Engineering group の設計、Prototype の製造、そして、ICの開発であり。或いは 全く新しい部品をベンダー と共同開発するなど、多くのベンダーのエンジニアーとのインターアクショウンがひつようです。そして製品が完成して量産に移るにはさらに多くの人たちとのコンタクトがひつようです。社内のみならず多くの外部の人達とのコンムニケイッションが必要です。もしこれを一つのサイトで関係者がすべての仕事の進行状況を把握できれば何が問題かなんで仕事が遅れているのかを見つけて対処できるのです。ですからこの商品にかかわったすべての人達又 セールスマン ,製造の人経理関係の人などがすべて情報を共有できるのでビジネスの様子が一望のもとに把握できるわけです。プロトタイプができて とりあえず仲間の会社に使ってもらったら大変仕事をコントローフ出来るとよろこばれました。 これはいいねと言うことになっていよいよシリコンバレイの大手に商売ができるのだと大喜びをしていたときです。これが2000年3月、時あたかもインターネットバブルがはじけてしまつたときでした。突然各社とも新規開発の凍結或いは従業員の解雇などとアメリカ全土が 不況の波にのまれてしまいました。それから数ヵ月何とか このソフトの販売に力をつくしますが。どこもそれどころではなく自社の経費節減従業員の解雇に忙しく新しい開発或いはお金を使うなどとははるか遠い話になってしましました。我々もこれ以上の資金調達も出来ずついに会社を閉めることになってしまいました。

E-Junction  こそ Sales Force .com  のコンセプトでした。時をえずして残念です。 ですから遅からず早からずがベンチャーの運を左右するものです。しかしエンジニヤー達は次のチャンレンジを求めてちっていきました。

太いパイブ (Nayna Networks )

インターネットの発展はものすごいいきおいでした。同時に世の中の景気も沸騰しつづけていました。あっと言う間に何億と言うお金がStart UP の会社に投資されていきました。そしてEye Ball Pair (目玉二つ)1000 ドルの価値と言う評価になっていきました。調査会社は インターネットの パイプはもうすぐ詰まってくるから早くパイプを太くしないと大変なことになると毎月のように印刷しているのです。早くパイプを太くしないと経済までが冷え込むみたいな論説です。Naveen が考えたのはまずはOptical Switch の開発が必要と考えてBusiness Plan をつくりました。このPlan をVenture Capitalist に見せるとわれもわれもとあっという間に数十億のお金があつまりました。このころののVenture Capital 業界も又将来の発展にいささかの疑問もはさまないでいくらでもInternet の会社に投資してきたのです。ですからInternet 業界はいくらでも投資が受けられる状況でした。人間の慾は益々深くなっていきます。 当時のNASDAQ の株価が数倍或いは数十倍はねあがるのです。Naveen はこの時アメリカ中の Optical 関係の技術者、やNetwork のソフトウエアーの技術者を取り込むことに成功していました。何と何十名と言う優秀な技術やがあっという間に集まってきたのでした。メムスを基にした光Switch の開発にかかるのです。 まずはBusiness plan を持って業界のTop の会社World Com にこの企画をみせます。勿論World com がエキサイト しないはずはないのです。 ものができたら是非使うと言うのでもう我々の会社の将来は決まったようなものでした。2000年3月についにバブルがはじけて Nasdaq の株価が半分以下になってしまいました。そして一番最初につぶれた大手がWorld Com だったのです。Eye ball 二つで1000 ドルで集まったお金は Eye ball ひとつでほぼ $10 ドルぐらいになった感じです。勿論もろもろの Internet 会社 Pet.com WebVan など数100M$ 集めた会社が皆つぶれてしまいました。Silicon Valley の優秀な博士号を持った人たちが職を失い数年も職が見つからない状況になってしまいました。勿論わが社の優秀な技術屋然りです。われわれも 光Switch から方向起展開しないといけないので色々検討の結果 PON (Passive Optical Network ) の機器をつくることにしました。 Network のExpert が残っていたのでこの展開は何とかけそうにおもいました。 バブルははじけましたが。Fiber Optics はあちこちで敷設されつづけています。Fiber to Home, Fiber to Building で相変わらずこのあたりの投資はまだまだつづいていました。 しかしPON を作るためにはIC がひつようです。 数社が PONのIC の開発にとりかかりました。Cirrus Logic を設立した Kamran Elahian がMomenta の 失敗の後に会社を作り ADSL のIC を開発しこれでまた成功します、さらにこのPON 向けのIC を開発しました。 しかし相当な難しさを要求されるICで全機能をみたすたところまではいきませんでした。 この為機能の不足な部分をさらに外付けのI C でCover してなんとか機能 する機器をつくれあげていました。このころ特にNTTがこのPONを大量に使うと言うことなので我々も是非競売に参加すべく NTT 詣でをはじめました。 試作品を作りNTT の研究所に持ち込んで検討してもらいました。 結構好評だと(おもわれました)。しかし期限が近くなると日本のメーカーがものすごい勢いで試作品を作り、おまけに噂を聞くと我われの値段よりも30% も40% も安いらしいとの情報などがはいり大変心配しました。しかし30% も40% も安くするのでは大赤字ですからそんな見積もりは出せませんからぎりぎりで赤字のでない最低線での見積もりを出すことにしました。この時確か10社以上の会社が見積もりをだしたいます。日本の大手は当然参加しています。この機器は1本のFiber をもってきて この機器から32本に分岐して大きなビルデング にファイバーを繋ぐもので1Gbps のパイプが32のビルデングに供給でき1社1社にファイバーを引かなくていいので相当な節約になると言うので画期的なものでした。しかしふたを開けてみると32分岐までは大変で結局NTT は分岐点で4分岐だけのものとして敷設していった。勿論ふたを開けてみると日本の会社数社だけが NTT に収めることになったようです。我々から見ると30% 40% の赤字のBusiness だったのですが。これが日本の商売なのかと愕然としたおもいでした。やっぱり親方日の丸 で下請けいじめみたいにみえたものです。NTT はかってのアメリカの外圧があったものだから評価には公正を期したと言っていますが。多分値段のガイダンスは暗黙の了解があったのではと今でも勘ぐっています。その後日本のCable 会社向けに努力をしましたが。Cable 会社もそれほどアグレッシブにすすめる意気込みはなかったので、我我はその後のまず食わずの存続を余儀なくされました。

Silicon Valley では 失敗は大きな勲章だと言って失敗した人をほめることがおおいにあります。しかしその失敗を乗り越えて成功しなければ決して勲章にはなりません。だから大きな失敗の後に大成功する必要があるのです。だから一度大失敗した人は挽回の意味を含めて次のプロジェクトを頑張るのですだから次は成功する確率がたかいのです。Naveen とかSamba とか一緒に大きな或いは中位の失敗した仲間たちは今度は成功をめざして、穴探しに一生懸命に 努力しているのです。何といっても彼らのEntrepreneurship はおとろえていないのです。今第2回目第3回目の連中とこちらは相変わらずフウフ 言いながら夢追いの伴奏をつづけています。一度目の企業である程度まで行き失敗してそしてまた苦労をして結局2回目の成功がなされるまでさらに10年はかかっています。人生休む暇はないですね。さらにますます忙しくなるばかりです。

先ほどのKamran Erahian は Cirrus Logic の後に Momenta と言う会社をおこします。業界初めてのPortable のPen Computer をたちあげます。世界中から数十億のお金をあつめます。 日本の三井物産も相当な金額を投入しました。 電池Operation, LCD Display ,Pen 入力の技術、IC の開発Storage の小型開発すべてアメリカ初て世界で初めての大変な努力でした。同時にメデヤが毎月のように喧伝するので業界中が期待をかけてまちのぞんでいました。手がきのソフトもそのころのものは確度はまだまだでした。Digitizer がまだまだの性能です。そして電池の寿命も短いものでした。しかしあつまたエンジニアーたちは、すごい連中でした。ですがついには狙った性能が出ずについにメインのVenture Capitalist がKamran Elahian を首にして製品の開発を中止します。勿論 Momenta の努力のよってその後の Pen Base Computer の窓あけとなります。そして Apple のNewton の開発につながり、最後にSteve Jobs のIphone でこれらの技術が集約された形になりApple の発展となったのです。Steve Jobs は先を見て色々な開発をしていますが。 製品が使いやすくなければいけないことに徹底しているようでそれがIphone Ipad の成功につながっているようです。Digital Camera にしてもQuick take 100 をだしたがすぐひっこめている。そしてIphne ができた時にDigital Camera の技術が見事に集約されて使いやすく鮮明な写真が撮れるなどでIPhone の爆発的なうれいきになったとおもいます。 Kamran Elahian はMomenta の大きな失敗を何時も肝に銘じてその後努力してきたようです。からの愛車 Ferari のLicense Plate はいまだ Moments です。彼はMomenta の失敗を肝に銘じてがんばってきたのです。失敗いは許されると同時に勲章にもなりますがしかしそれはその後に成功して初めて勲章になるものです。さあ またもう一度挑戦しましよう。一緒に失敗したなかまと又なんとか成功事例を作るべくうごきはじめています。沢山の死んだ会社の墓標だけは立派にたっています。そして成功した暁にこの墓標を拝みそしてかっての従業員にえがおで挨拶できればとおもっています。今日もまたSilicon Valley で頭を痛めながらがんぱっています。

バブルと 貪欲な経済活動
バブルはどうしておこるのでしょうか。
人間は本質的に欲の塊なのでしょうか。 日本では昔から賢者が徳を説き若者をたくさん教育し、しかも、当人は清貧に甘んじていたから 若者が育ったのでしょう。日本人は少なくともある程度の歯止めがこの教えにかなっているのだとおもいます。古くは オランダ のチュウリップのバブル、このときは何とチュウリップの球根ひとつがうち一軒の値段がついたとか。一般の人たちが買い始めてお金がないから家を抵当に入れたり乳牛を抵当に入れたりして買ったそうです。いわゆる先物買いのはしりですね。そしてその証書がまた売買されたとのことサブプライムローンとおなじことがおこなわれていたのです。そしてチュウリップの値段が100分の1になってバブルがはじけてオランダの経済が大変な目にあったのです。 思い起こせば日本の土地と株のバブルの時の狂想曲もおなじですね。80年後半から90年代初めに山手線内の土地でアメリカの全土が買えるまでの値上がりしたとのことそして、三菱地所がアメリカの誇りとしていたロックフェラーセンターを買ったり日本の企業がペッブルビーチのゴルフ場を買ったりしたものだからアメリカの ひんしゅくをかってしまいました。しかしバブルがはじけてさらにはアジア金融危機が訪れ日本経済も大変な状況になってしまいました。そしてロックフェラ-センターも大幅に安く元の持ち主にうられまた ペブルビーチもアーノルド、パーマー たちのグループに安く売り渡す羽目になっています。これからが うしなわれた 20年の始まりだったのです。貪欲の経済が仕向けた結果なのです。日本は古典に習い徳を積む国民だったはずなのにやっぱり金に対する欲は一番避けがたいものなのですね。世界中がこの人間の欲のために貧乏人がますます貧乏になっていくしかけになっています。いつも損をするのが貧乏人なのです。

インターネット、バブルの資金、上図は1999年第3クオーッターから2000年第1クオーターまでのベンチャーキャピタル の投資額です。この6クオーターに投資された金額は何と156ビリオン ダラー(15兆6千億円)におよびます。例年の6クオーターですと30ビリオンドル(3兆円)ですからどれほど欲の皮がつぱっていたことか。正常な考えでは出てこない数字ですね。まさしくチュウリップ バブルの再来です。ウォールストリートの 錬金術師たちはここぞとばかりバブルを演出したのでした。まず金をこれだけ出すところが欲のかたまりです。バブルはその意気込みにまかれて我も我もとなるのですね。まずは金を出すところが自制しなければバブルになってしまいます。普段の5倍も投資が増えたらまずバブルですよ。 錬金術師たちは値上がりがこの場合は5倍にも上がるとみています。兎に角 ( .com)どっとコムという名前あるいは(e-)イーなんとか とつくとすぐ投資家がつくのです。当時は人間の目玉(二つ)がなんと千ドルの価値があると喧伝されたのです。だから百万人のお客がつくと1千億円の企業価値があるとウォールストリートが評価するのです。ですからお客を集めるためにじゃんじゃんお金をつかうのです。50億円使って100万人のお客を集めるのに必死になっていたのです。ベンチャーキャピタルはお金をつかえ使えとあおっていました。当時の Pet.com などは何とSuper Ball の時の30秒の広告に2百マンンドルもだしたのです。そしてまた有名なVenture Capitalist たちがこぞって投資したのがWebVan だった。これはSilicon Valley のヴェンチャー企業のエンジニヤーは暇がないから朝に夕食の食材を注文する、たとえばねぎひと束とうふ一丁、肉1Kg などもちろん出前もOkay で頼むと夕方には家に配達する、というBusiness Model でした。毎日WebVan のトラックをみるようになりました。しかし荷物はたいして積んでないようだしトラックの姿もなんとなく裏さびれたようなかんじでした。その後E-Toys.com,  Go.com など多くのどっとコム 会社がVenture Capital から多大のお金をもらい Eye Ball の獲得に多大のお金をつかいます。 そしてその会社がすぐNASDAQ に上場するのですそして何百億という値がついてしまうのです。そしてついに2000 年3月に NASDAQ  の株価が半分に下落してバブルがはじけるのです。Mathew Buttell というJournalist がFST という経済誌にこのバブルの被害がどれくらいあったかというのを掲載していました。下記の図がInternet bubble のバブル具合を示した絵です。

被害の状況は Pets.com が何と300億円 の損害、Webvan に至っては何と800億円も損をしています。そしてこれらのバブルでなんと2千700億円もの損害を経済にあたえています。このバブル期の技術系の大手6社の価値がなんと165兆円の価値でアメリカのGDP の何と20%に値したとのこと、もちろんバブルがはじけてその値が半分以下になるのですが。

結局このバブルを演出したのは Venture Capitalist でありそして Wall Street でした。Dot.com の会社を上場させて大きなもうけを受けたのはWall Street だったのです。中身のないDot.Com をすごいValue で上場させます。 このときWall Streetは上場時の値段よりも大きな値がつきますから、上場時にすでに大きなもうけがはいります。Venture Capitalist もすぐ株が売れるので大儲けす。しかし従業員は6か月の後にしか売れないので結局は従業員には大したお金がはいらないのです。もちろん早めにM&A されればある程度のお金ははいりますが。Bubble の期間があまりにも短かかってので、結局はそんをしたひとたちの方が多かったのです。

その後のWall Steet はまたまた新しい金融商品を開発します。 それが例の Sub Prime Loan です。ここでもまた再起不能になるぐらいのダメイジを世界経済にあたえてしまいます。 このため住宅ブームを呼び起こししかもお金のない人たちに無理やりにLoan を出したのです。そしてその債券を再販してさらにもうけているのです。今その 後遺症のためにローンを払いきれない人たちの家が銀行に取り上げられてそれが何万建という家がアメリカ中の町に放置されているのです。これがリーマンショックとなり金融危機をまきおこしたのです。

並みいる実態のないインターネットの会社がすべって店じまいをしました。そして華々しく数100億をつぎ込んだ会社がとうさんしていきます。これこそ人間の欲がなさしめる縮図でした。経済を大きく発展させたといわれる大きな評価を受けたFRBの議長 Greenspan  氏 彼は経済は市場の自浄力で解決するのだと言って結局野放しになって経済が破たんします。 経済運営の神様みたいな 氏の評価が一遍にして 地におちてしまいました。 バブル崩壊まえに Greenspan 氏の The age of Turbulence  という本が大ベストセラーとなりましたが。バブル崩壊後にはわすれされてしましました。

欲に根ざした経済政策は結局破綻するのですね。 投資家も欲というのをじっくりみきわめて投資を考えないと結局はバブルに遭遇します。 稲盛さんは 決断する時いつも“動機善なりや, 私心なかりしか。”と自問したそうです。 それがKDDIを成功させ多くの会社の再建をなしえたのでした。 今回JAL の再建にもこの自問自答をされて取り組んだのです。Wall street の連中には “これは欲のために行っていないか。これは世の中のためになっているのか”を絶えず心に問いただしながら活動してほしいものです。そうすればバブルにならないで経済が発展できるのです。

江戸時代の農民救済に努力した二宮尊徳 沢山の業績を残したにも関わらず自分はこの活動から一銭の利益もあげず相変わらず清貧にあまんじたという。江戸時代の寺小屋教育がこのような偉人を生んだのでしょう。武士道とは貪欲を一番嫌ったのではないだろうか、だから武士は食わねど高楊枝だったのでしょう。またサムライの子供たちが寺小屋で素読を基にした漢籍の古典から習い徳を積むことが自然に身に付いたのだと思われる。 また明治期になって日本の経済発展のために沢山の銀行を起こしまたいろんな会社を興した渋沢栄一みたいな人がいたからこそ日本の国力もついて、世界に伍していけたのだろう。だから彼は “論語と算盤”という著書をのこしたのでしょう。

中国をはじめ東南アジアの諸国が欧米の植民地になったのに比べ日本が其の難をのがれえたのも明治政府の要人が武士道精神を持って滅私奉公で国を守ってきたからに違いない。しかも当時の為政者は私心を捨て国のためを思いがんばったのでしょう。

明治政府の要人が岩倉 使節団として1年間も国をあけて世界中をまわり各国の憲法を調査さらに 経済 法学、化学技術を眼のあたりにしこれを我が国も持ちきたし世界に伍していける体制を整えたのは大変な見識だし素晴らしい人たちだったとおもう。大政奉還からそしてサムライの世界から現代えの転換を見事に成し遂げた当時の若者の偉大なこと。当時の世界情勢をよく見極め世界を見ていたことがこの業をなす根幹となたのでしょう。当時のGlobalization  は大したものですね。 意気に燃える青年がいたことまたGlobal に物を考えられる素地があったことが方向を誤らなかった理由でしょう。長州、薩摩の若者たちの燃えるような愛国心が日本の明治を作り日本を世界に伍していける国を作ったのですね。寺小屋の教育の賜物だと思うし、漢籍の古典の思想の賜物ではなかったのでしょうか。

やっぱり私欲を一番押さえてこれたのが大をなさしめたのではないでしょうか。今世紀の数々のバブルを見るにつけ、この私欲を排除するという意識での経済活動をしない限りバブルはなくならないでしょう。 アメリカのWall Street  が自分の活動にあるいは経済活動に、これは人のため世のためになっているかを自問自答しながら活動すればバブルにはならないのでは。

稲盛さんの言葉を借りて、“動機善なりや、 貪欲なかりしか。” これがバブルを避けるための経済活動の大前提です、そうでないとまたまた大勢の貧しい人たちが犠牲になっていきます。今の中国の不動産バブルリーマンショック の再現のような危機をはらんでいます。

兵たちの墓標

スタートアップ 四苦八苦物語

日本の半導体企業で働いてそれからアメリカのシリコンバレイの半導体企業に移り,半導体のマーケッテングをアメリカで始めました、半導体の技術の発展とともに半導体企業の盛衰を見そしてまたソフトウエアーの会社に関わったりしながら、アメリカのスタートアップの色々な企業と関わりを持ってきました。Venture Capital の投資が一番多いのはシリコンバレイです。そしてBoston , New York など全国に散らばっています、新しい産業が起こるたびに、あるいは新しい技術が開発されるたびに資金が投下されます。日本でそしてシリコンバレイを始め世界中で新しい会社ができてきます。産業の米と言われて半導体産業、そして半導体を使うたくさんの企業が創出されました。Computer 産業、それからSoft ware の企業、Net work の会社、世界の産業は大変膨れ上がって行きます。新しい産業に大学でTechnology を開発した若者たちが次々と次々と新分野に飛び込んできます。半導体産業では Intel 社がIC を開発し、それがComputer に使われて産業の米となってComputer 業界が発展しました。 そして大型computer から、Potable Computer になり、さらにInternet の発展になり、cellular Phone になりと技術は発展しました。さらにはSoft ware の発展に伴い様々なマーケットの交流となって発展していきました。シリコンバレイのStanford 大学あるいはBoston の大学の優秀な学生たちが新しい会社を立ち上げまたインドや中国の優秀な若者たちがアメリカに進出して起業して産業を発展さてきました。

アメリカの発展はこのStart up の会社の成功によって産業がますます発展したのです。それらのスタトアップを育てたのがベンチャキャピタリストです。そして産業が発展することによってVenture Capital の資金もますます大きくなっていきました。今アメリカのベンチャーキャピタの投資額は昨年で50 Billion $(約5兆円) となっています。このお金がほぼ千社に投下されています。そしてうまくいくとBillion $ Companyとなって行きます。Google . Facebook, Amazon, Tesla Motor Apple computer などなど、Europe でもIntel に立ち向かえる半導体メーカArm holding社、などがあります。 Venture Business は魅力的です。ですからentrepreneur たちが 次々とChallenge してきています。しかしその生存率は実に低く千に三つと言われています。でも今日もまた夢を追い求めて若きEngineer たちが立ち上がっています。

Solar Panel のInverter は100watt ほどの出力パネルを数百枚繋げ最後に全体のDC 電圧を交流に変換していました。もし一枚のパネルが壊れたら全ての電源を止めてから一枚のパネルを交換しなければいけなくなります。それでパネル一枚一枚にMicro Inverter をつければ全体のSystem を止めないで修理が簡単になります。それで各社がMicro Inverter の開発始めました。とりあえず小型のトランスを使って製品が使われ普及し始めました。このInverterはトランスを使っているので まだ大きなものでした。スルヤ はトランスを無くする回路を開発しました。このため全体のセットが小さくなり修理が簡単になりました。日本のメーカーが採用したいというのでサンプルを出しましたが、日本の測定器で性能を図るとセットが動作しません。それでスルヤともう一人のエンジニヤを連れて日本で1週間滞在して原因を追及しました。測定器のせいでインバータが発信してしまっていました。なにせお上のお墨付きの測定器なので、この測定器で認証が取れないと日本のマーケとには販売できないという、行政の誤りですね。 残念ながら退散せざるを得なくなりました。もちろんこのMicro Inverter を使うと大幅なcost downになるのですが仕方なく次回のチャレンジと諦めました。
それで日本のマーケットを諦めてUS のソーラパネルメーカーとの商談に変更しました。資金もなくなってもう会社を閉めるほかはないとみんな諦めていました。幸いに大手のメーカーが会社を買収してくれました、スルヤの回路をすぐ使わずにとりあえず従来品の生産を継続してその後で新しい回路に変更しようということになったようです。この会社は確か400−500億の売り上げの大会社でした。これで我が投資もそのうち花が咲くだろと楽しみにしていました。しかし2年ほどしてどうしたわけか会社がChapter 11 になってしまいました。スルヤにどうしたのかと聞いたらなんと経営者が会社の利益が増えように見せるためにせっせと資金運営を行ったためにそれが失敗して大損をしたという。アメリカでよく見かけられる話でした。たとえばエンロンなどの例。全くせっかくのだい大会社を破産させてしまっています。スルヤは自分のPatent の権利だけを買って会社を辞めました。かれは前の会社でMicro Inverter を全てIC 化することによってすごく安く作れる特許を取得していました。捲土重来 次の弾です。また起業するのかな。また立ち上がるとまた加担せざるを得ないだろうな。これがシリコンバレイのネットワークです。 

Soft bank の孫さんがYahoo を率いて日本の通信業界を改革しようとしてInternet box(ADSL) を作り新橋駅前 、渋谷駅前などでただでADSL Boxを配りました。この努力によって日本でもInternet の利用が大きく伸びることになります。さすがの孫さんですね。だからあのように大きな世界企業に育てたのですね。まだまだ頑張ってもらわないと、またArm Holdings を買ったことは大変ありがたいですね。Arm は日本(孫さん)の会社です。半導体戦争にIntel に負けましたが孫さんがArm を買ったおかげでまだIntel と競走できそうですね。 Arm は日本の会社ですね。有効に活用したいものです。

この頃韓国ではADSL の普及が始まっておりADSL 用のセットが大変売れていました。特に韓国はその普及率が高く、Silicon valley のスタートアップがADSL 関連のセットがたくさん売ていました。韓国出身のエンジニヤーが始めた会社のめんどうを見ることになっていました。なにせ韓国のADSL の普及率はすごくて会社の売り上げは急上昇していました。韓国からの注文がたくさん来ていました。売り上げは伸びる一方でした。このころ友人夫妻とYellow stone park に遊びに行っていました。この時業績がいいので 証券会社が上場しよういうことで上場準備にかかりました。旅行に行く前に書類を持って出かけました。とうじはまだ ADSL がまだ韓国のように普及していませんでした、まだFax が通信手段でした。Yellow Stone parkのホテルにはまだFaxがありませんでした2日後に上場ということで楽しみにして待っていました。最後の書類にさいんして今日中にFax しろという。しかし泊まったホテルにはFaxありませんでした。聞いたらYellow stone Park の反対側のHotel しかないという。Fax のあるホテルまで真夜中にYellow stone パークを車を飛ばしてFax のあるホテルまで行きました。途中大きなBuffalo がものすごい速さで走っていきました。もし正面衝突でもしたなら一命を落としていたことかとびっくりしました。やっとFax のあるホテルについて書類をFaxしました。しかし、なんと数日後IPO がだめになったという連絡が入りました。ついにADSL バブルが弾けたのでした。そしてまたひとつの夢が消えて無くなりました。

通信業界はこれを契機にますます盛んになりSilicon valley は次の技術へと移っていまします。Net workの大手がたくさんできていました。Fiber Optics の敷設が急激に進みました。同時に高速のSwitch が必要になりました。Naveen は一緒に起業していた会社が倒産して、浪人を余儀なくされました。かれは次のTechnology はなにかと色々と勉強していました。技術セミナーがあれば全て参加していました。そして発表される Technologyを色色と勉強していました。興味のある技術の発表があれば発表した技術者をおいかけて行ってしてその技術者と議論していました。それでその技術者と懇意になっていました。ネトとワークの技術者、そして半導体の技術は者、ソフトウエアーの技術者、彼のRolodexにはすごい技術者のなまえが登録されていました。2年間の計画の後4、5名の同士が集まりました。それから数ヶ月彼らは Business Model を作成しましたそのモデルは High speed Switch でした。そのBusiness model を持ってナビンは Sand hill村(Venture Capital 村)に出かけて資金調達に行きました。時あたかもブーム到来Venture capitalist の財布が緩んだ時でした。ナビンは数10億円の資金を手に入れました。彼のRolodex の中の大半のエンジニヤが集まってきました。すごいIQ の連中でした。ビジネスプランを持ってその時の超優良Network の会社World com にプランを見せると大変喜んで ぜひ商品を使おというへんじをもらいました。製品は1000X1000 のOptical Switchでした。Memes を用いるものでした。振動のないTable が設置されて製品の開発が始まりましなおすごいExpert が昼夜兼行で開発が進められました。これができればもうBillion$の会社 間違いなしでした。Prototype の100X100のSwitch ができて大騒ぎしていました。しか好事魔多しです。時にLeman Shockが起りましたPotential Customer だった大手の通信会社が先に倒産してしまいました。そのために1000 x 1000 のプロジェとはなくなりました。Naveenは急遽開発の方向を変更しました。 超一流のScientist がいら なくなってしまいました。 その人達にやめてもらいました。業界のtop Scientist たちでした。それで急遽開発の方向を転換をしました。Internet の普及は相変わらずTarget でした。それで方向をFiber to Home に向けdistribution Box の開発です。これにはPON 用のIC が必要でした。しかしIC開発している半導体メーカーがまだ完全なものはできていませんでした。なんとかプロトタイプができてMarket にだしてみました。Fiber to Home わいぽんのfiber から30社のOffice にGiga のNet work がひけるというので次世代の大きなMarket になるとみんなExcite していました。 PON そのものがまだまだ普及してなくて数年頑張りましたが市場は立ち上がりませんでした。NTT にプロタイプを持ち込みましたnotorious なNTT の購買手法に外国勢が締め出しにあってアメリカ政府から非難を浴びた後であったので、公正な評価を期待して見積もりを出したらなんと日本製のものが我々よりも20%やすいという。PONのICはアメリカ製です、値段が20%も違うとは信じられないと公正を期しているのかを購買課長にただしました。日米で問題になった後だったのでそれらしき比較表なものを見せてもらいましたが実際はどうだったかわかりませんが、日本のメーカーの最初は赤字でも出して後から利益をとる形で値段を出したのかと思われる、やっぱり大NTTのMaker えの無限の圧力ですね。でも日米でPON のマーケットは思ったよりも立ち上がりませんでした。残念ながら次の年に会社をClose することになりました。またひとつ夢が消えてしましました。

ナビンはまた彼なりのベンチャ魂を呼び起こして次に立ち上がりました。今度こそはBillion $ Companyをめざしています。Network Securityの会社です 期待しましょう。

マナスはComputer Scientist です、Boston で企業していました。マナスは丁度DRAM がものすごく不足していてみんなが買いあさってすごく値段が上がっているのを見てなんとかmarketを平滑にできないかと考えていました。それでMarket Place を開いてDRAM の値段が安定かするようにできないかと考えてMarket Place をOpen することを考えました。そのためSoft ware を開発しました。アイデヤとしてはChicago Mercantile Exchange の Online 版でした。すごくいいSoft ware でうまくいけば色んな商品を乗せられられるのでいいBusinessができると踏んでいました。しかし2年ほどしたらDRAM の値段が極端に落ちてしまいビジネスとして成り立ちませんでした。

ちょうど1997年ごろに 世界の炭酸ガスの排出量を抑えないと地球の温度が2度ぐらい上がって北極の氷が溶けて大変なことになると国連で議論がありがあり京都で国連の議論がなされてCO2をへらそうおという国際会議が持たれました。日本が中心になって世界各國のCO2削減の目標を設定して頑張ろうということになりました。日本は確か20%削減を目標にしていました。世界核國が真剣にCO2削減に努力していました。日本から時の外務大臣 川口順子(元サントリーの取締役)が頑張って協定を作りました。日本の電気業界は電気機器の効率を上げて改善分をCO2 削減に換算することで目標を達成しようと努力しました、このおかげで日本の電子機器の省エネ製品の開発が進みInverter Motor の開発が大い進みAir Con 洗濯機、などの効率上がり、CO2 の削減が進みました。日本は真面目に電子機器の効率をあげて省エネによってCO2の排出を真面目に抑える方向で努力していました。日本の各社は本当に頑張ったとお思います。
先進国は石炭の使用量を減らしたり、また原子力発電を増やしてCO2の削減に努力していました。
Kyoto Treaty は低開発国に対しては 森林が吸収するCo2 を計算してその等価CO2 吸収の価値を換算して先進国で目標に達しない国に低開発国のこの森林が吸収するCO2を先進国に売ってこの換算分を低開発国の実現分とした。なかなか素晴らしい計画でした。さすがに川口さん達の努力でした。しかしアメリカ ロシアなどがこの協定に参加しなかったことなどで協定は有名無実となってしまいました。そしてさいど作年になってフランス大統領マクロン大統領が Paris 協定を設定しました。
しかしTrump 大統領はすぐさま アメリカはこの協定に参加しないと表明したのです。世界をリードすべき世界第一の国がこの調子なら世界の気象変化をどのようにして抑えればいいのでしょうか。このように世界を無秩序にしていたら人類が滅びることになりますね。世界大国のアメリカがもっとしっかりしないと世界がおかしくなります。マナスはこのCarbon Trading を彼のソフトウエアーで世界に提供しようとしていましたがまだその機にあらずとして次の手を探しました。

マナスはついに 石油を原料にしているPlastic bug, Bottle などを分解させる材料を開発して地上からPlastic 被害を無くする材料を開発しました、やっと世界の最も困っている問題の解決の糸口を掴んだのでした。台湾で数年前にデジ袋を生産していた工場でPhoto Degradable のプラスチクの材料の生産を始めました。鉱石から粉を作り、さらに植物繊維から作られるスターチなどを混ぜてプラスチック製品を作ると太陽光の紫外線で分解するプラスチク製品が作られました。また地中に埋められたプラスチクは 地中にあるバクテリヤによって分解されるものです。これでやっと世界ちゅうからプラスチクのゴミを処理することができます。海の魚が、亀が、クジラがプラスチクを食べて死なないようにすることができるのです。環境汚染がこれで改善されればやっと100年にも渡ってなくならない海洋の汚染をなくすることができます。マナスと20年にわたって努力したEntrepreneurの夢が実現しそうです。

相変わらず次の夢をおうアントレプレニアーたちは後を絶ちません。これまでに20社近くのアントレプレニヤーたちと夢と失望を共にしてきました。Technology はますます進歩しています。AI 全盛時代。物創りも進化していきます。ガンとの戦い、Pandemic との戦いまだまだくさん資金が必要です。日本の企業もこれかの若きアントレプレニアたちにたくさんの資金を投下してほしいものです。

ふるさと

ふるさとはとおきにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて
遠きみやこにかえへらばや

ふるさとは 我を忘れていなかったのです。故郷の地にいくとしすぎて尋ねてみればやっぱり故郷は我を快く迎えてくれたのです。

明治150年を記念して鹿児島県が 世界全国で活躍している同郷人を招待して鹿児島県人世界大会を 開催していただきました。なんと全世界から300名以上の方々が参加しました。また “せごどん”の映画のおかげで明治維新がどのようにして成し遂げられたかがよく喧伝してくれていました。あの幕末の、西洋の脅威からよく国を守り、また文明開化に向けて民族の力を結集して封建社会からの脱出できたことか。“せごどん”の映画がよく描き出されていました。いつの世でも改革を目指す若きちからが発揮されています。

その中でも武士の世界の権力者にも先見の明を持った人がいたものです。久しぶりの鹿児島の訪問 桜島を眺め 鹿児島湾を見るにつけ、 薩英戦争を思うとき危機一髪だったのだなあーと思う。鹿児島湾奥深くイキリの戦艦が攻め込まれ比較にならない火力で街を焼き尽くしたはずです。性能は悪い大砲といえどもイギリスの軍艦を2隻撃沈で来ればこそイギリスの戦艦がびっくりして逃げていったのです。 薩摩はイギリスの植民地にならずに済んだのです。 しかし 島津斉彬の様な先見の明を持った藩主があればこそ前もって 反射炉などを作り大砲なども作っておいたから、かろうじて薩摩がイギリスの植民地にならずに済んだのです。大久保利通を演じた 瑛太、素晴らしい演技ですね。かれは薩摩にいる時から東京に移ってからも彼の表情は全然変わりませんでした、大久保の性格をあの表情で表していったのですね。西郷と大久保利通の友情は素敵でしたね。最後には結局大久保にやられることになるのですが。歴史の進展とともに仕方ないことですね。ただただ西郷隆盛は大人物でしたね。数回にわたる奄美大島への島流し、その度に漢籍を行李にたくさん詰めていきそれが西郷を大人物に育てたものと思われる。奄美大島龍郷に島流しにあった時に中国に留学していた岡程進儀にあい漢籍を教えてもらったのが大いに人間を磨かれるきっかけになったものと思われる。艱難なんじをたまにする。ですね。最後には薩摩の若き青年たちの新政府への不満に押されて西南戦争に赴かざるを得なくなってついに鹿児島城山で自決することになったのですが。西郷の教えは かって西郷に温情をかけてもらった庄内藩の人たちが西郷の教えを西郷隆盛遺訓として出版して全国を行脚して配ってあるいたのだそうです。

幕末押し寄せる欧米の脅威、尊王か、攘夷か、各大名は 藩の財政の立て直しに汲々としていたのではないでしょうか。日本の将来を愁える若者たちが国を救うにはどうしたら良いのかを真剣に考えて動いたのですね。坂本龍馬の改革への燃えるような思い、また改革が必至と心にかけていた 勝海舟、幕臣でありながら坂本龍馬たちを鼓舞し来るべき時代への心構えを説いていたようです。

薩摩、長州の若き改革者たちの努力によって明治維新がなされたのです。薩長連合ができまでの色々な葛藤。薩摩と長州の葛藤 しかしのちに薩長連合ができて初めて大政奉還がなされてなんとか内乱にならずに徳川幕府が自ら政権を天皇に奉還して明治の世になったのです。“せごどん”の中で 桂小五郎と 西郷の葛藤など 西郷はじめ薩摩志士たちがが 桂小五郎に頭を下げるシーンなど 歴史の一編として危ない時期でしたね。何れにしても危ない橋を渡りながら歴史が進んでいくものです。西郷さんの偉大さを知らしめせせる“せごどん”の 大河ドラマでした。

歴史の変わり目でいろんな変化、などが起こり、それをうまく乗り越えないと大変な苦労を強いられたり、戦争が始まったり、してしまします。第一次大戦の大変な惨状。第二次大戦。 そして日本の敗戦、 どう見ても勝てる戦でもないのに何故戦争を止められなかったのか。 資源のない国がよくもあのような戦争をしたのか。どうして止められなかったのか、若き志士たちがいなかったのか。幕末から明治にかけての危なかた時期をよく持ちこたえた日本、大いに参考にして勉強する必要があったと思います。

変化に対する対応が必要ですね。中国にしても毛沢東時代から の改革がよくもここまできたものと思います。鄧小平の登場から よくぞ資本主義経済に移行できたことか。このまま発展していけるのか。あるいはもう一度革命が起こるのか。

トランプ政権の 処構わぬ政策施策で世界はこのままでいけるのか。経済に対する影響は大きな不況がこないといいのかですが。

インタネートの現状を見るにグーグル、フエイスブック が広告だけで莫大な利益を上げてそのお金で技術のある会社を買いあさって次に技術を抑え込もうとしています。さらにテンセント、アリババ、あるいはアマゾンが リーテイルの 分野で大きな売り上を上げて利益を上げています。だんだんと物を作る会社がなくなっていくような気がします。働いて給料をもらう会社がだんだんとなくなってしますのでは。一億総こじきになる可能性があるのでは。もう一度一次産業の復活果たさないと、一億総、乞食、になってしまいます。一次産業を復活させないといけないが。今こそ農業を 活性化しないと。 一次産業にもっと投資をすべきです。投資が、金がすぐ儲かるところだけに投下されすぎています。

故郷はいものですねまた 奄美の歌声はわが心に響き郷愁を誘うものです。
みはうらぶれても、故郷は我を忘れていないのです。

世界各国からの帰国者を集めて故郷への思いを皆が語り合いました。

西郷隆盛の墓、私心のない、天を敬い、人を愛した大人物でしたね。

盛大な花火祭り

鹿児島県人会 おはら節の披露 Chimmy sanの嬉しそうなひょうじょう、指宿まで足を伸ばして砂風呂に入ってきた。 砂の上に寝てその上から温泉で暖められた砂を体の上にかぶせて蒸し風呂にする、一度は入ってもいいものでした。

そして次の日に知覧の特攻隊の飛行機基地の展示館を見にいった。特攻隊の若き隊員たちが旅、発つ前に家族に友人に、恋人に寄せた手紙がたくさん展示されていた。死を前にして、自分の死を見つめて、死を一つも惜しまない気迫が迫っていました。そして自分の死が家族を守るのだという一念のみが語られていた。特攻隊の若き青年のみならず戦争に出向いた青年たち、壮年たちどの人たちも、家族のために、国のために戦うのだというすごい思いがひしひしと伝わってくる展示でした。知覧の食堂で 若き特攻隊員の母代わりをした“うめ”さん の話など涙が止まりませんでした。特攻隊員が沖縄で死んでそのあと蛍になって知覧に帰ってくる話など涙が止まりませんでした。

日米対戦、硫黄島の戦い、そして2度にわたる原爆投下、なん数十万の人が一瞬にして殺されてしまう。なんであのようバカな戦争をしたのか、もうこの地球上から原爆はなくしないといけないです。広島の原爆記念館、そしてまた沖縄のひめゆりの塔。世界から戦争を無くしないといけないですね。世界の人たちは広島、長崎の原爆記念館を是非見て欲しいですね。

もう秋でした。やっぱりあのカラマツの色ずいた黄色を見たい鹿児島からの帰りカラマツを見に 妙高で仕事終えて、小海線乗った、野辺山で降りてカラマツの中の旅館に泊まった。野辺山の隣の駅 松原湖から北八に登るところに上智大学の山岳部のヒュッテがあった、そしてその壁に カール プッセ の詩、 Uber Den Bergen———がドイツ語で壁に書きつけてあった、 (山のあなたの空遠く幸い住むと人のいう)、八ヶ岳に登るときはいつも、Sophia Hutte は今どうなっているのだろうかと思っていた。 今はもうないかもしれない。

カラマツ林は 素敵です。
やっぱり北原白州の詩が必要ですね。

落葉松林


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。

野辺山駅の前で。(日本で一番高いところにある駅)
カラマツの林に囲まれた旅館で一息つきました。
カラマツは、寂しかったけれども、嬉しかった。

Uber den Bergen
Karl Busse

Uber den Bergen weit zu wandern

Sagen die Leute, wohnt das Gluck.

Ach, und ich ging im Schwarme der andern,

kam mit verweinten Augen zuruck.

Uber den Bergen weit weit druben,

Sagen die Leute, wohnt das Gluck.

日本で一番高いところにある駅(野辺山)

西郷隆盛(せごどん)の面白さ。

NHKの西郷どんを楽しみにして時々見ています。

特に今、西郷が3度目に島流しされた沖永良部島は我が与論島の北32km にある島でありほとんど我が与論島と同じような環境の島です。あの美しい海は与論の海と同じです。奄美群島の喜界島、沖永良部島、さらに与論島はサンゴの島で
珊瑚が隆起してできた島です。鍾乳洞が各島にあります。我が家の庭先から鍾乳洞が海までつずいているようでした、そこまでの探検はしていませんが。珊瑚の隆起でできた島なので、これらの島にはハブはおりませんそれに比べて奄美本島と徳之島は古生層の島でハブがいます。与論島は沖縄本島の北わずかに23kmの地にあり実際手漕ぎのボートでいけそうな距離です。与論島は周りわずかに23km の小さい島ですがFull Marathon の競技も行われているとか。この小さい島ですが、子供の時、小学校まで歩いていくときのとういこと、そして遠足に行く時のすごく大きな島にいた感じでした。年すぎて‘島に帰って車に乗せてもらって一周してもらったらなんと40分で回ってしまった。子供にとっては大きな島だったのですね。1951年San Francisco 講和条約が締結されて日本が主権を回復されましたが、沖縄と奄美大島はアメリカ軍の信託統治となり日本から切り離されてしまいました。とにかくソビエットの共産主義の脅威がすごくまたベトナム戦の勃発などでアメリカとしても沖縄の基地が重要であったのですね。だからその後21年間もの間沖縄の返還が遅れたのです。

奄美では日本が外国になり自由に日本にいけなくなりました。日本の大学に進学したい青年たちは漁船に乗って鹿児島まで密出国して大学に行ったものでした。

その後島全体の民族運動で1953年12月25日にやっと日本に復帰することができたのでした。沖縄はその後21年もの間米軍の信託統治におかれ大変苦労させられています。米軍の沖縄上陸で日本人18万人アメリカ軍人1万2520人の犠牲者を出したのです。沖縄の摩文の戦争記念館を訪問すると、本当に心が痛みます。大勢の若き高校生と島民が鍾乳洞の洞窟で殺されています。日本人としてぜひ一度は 訪ねて欲しいところです。もちろん広島長崎の原爆記念館を含めて。

珊瑚できた島。喜界島、沖永良部、与論島は船から見るとまるで標高10メートルぐらいの島に見えます。いつも冬に名瀬から与論に向かう小さな連絡船にのって沖永良部世論島を見るにつけ思うのですが。台風の時などは波が島全体を超えてしまいそうな感じです。ちなみに与論島は標高97メートルです。しかししまの人たちがあまりにも低いからといってみんなで3メートルほど盛り土をして標高100メートルにしたそうです。一方、沖永良部は240メートル の大山があります。また喜界島は211メートルの丘があります。

西郷さんが沖永良部でサトウキビの収穫と砂糖作りのシーンがありました。サトウキビの葉を落としてそれを圧搾機にかけるのです。圧搾機を回すのに長い棒を機械の回転ぶに入れてその回転部分を牛に引かせて回転させます。牛は一日中絞り機の周りを回っています。一人が圧搾機の後ろに座って次々にサトウキビを絞り機にかませていきます。子供の頃にこの牛追いの手伝いをしたことがありました,絞り汁を集めてから、その砂糖液を 沸騰させて、固まらせて黒砂糖ができます。砂糖のない 当時、黒砂糖は世界中で貴重品だったことかと思います。だから琉球にそして、そこから中国、欧米に売られたのです。大変高価に取引されたと思う。だから薩摩の財政が豊かであったのです。徳川幕府の諸大名のコントロールのための手段参勤交代あるいはまた薩摩藩に課された 宝暦の治水工事などの多大なお金がかかったけれどもその財源となったのです。また薩英戦争のための守備のための砲台ずくり軍艦の買い付けなど様々な費用がこの奄美の黒砂糖のおかげで賄われていたのでした。薩摩の役人の呵責なき島民いじめは正義感に溢れた西郷は怒りを感じて歯がゆい思いをしたのです。

数年前に奄美大島龍郷出身の大江修造 東京理科大学教授にお会いして彼が書いた“明治維新のカギは奄美の黒砂糖にあり“という本をいただき薩摩がどれほど奄美の黒砂糖でその使命を果たすことができたかあるいは明治維新の資金源となったかを知ることができて、奄美の人たちの貢献を誇りに思いました。我々の祖先が明治維新の力になったということで誇りに思いました。しかし農民の苦しみは並大抵ではなかったのです。西郷さんがどれほど怒りを感じたことか。
 
西郷さんはその性格は生まれつきの正義感を持ってうまれた人物だったのですね。彼が3回も奄美大島に島流しにあったことがまた彼の人物を一回りおおきくしてのではないかとおもいます。人はその一番苦しい時に、鍛えられるのだという。そしてまたその時にいい出会もあったのです。

西郷さんが島流しにあった奄美の島々。

私は世論じまに生まれて小学4年生の時に奄美大島の名瀬という街で中学高校を出ました。

西郷さんが奄美の龍郷に島流しにあった時そこには支那から帰って来ていた岡程進儀に漢詩を習い漢籍の指導を受けたことが自分の修養になったのでした。その後徳之島沖永良部島への島流しのたびに行李いっぱいの漢籍を持ってじぶんの修養に勤めてさらなる人物に成長したのです。特に朱子学、陽明学からの影響が多かったようです。西郷の行動は大義名分そして正義感にもとずくものが多く見受けられます。いにしえから支那の聖人たちの書籍はその後の人たちに大きな影響を数千年に渡って与えつずけているのです。孔子であり孟子であり、王陽明であり、数千年の長きにわたり人びとを導いてくれたのです。これらの古典がまた西郷さんを導いてくれたのです。だから西郷の残した言葉は実に人間としての修養から滲み出た言葉が出ています。曰く

郷さんのこの書は京都の日光ホテルの受けつのところに飾っています。

そしてまた、「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」「児孫のために美田を買わず」さすがに利他の心ですね。「己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ」流石に明治の国を作った人たちの心構えですね。私腹を肥やさないことですね。明治の偉人渋沢栄一も “論語と算盤”の本で商売の本質は国をとますことである、といっています。
だからあれだけ多くの銀行を作り会社を作ったのですが。自分は何一つ利益を受けることはなかったのです。

•「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」

江戸城無血開城をはたした山岡鉄舟、薩摩藩士、一人を連れて並み居る官軍のなかをくぐり抜けて西郷にあい無血開城を実現させた山岡鉄舟を評して西郷はこう言っていす。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」山岡鐵舟はその後 明治天皇に使えて日本の発展に力を尽くすのです。英雄は英雄をしるのですね。維新で世の中が大きく変わる時、世のため人のため利他の心を持って  活躍した人がたくさんでています。そしてその人たちがお互、意気に燃えて世の中を変えていいたのです。 この維新の頃に 世のため人のため活躍してくれた先達がたくさん出て国のために頑張ったのですね。坂本竜馬、海援隊を作り外国からの脅威に備えようとして頑張っていました。幕府軍艦奉行の勝海舟は龍馬のことをよく面倒見ていました。そして薩摩、長州の仲を保つためによく働いています。幕末の尊王攘夷、倒幕、そんな、中で、良く幕府を倒さないで、大政奉還に持ち込み、江戸城の無血開城に成功し、政治を正道に戻したことか、徳川慶喜もまた 西郷との交流で 危うい将軍家をうまく持ちこたえさせたものです。徳川300年の歴史、侍がその矜持を持ちつずけたことで外国からの圧力をはねのけて偉大なる明治維新が成功されたのですね。これは一つには教育(寺小屋教育)あるいは姉弟を教えた若き指導者の賜物かと思います。戦後のマーカサー による教育改悪によって日本の良さがどれほどなくなったことか。日本は元の良き教育を取り戻さないと、生きる活力さえうしなわれていくのではないでしょうか。
 
西郷さんの利他の心、鹿児島市の出身である京セラを作った稲盛さんは子供の時から西郷さんにしたしんできたものと思います。故郷の大先輩の教えは身につていたのですね。稲盛さんは西郷さんを尊敬してやまなかったのでしょう。そして利他の精神が身にしみていたのでしょう。

稲盛さんは 素晴らしい方ですね。日本の通信料金が世界各国よりも大変高いことを心配されてこれでは日本は世界と太刀打ちできないと思い若きエンジにヤーとともにKDDI を作ります。NTT こそ国の恩恵を受けているはずですから料金を安くして日本経済に貢献すべきであるはずなのにその公共性を発揮してくれなかったのです。利他の心が少しでもあったら、もっと日本経済に貢献できたはずですが。

それに対して一小企業のKDDIが自力で回線を立ち上げるのですから 大変な苦労だったと思います。 

その後稲盛さんはJAL が破綻した時政府の要請を受けてJAL の再生に参加します。たった2名の部下を連れてJALに乗り込んだのです。従業員3万人、そこにたった3名で乗り込んで行ったのです。戦国時代 3万名の敵陣に対してたった3名のサムライが戦いを挑んで勝ったのに等しいです。稲盛さんは僅か2年余りでJAL をたてなおしました。これこそ利他の心あればこそできたのでしょう。従業員の意識改革だけでこの大会社を立ち直らせたのです。これからも利他の心で益々日本経済に貢献されていかれることと思います。

潮が引いたら沖に砂浜が現れる百合が浜武家社会を思うときやっぱり平家のことを思い浮かべます。
平家は福岡の壇ノ浦でついについに滅びてしまいます。大勢の平家の武士たちがあちこちに落ち延びて行きました。鳥取県の山の中に平家村というのがあり大勢の平家の落人がこのむらに住んでいました。ここの平家村のひとたちは名字を“平家”と名乗っています。三洋電機の鳥取に働いていた優秀なエンジニアーに平家君がいました。こちらは正真正銘の平家の落人の子孫になります。多分壇之浦から遠い奄美にも落ち延びた人たちが多くいたのだと思います。私の“平”姓は 世論島では2軒でした、我が家には平家にまつわるものはありませんでした。明治になって苗字を許されて勝手に平、性を名乗ったのかあるいは平清盛の悪行に遠慮して平家の子孫であることを隠していたのか黙っていたのか。沖縄には“平良”の姓が多いです。また鬼界島にも平家の落人が渡ったという話もあるので世論じままで流れた人もいたのでしょう。人には平家の子孫だと言っています。武士の流れのものだと気持ちがいいし頑張らなくちゃいけないと思っています。You Tube で三波春夫の 平家物語を琵琶法師の伴奏で聞くことができました。物悲しく平家の凋落を語る素晴らしい曲でした。一度聞きたいものですね。琵琶の音も素晴らしい。こんな楽器もあったものですね。“西郷どん“を見て故郷に思いを馳せました、故郷を思い出しました。来年は島に帰って墓参りをしようと思っています。

Andy Matsui さんのこと

西郷さんは「児孫のために美田を買わず」

と言っています。流石に公に仕えた人の言ですね。 
松井さんも流石にこの教えを実行された人ですね。今回の20Million$のCommunity えの寄付も素晴らしいですね。また松井さんの全てのお子さんは親の厄介にならずに全部自分たちの努力でハーバード大学を優秀な成績で卒業され、そしてまた実業についてからも大成功されてさらに父親以上にPhilanthropyを実践しています。次女のKathy Matui san はBangladeshiの女性の大学に多大の寄付をししかも総長としても活躍されました。親の背中を見て育ったのですね。青木財団の長野の中学生から日本の総理大臣をというProject で中学生がCalifornia を訪ねた時に松井さんのナーサリーを訪問させてもらいました。子供達は大変感激していました。この子たちの中から第二の松井さんが、あるいは日本の総理大臣が出るかもしれませんね。今松井さんは病気のためペブルビーチの自宅でおくさまと療養中です。残念です、しかし子供達が父親の背中を見て素晴らしい人生を送っている一例として素晴らしい生き方をして、利他の心を、我々に教えていただいたことに感謝したいです。

Los Angels times の記者、Steve Lopez さんが松井さんのことの 手記を載せています。せっかくなのでその記事の一部を無断で掲載させてもらいます。

In Salinas, the Matsui family is known for its orchids and its life-changing generosity

By STEVE LOPEZ

AUG 01, 2018 | 3:00 AM
| SALINAS, CALIF.

Theresa Matsui at her family orchid farm in Salinas. (Steve Lopez / Los Angeles TImes)

In mid-July, the Matsui family wrote another check.Nobody who lives here, in what is referred to locally as the nation’s salad bowl, is surprised when this happens.

Andy Matsui and his family are known for two things: Growing orchids by the thousands and giving away money by the millions.The latest donation, $500,000, was given to the Natividad Foundation for a new public hospital pharmacy that will serve patients with cancer and other chronic diseases.

I asked Hillary Fish of Natividad about Andy Matsui’s legendary giving. “I can say I really love him,” said Fish, who used to work at Matsui Nursery. “I think he feels like he has lived a wonderful life and he has the means to be able to help others, and he wants to do that. ”Last September, the Matsui family foundation donated land to Hartnell College in Salinas, to use however the school sees fit.The gift was valued at more than $20 million. And since 2004, the family has given about $8 million in college scholarships to Salinas-area high school students who might not have been able to afford college otherwise.

長野の中学生から日本の総理大臣を出そうとの青木財団の平成の咸臨丸の訪米団の子供たちたと。

僕の命は言葉とともにある。 – 福島智

縁あって福島智さんに東大教授の児玉先生宅でおあいする機会がありました。「盲ろう」の人に会う、一体どんな話をすればいいのだろうかと心配しながら児玉せん先生に聞いた。先生曰く普通に話していいよとのこと、先生は盲ろうの人の中にもいい人と悪い人がいるよね。などと話しているそうです。それならなんでも話していいのだと気が落ち着いた。
目が見えないことを想像してみる、映像の世界から閉ざされている、耳が聞こえない、静寂の中にいる、想像して見ても、大変な世界だ、その中に生きるとは、どんなものだろうか、とても恐ろしい世界に思われる、いつも孤独が襲ってくるような。

福島先生の声はちゃんと普通の声でいらっしゃる、18歳まで話されていたのでそれが持続されているらしい。それが18歳で耳が聞こえなくなって盲ろう者になった。どうも我々は映像で人のイメジをつくっているらしい。あるいは事象を映像で記憶しているらしい。お会いしてまず聞いて見た。先生は初めてあった人をどんな感じで記憶にとどめていますか。と質問してら返事がなかた。また2回目にあったらどんな人だったか覚えていますか。と聞いたらこれにも答えがなかった。言葉がすべての世界なのでイメイジの様子がないかも知りません。そのうち指点字で翻訳してくださる奥様ともう一人の通訳を通して勝手にいろんな話が飛び交って行きました。そして誰かが冗談をいうと一緒にみんなで大声で笑いました。

児玉先生の奥様の手料理をいただきまた寿司もご馳走になりました。福島先生は健啖でいらして児玉先生の奥様の手料理をおいしい美味しとたくさん召し上がりました。先生は指点字での会話に神経を集中されてすごいエンゲルギーを使われているような気がします。通訳されている奥様もすごく神経を集中されていました数名の話を全部通訳されているようです、ですから数分で通訳を交代していました。

黒沢明監督の往年の名画、影武者、乱、などで名脇役をつとめられた、油井昌由樹さんも来られており、黒沢芸術の一端を撮影現場の状況から説明していただいてあの名画が作り出されたのだと思って大変感激しました。台風のシーンを撮るのに実際に台風が来るのを待って撮影したらしい大変こりたかたですね。台風に向かってセリフを言うのだそうですが。雨が直接喉の方にあたるのでセリフが出てこなかったそうです。油井さんは馬が好きで随分世界のあちこちでいろんな馬を乗りこなしたそうです。時代劇の戦闘シーンで馬をどこで止めるかを一生懸命に調教して本番で敵の大将のまえで急停止すときのこつなど、黒沢監督のこりしょうとそのスタッフの苦労が目に見えるようでした。油井さんは夕日が好きのようでロスアンゼリスからサンデゴへ行くときの夕日が世界で一番素晴らしかったと、またモンゴルで見る夕日も素晴らしかったと まるで夕日の旅人みたいなロマンを語ってくれました。ジョン、フォードの西部劇を見る様な感じでした。

帰りに福島先生の書かれた“僕の命は言葉とともにある”をいただいた。先生の直筆のサインがあり感激でした。カリホルニヤーに帰る飛行機の中で我を忘れて読みふけった。視聴覚を失った人の凄まじい生き方を、もう身動きもできないで読みふけっていました。目の前にすわったスチュワデスに本を指してこの人にあったのだよと自慢してあなたも読んだ方がいいよとリコメンドしました。先生はたくさんの本を読まれている。点字で読まれるのでそのスピードは普通の人の半分のスピードのようです。だからたくさんの時間を使ってよんでいらっしゃるようです。

私が北方謙三を読んだのはあるとき新聞の広告で 楊令伝、だったか、楊家将のベストセラーの宣伝だった。楊令伝 は中国の部族間の争いそれも騎馬隊の戦いが主な内容でした。数十騎の騎馬隊が100綺もいるいる群れに突っ込んで一気に相手を乱して勝利するもので、親子、兄弟愛、そして部族愛などが織り成す大スペクトラルな物語でした。場面がすごいまるで数秒の差を見事にかわして敵をケチらせて行くのでその様子は爽快でした。なお中国の中のある場所の地形かと思われますが日本のある場所の地形の様にも思われました。描写が生き生きしていて草原の傾斜後ろの山そして崖の様子などみごとなものでした。それからずっと後になってから三国志、水滸伝を読みまたその壮大な展開に我を忘れて読みふけったものでした。北方謙三さんはすごい作家ですね。福島先生と 致知での対談も素晴らしかった。よく山に行っていたので陽伝玲のあの急斜面は確か 北八あたりにそっくりだなあといつも想いをだしていました。

福島先生は実に洋の東西を問わず色々な作家の本を読まれていた、トルストイの戦争と平和、カラマゾスの兄弟あるいはパスカルなど読みふけっておられています。そしていつも行う対談の中にこれらの本の中身が引用されておられます。

先生が幸せとは何かということにつぃて。幸せとは 自分の背中を ある時間ののちに後ろから見てそのときしあわせだったのだと言うという思想家の 吉本隆明さんの言葉にあってそれに共感されていました。人間は後ろに目がないから一度幽体離脱して自分を見るということのようです、なるほどと思いました。

福島先生は東京都立大学の出身と聞きびっくりしました。わたくしは電気工学ですが。なんだか後輩を見つけて大喜びでした。こんな素晴らしい後輩がいるなんて嬉しかったですね。そしてすごく誇りに思いました。

我々はいつも起業家とともに日夜苦労していますが。やっぱりコミニケーッションが一番大事なのですね。火星人は地球の人たちとコムニケイッションしたくてたくさんの信号を送り続けているようです。だから空飛ぶ円盤が現れたり ETが地球にきたりするのですね。先生もET が好きで、またそのうちに宇宙に行きたいとおっしゃっています。宇宙を相手に考えておられるイーロンマスクに頼んで火星探検に参加されたらどうでしょう。先生なら火星人とコムニケイッションできるのでは。

今回湯河原で中健次郎 先生の気功合宿にいつもの仲間たちと 参加しましたが。 先生は自分を無にして宇宙とつながりなさいそうすれば大きな宇宙がしかりと支えてくれてブレない自分が作られるという。それが気功のエッセンスなのだと思いました。宇宙につながっていれば微動だにしないですね。ですから先生を押せども引けどもしっかりとちについています。

平熟、中健二郎先生 気功合宿の延期についてのおしらせ

数年にわたって起業家の皆さんと起業家の苦労、これからどう展開するのかなどを夜を徹して議論する会を持って来ました。その頃私が出会ったのが中健二郎先生の気候合宿でした。中先生の習得された中国の仙人が教える気功でした。先生はその後さらに修行を積まれてインドの聖者を回られてさらなる極みに邁進されています。インドのマザーテレサの元での修行、さらには聖者サイババとの面談などそんな話を聞き大変刺激になっていました。そんなわけで先生にお願いして我々の平塾を先生の道場で毎年おねがいしていました。いつも3月の中旬に1泊2日で行なっていました。今回は残念ながら私が体調を崩し日本行きを4月の初めに伸ばした関係で中先生のスケジュうるが合わなくなりました。さらに中先生もさらなる魂の探求にインド、ネパールの各地のコムニテーでのくんれんに数ヶ月の予定で訪問されていますので今回楽しみな 中先生の道場での合宿は延期します。またいずれかの日に再開しますのでそれまでお待ちください。中先生の魂の旅がインドかく地で展開されています。先生の訪問先での記録そしてそこに参加されている人たちの思想哲学などそして心の安らぎを求平和な社会を作る努力などの感想を寄せてもらいましたので先生の許可を得てここに掲載させていただきます。来年あるいは今年の後半にでもまた平塾を再開したいと思います おまちください。中先生貴重な体験談ありがとうございます。またよろしくおねがいたします。

中先生からの 便り。


私は1月27日より、南インド・ポンディチェリーの郊外にあるオーロヴィル(聖者オーロビンドの霊的パートナーであったフランス人のマザーが作った共同体)に来ています。スペインで私の講習会を開催してくれた友人夫婦がここに住んでいて、色々と案内して貰っています。ここでは、世界52ヶ国から来た2500人もの人々(インド人が約1000人)が霊性を高めながら、平等かつ平和に暮らしています。面積はおよそ20平方キロで、学校は幼稚園から高校まで10校あり、ホリスティックな医療を取り入れた医療施設も整っていて、ヒーリングセンターもあります。ここの皆さんは意識が高く、交流するだけでいろいろとインスパイアされます。もちろん農業もオーガニックで、50年前には荒れ地で砂漠化していたという広大なエリアが素晴らしい森と畑に生まれ変わっていました。何と今までに300万本もの木が植樹されたそうです!オーロヴィリアン(オーロヴィルの住人)以外にも、インド各地から若者たち(建築科の学生)が自然な家造りのためにインターンに来ていたりと、とにかく活気があります。青年たちの純粋さと情熱、そしてクリエイティブな力に圧倒されます。男女一緒に明るく楽しそうに働いていて、ここでの実習が大学の単位として認められるらしいです。日本でもこのようなシステムができると素晴らしい若者が育つと思いました。オーロヴィルは今年50周年を迎え、その式典にはモディ首相も来られるとのことです。さすがはインド、政府もずっと予算を割き支援しているのです。 シュリ・オーロビンドは、お若い時にインド独立のために奔走され、拘置場に拘留されていた時にヴィヴェ・カーナンダ(聖者ラーマ・クリシュナの弟子、宗教家、ヴェーダンタ哲学の真髄を欧米に伝え、岡倉天心とも深交があった)との出会いで、政治から霊性への転換が起こり、悟りを開かれた方です。マホトマ・ガンディーにも多大な影響を与えられました。ポンディチェリーにあるシュリ・オーロビンドが晩年お住まいになっていた住居を案内していただいた時は、その崇高な意識とエネルギーを感じ、魂が震えるほど感動しました。何かがダウンロードされたような感じでした。

人々と地球の霊的進化のため、自主的に生き生きと働かれていらっしゃるオーロヴィルの方々、それぞれがユニークで、しかも経済的にも自立していて、一人一人の生命が内なる喜びで花開いているように感じました。色んな問題を抱えながらも、実際に行動に移している姿に心底感銘を受けました。

福岡正信さん式の自然農法をされている方やダウジングで土地や建物のエネルギーを整えていらっしゃる方にも出会え、毎日が感動の日々でした。ヨットで世界一周した後、持続可能な社会の必要性を感じ、オーロヴィルに移り住んだと言う方もいました。ここのスーパーでは食べ物や洗剤等もオーガニックなものを安価で買え、オーガニックレストランも何軒かあり、太陽光やバイオガスによる発電・風力による地下水の汲み上げシステム等、全ての面でエコに徹しています。
ここでは、音楽をはじめとする様々な芸術・ダンス・ヨガ・合気道・乗馬等自分の才能や持ち味を皆とシェアすることが自然に行われており、私もインターンの大学生たちに為に気功講習会を開くことができました。体調の悪い人へのアドバイスと治療もさせていただけ、ハートが満たされました。オーロヴィルにあるチベットパビリオンにも行ってみました。チベットの文化を伝える施設で、15才でチベットから亡命して来た一人の女性が作ったものです。ダライ・ラマも3回来られたとのことで、ダラムシャラのチベット孤児たちも冬休みの間、こちらに滞在しています。オーロヴィルで、国家や民族を超えて互いに理解し合っている姿を観ると、世界平和の雛型がここにあるような気がします。始まりは、マザーことミラ・アルファサ(Mirra Alfassa)女史の『ドリーム』でした。日本でも、日本の霊性文化を取り入れたこのようなドリームが具現化すれば良いのになと切に思いました。ちなみに今回お世話になったY さんは、このマザーの『A Dream 』という文章に触れ、スペインでのすべての仕事を投げ打って、ご主人とここに移住する決心をされたそうです。オーロヴィルの良さは、創始者が亡くなっても、勢いが衰えることなく、益々発展しているところだと思います。普通ならば尻すぼみになりそうな活動ですが、逆に場所も広がり、住民も増え続けています。純粋な動機と地球にとっての必要性があるからだと思いました。最近、シュリ・オーロビンドのご本「インテグラル・ヨーガ」(発行:アルテ)を借りて読んでいますが、オーロビンドの説かれたエッセンスが書かれてあり、その宗教哲学の深さには心を打たれるものがあります。彼の文章は非常に難解で、日本で何度か読もうとして途中で諦めていたのですが、今回は彼の伝えたかったことが、スッと入ってきます。

2月4日のフライトでここを離れる予定でしたが、ふとしたご縁で、2月4日からオーロヴィルの近くにある『Sri Vast アシュラム(道場)』でリトリート(静修)に入りました。その後2月11日に出るつもりだったのが、覚者Sri Vast さんから「もう少しで全てのチャクラが整うから、滞在を15日まで延長しなさい。費用はこちらで持つ。」と言われ、今その流れに従っています。日本を出る前に予約していた次の目的地へのエアーチケットとホテルはキャンセルとなりましたが、魂は神の計らいを喜んでいます。こちらでは霊性修行以外にトリートメント(ここではプロセスと言う)を受けることもできます。それらは各チャクラに働きかけるもので、アーユルヴェーダのハーブやオイルを使って二人がかりで特殊なマッサージをします。シロダーラのように温めたオイルを垂らしながら、7つのチャクラを優しく刺激することもあります。毎朝4時から瞑想、6時からインナー・ヨガ(内なるエネルギーを整えるソフトなヨガ、ワニになりきって砂場を這う運動もある)を行い、時々サットサン(覚者との清朗の集い)があります。意識の覚醒を身体や感覚から入るのが、気功や太極拳と似ていて、大変興味深く参考になります。『身体に刷り込まれたネガティブな感情エネルギーや条件づけされた意識を解放すると、真の自由を取り戻し、過去や未来にとらわれず、開かれた意識で瞬間瞬間に自己を表現しながら、至福で生きられる』と、Sri Vast さんがおっしゃっていました。オーロヴィルとSri Vast アシュラムでの体験は、グラウンディングとクリエーテイビティという両面で非常にインパクトがあり、私にとって何か新しい始まりのきっかけになりそうです。2月15日の夜行寝台バスでケララ州に行き、数日後にヒマラヤの麓にあるリシケシュというヨガの里に向かいます。そこでは一昨年お出会いした何人かの覚者の方々をお訪ねするつもりです。どのような方々に出会っても、適度な間合いを保ち、のめり込むことなく、しかも謙虚に学ばさせていただければと思っています。大いなる導きの中で、静かなる自己を守りながら、皆と共に今、今、今を感謝と喜びで生きていく!これに尽きると思います。

『すべての生命は、その見かけの背後を見れば、広大な自然のヨーガであり、自然は意識的にも潜在意識的にも、自らの極致を実現しようと、いまだ実現されていない可能性をますます表現し、自分自身を自らの神聖な実体と一体化させようと試みている。』(オーロビンド)『生命全体がその神聖な源泉を意識して、知識、意志、感情、感覚、肉体のそれぞれの活動のなかに、神に由来する衝動を感じられるように。それは世俗的な目的に欠かせないものを何ひとつ拒否せず、それを拡大し、今はその目から隠されている、もっと大きくもっと真実な意味を見いだして、それを生きる。それを限定的、世俗的、死を免れない運命のものから、究極の、神聖な、不滅の価値をもったかたちへと変容させる。』(オーロビンド)今回の旅では、『真の自由とは何か』について常に問いかけられているような気がします。

人類全体が無限の存在に目覚め、ひとつになりますように!
中健次郎

付録:
『A Dream ( ドリーム) 』 
「地球上のどこかにどこの国のものでもない場所、うそ偽りのない志を持つ善意ある人々が世界市民として自由に暮らせる場所、人々がただ一つの権威と呼べる至高の真理にのみ従う場所、そんな場所があるべきなのです。平和と友好と調和の場所、そこでは人間の闘争本能というものが、苦しみや惨めさの原因を克服することや、弱さや無知に打ち勝ち限界や無力さを征服する為だけに使われるのです。その場所では、魂(精神)の必要性と進歩への配慮が、欲望と色情を満たすことや、快楽と物質的楽しみの追求よりも優先されます。この場所で、子ども達は魂とのコンタクトを失うことなく、統合的に育ち発達することができるしょう。教育は、試験にパスしたり免状や役職を得る為に為されるのではなく、持って生まれた能力を伸ばし、新しいものを引き出すために為されるのです。
(中略)
一言で言うならば、普段もっぱら競争や闘争だけをベースにしている人間関係が、協力と真の兄弟愛によってより良きことを為していく人間関係に置き換わっていく、そういう場所になることでしょう。」(マザー)

シリコンバレイのインド人の活躍 (TIE Organization の事)

Stanford 大学の 若き博士課程のエンジニア達が訪ねてきた。いずれもインドのIIT(インド工科大学)の優秀なエンジニアータチでした。新しいSearch engine のソフトが出来上がったので見て欲しいと言われて無理矢理にStanford 大学のComputer 室に連れて行かれた。これからのIT 業界はSearch engine が大事になる、きっといいBusiness になるから資金を集めてくれとのこと。そんなわけで若き彼らが目をかがやかせて説明してくれた。Hardware のエンジニア~である私の理解するところではなかった。だからIT 業界でSearch Engine がどんなに大事であるかわかるはずがなかった。しかし目をかがやかせて説明する彼らの熱気はひしひしと感じられた。すんだ目をしている。そんな訳でシートマネーを集めてあげることにした。時あたかも台湾経済華々しい時でした。PCの立ち上がりと半導体ビジネスの急成長でした。同時に台湾政府が経済の活性化を期待してCapital gain Tax をゼロにしたために大いに投資をあおっていたので]我も我もと投資を考えていました。かって若き台湾のエンジニアーに投資して大成功させたため台湾の投資家がよく私を訪ねてきてくれました。またタイミングよく7名(こちらも7名でした)の台湾の投資家がシリコンバレイにきていたのです。早速みんなを集めてStanford 大学のコンピュター室に案内してまたSearch Engine のデモをしてもらったその後みんなで日本食レストランに夕食に行きました。そしてこの会社のシードマネーを70万ドル集めたいから皆さん一人ずつ10万ドル出してください。とお願いしたら、2、3の人がいや俺は15万ドル出したい。いや私は20万ドルだしたいと大変な意気込みでみんなが盛り上がってしまいました。彼らとてサーチエジンがどういうものかわ私以上に知る由も無いのです。ですが時の流れがみんなをエキサイトさせているのでした。なんとかなだめて結局一人10万ドルの投資があっという間に決まってしまいました。そしてそれから1週間後にお金が集まり会社が設立されたのです。

当時のシリコンバレイは IIT (インド工科大学)での技術者が企業の上層部に昇進したりまたIT 関係の会社を上場させていたりして 活躍しているときでした。これらのインド人一世たちがなんとかインドのわかい人たちを助けてあげようとして数名が集まり色々相談をして互助組織を作りました。月に数回の集まりを企画してここにわかい人たちえを集めて大企業のこれらの成功者や、新しく上場した会社の社長などが,起業の心得、技術の動向、などをコーチしてくれました。この時に集まった有志も7名だったそうです。そしてTIE Organization が設立されたのです。7名という数字はいい数字なのですね。だからことを始めるには7名とか8名でスタートするのがいいとのことです。またグループで 課題を検討するのも4名から8名までがいいそうです。そんなわけで黒澤明の七人の侍。あるいは荒野の七人などが世界的に大当たりをしています。またIntel を作った 8名の反逆者などが有名です。Tie Con も7名の有志のおかげでのちの参加者4千名に登る世界一のTie Organizationできたのでした。この立ち上げに頑張ったのがもとIBM Kentucky のプリンター事業部の事業部長だったKailashi Joshi 博士でした。私は以前からDr. Joshiと知り合いであった関係でこのかいの立ち上げから手伝いをしたり会にでたりましたいました。この会が始まったのが1993年でした。初めの集まりは20名から30名ぐらいの集まりでしたがそれがだんだん大きくなって千名に近くのエンジニアーが集まるようになりました。当初あの7名の侍はDr. Joshi , Bipin Shah ,A.J.Patel などの7名でした。

そして最初に会長になったのが Dr. Suhas Patil さんでした。Dr. Patel はCirrus Logic という半導体会社を設立して走りのAsic Design の技術を設立しました。これが Fabless 半導体ビジネスの走りとなり誰でもがIC を設計できるきっかけとなりました。そしてIC の製造の方は日本や台湾の半導体メーカーに頼んでいました。NEC, Hitachi , Toshiba Sanyo などがIC を作ってくれていました。もし日本の半導体企業が皆がDram に集中しないでASICにも力をいれていたらTSMC やUMC に全てをもって行かれなくて済んだと思うし日本の半導体産業がこれほど落ち込むことはなかったと思うが、その後のTie を盛り上げた人たちが次の歴代の会長です。

Dr. Joshi , Dr. Patil にはビジネスのほかいろいろお世話になりました。日本からの起業家たちとよくDr. Patil の 会社でいろいろお話とサジェッションをいただいたものでした。また我々が立ち上げたPico Power を買収してもらい感謝しています。その後のかく会長ともいろいろ日本からの訪問者を受け入れてもらったり、また 元 Sony の会長出井伸之さんのKey note Speechをアレンジしてもらったりしました。こ方達は本当にわかきアントレプレナーたちをガイドしてくれていました。これがシリコンバレイの起業家たちを育てる、シリコンバレイのインフラを作り上げてくれたのです。

Tie Con が大きくなり年に一度開かれる大きな大会には3千名4千名という規模になりました。

2007年の出井伸之 さんのKey note Speechこの時は4千名が参加していました。

Junglee はこんな状況の中で発足しました。ときあたかもinternet の黎明期でInternetによるBusinessがたいへん多くスタートしました。Junglee のサーチエンジンは当初は職探しに採用されました。Washington Post が新聞紙上で簡単な職探しができるようにしたものでした。されにアパートの部屋探し、あるいは家を買うときの検索などいろんなところに使われていきました。当時の検索は単語一つで検索するので何万とういう検索結果が出ますからそれをいちいち調べるのが大変でした。Jungleeのサーチエンジンは数個の単語でサーチできるので効率が上がりました。しかし検策の精度を上げるにはいろんな知識、また言語学などを総合していくので検索エンジンの精度を上げるのに大変な研究がついて回りました。ソフトウヤーのエンジニヤの数は増えていきます。インド側にも人を採用して研究に費やしていました。そんな頃アマゾンが自社で検索エンジンを開発しよとしてジャングリーを買収するという話が出てついに210Million $ で受け入れれことにしました。そしてインターネットバブルにかかりアマゾンの株は300倍、400倍と上がっていきました。このために従業員は一時的に百万長者が数百人とできました。そのご2001年以降のバブル崩壊とともに株価かは大幅に落ちてしまいましたが。それぞれにある程度金持ちになって次のチャッェンジに向かっていきました。ベンキイ、アナン、アシシ、ラケッシュの経営陣は捕虜としてシアトルのアマゾンに3年間勤務しました。そして彼らが今のアマゾンのサーチエンジンを開発して無事シリコンバレイに戻ってきました。 

そしてバブルの後いろんなビジネスモデルが考えられてインド人技術屋がますます活躍するようになりました。彼らは ジャングリーの創業者に色々相談して彼らの会社を創立します。そして金を集めたいがどうしたら、いいかと聞くと彼らは、Mr. Taira に聞けという。そんなわけでインド人の起業家たちがいっぱい訪ねてきます。そして熱心にビジネスプラを説明してから自分のことを宣伝し始めます。どの人も異口同音に自分はIIT 何年卒業でその年のTop 10で卒業したというのです。どうもみんながTop 10 というのでおかしいと思い、ところであなたの卒業して年の人が訪ねてきて同じ年のTop 10 という方が5人もきたがあなたは本当にTop 10 だったのですかときくといや実は物理の教室でのTop 10 だったという。

日本では能ある鷹は爪を隠すというがインドではどうやら爪は見せびらかさないと、競争に勝てないらしい。
Junglee の成功の物語がBusiness Week のアジア版に載った。表紙を飾ったのはベンキー、アナン、アシシ、ラケッシュ の写真だった。なんとそしてベンキ、アナン、アシシ、3名の大学時代の成績が載っていた。ベンキ、アナンはまさしくNo. 1 だったらしい。アシシ もTop 5 ぐらい だったようです。ラケッシュにお前の成績が載ってないが君もTop 10 だったのかと聞いたらいや Mr.Taira 俺は後ろから数えた方が早かったという。みんなの兄貴分で社長を務めてもらった、社長の成績は違う評価しないといけないようです。でもラケッシュは兄貴分としてよくみんなをまとめて会社を運営してくれた。

Tie の例会で、ナビン、ビスト(Nayna Network を二人で設立)がJunglee の話をTIEの例会でしろということでベンキーと二人で講演した。下記のYou Tube をご覧ください。

さてTechnology はますます進歩しています。ビジネスモデルも大きく変化しています。起業はますます難しくなっています。しかし新しい分野に勇気を持ってChallenge しないと夢は達成されません。またもう一つ新しい夢に向かって挑戦したいものです。

山のあなたにはなお幸い住むと人のいう。チャレンジしましよう。日本の発展のために。

シリコンバレイの成功はStanford 大学が若き起業家たちを応援して会社を成功に導いたこと、そしてまたのちの基幹産業たる半導体会社Fairchild Semiconductor がDr. Noice 達によって設立されたことが大きい。さらに事業で成功した人たちが次の世代の起業家に資金を提供したりメンターとして援助し続けたところにあります。それがベンチャーキャピタリストの発生を促し、大きな資金が投入されることになるのです。残念ながら日本ではこのようなリスクマネーがなく銀行借り入れだけが資金源だったので企業を大きくするのが困難だったのです。

日本のベンチャーキャピタルの資金は年間で 数千億では シリコンバレイの数10兆円に比べてあまりにも少なすぎます。日本の機関投資家がもっとベンチャーキャピタルに資金を投入しなければ日本の産業の発展は期待できないですね。日本の機関投資家あるいは不動産産業が、もっとベンチャーキャピタルに資金を提供しないとベンチャー起業が立ち上がれません。

Junglee の仲間たちとの集まりで。(Palo Alto にて)

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「僕の命は言葉とともにある」 福島智

縁あって福島智さんに東大教授の児玉先生宅でおあいする機会がありました。「盲ろう」の人に会う、一体どんな話をすればいいのだろうかと心配しながら児玉せん先生に聞いた。先生曰く普通に話していいよとのこと、先生は盲ろうの人の中にもいい人と悪い人がいるよね。などと話しているそうです。それならなんでも話していいのだと気が落ち着いた。目が見えないことを想像してみる、映像の世界から閉ざされている、耳が聞こえない、静寂の中にいる、想像して見ても、大変な世界だ、その中に生きるとは、どんなものだろうか、とても恐ろしい世界に思われる、いつも孤独が襲ってくるような。

福島先生の声はちゃんと普通の声でいらっしゃる、18歳まで話されていたのでそれが持続されているらしい。それが18歳で耳が聞こえなくなって盲ろう者になった。どうも我々は映像で人のイメジをつくっているらしい。あるいは事象を映像で記憶しているらしい。お会いしてまず聞いて見た。先生は初めてあった人をどんな感じで記憶にとどめていますか。と質問してら返事がなかた。また2回目にあったらどんな人だったか覚えていますか。と聞いたらこれにも答えがなかった。言葉がすべての世界なのでイメイジの様子がないかも知りません。そのうち指点字で翻訳してくださる奥様ともう一人の通訳を通して勝手にいろんな話が飛び交って行きました。そして誰かが冗談をいうと一緒にみんなで大声で笑いました。

児玉先生の奥様の手料理をいただきまた寿司もご馳走になりました。福島先生は健啖でいらして児玉先生の奥様の手料理をおいしい美味しとたくさん召し上がりました。先生は指点字での会話に神経を集中されてすごいエンゲルギーを使われているような気がします。通訳されている奥様もすごく神経を集中されていました数名の話を全部通訳されているようです、ですから数分で 通訳 を交代していました。

黒沢明監督の往年の名画、影武者、乱、などで名脇役をつとめられた、油井昌由樹さんも来られており、黒沢芸術の一端を撮影現場の状況から説明していただいてあの名画が作り出されたのだと思って大変感激しました。 台風のシーンを撮るのに実際に台風が来るのを待って撮影したらしい 大変こりたかたですね。台風に向かってセリフを言うのだそうですが。雨が直接喉の方にあたるのでセリフが出てこなかったそうです。油井さんは馬が好きで随分世界のあちこちでいろんな馬を乗りこなしたそうです。時代劇の戦闘シーンで馬をどこで止めるかを一生懸命に調教して本番で敵の大将のまえで急停止すときのこつなど、黒沢監督のこりしょうとそのスタッフの苦労が目に見えるようでした。油井さんは夕日が好きのようでロスアンゼリスから サンデゴへ行くときの夕日が世界で一番素晴らしかったと、またモンゴルで見る夕日も素晴らしかったと まるで夕日の旅人みたいなロマンを語ってくれました。ジョン、フォードの西部劇を見る様な感じでした。

帰りに福島先生の書かれた“僕の命は言葉とともにある”をいただいた。先生の直筆のサインがあり感激でした。カリホルニヤーに帰る飛行機の中で我を忘れて読みふけった。視聴覚を失った人の凄まじい生き方を、もう身動きもできないで読みふけっていました。目の前にすわったスチュワデスに本を指してこの人にあったのだよと自慢してあなたも読んだ方がいいよとリコメンドしました。先生はたくさんの本を読まれている。点字で読まれるのでそのスピードは普通の人の半分のスピードのようです。だからたくさんの時間を使ってよんでいらっしゃるようです。

私が北方謙三を読んだのはあるとき新聞の広告で楊令伝、だったか、楊家将のベストセラーの宣伝だった。楊令伝は中国の部族間の争いそれも騎馬隊の戦いが主な内容でした。数十騎の騎馬隊が100綺もいる群れに突っ込んで一気に相手を乱して勝利するもので、親子、兄弟愛、そして部族愛などが織り成す大スペクトラルな物語でした。場面がすごいまるで数秒の差を見事にかわして敵をケチらせて行くのでその様子は爽快でした。なお中国の中のある場所の地形かと思われますが日本のある場所の地形の様にも思われました。描写が生き生きしていて草原の傾斜後ろの山そして崖の様子などみごとなものでした。それからずっと後になってから三国志、水滸伝を読みまたその壮大な展開に我を忘れて読みふけったものでした。北方謙三さんはすごい作家ですね。 福島先生と 致知での対談も素晴らしかった。よく山に行っていたので陽伝玲のあの急斜面は確か 北八あたりにそっくりだなあといつも想いをだしていました。

福島先生は 実に洋の東西を問わず色々な作家の本を読まれていた、トルストイの戦争と平和、カラマゾスの兄弟 あるいはパスカルなど読みふけっておられています。そしていつも行う対談の中にこれらの本の中身が引用されておられます。

先生が 幸せとは何かということにつぃて。幸せとは自分の背中をある時間ののちに後ろから見てそのときしあわせだったのだと言うという思想家の吉本隆明さんの言葉にあってそれに共感されていました。人間は後ろに目がないから一度 幽体離脱して自分を見るということのようです、なるほどと思いました。

福島先生は東京都立大学の出身と聞きびっくりしました。わたくしは電気工学ですが。なんだか後輩を見つけて大喜びでした。こんな素晴らしい後輩がいるなんて嬉しかったですね。そしてすごく誇りに思いました。

我々はいつも起業家とともに日夜苦労していますが。やっぱりコミニケーッションが一番大事なのですね。火星人は地球の人たちとコムニケイッションしたくてたくさんの信号を送り続けているようです。だから空飛ぶ円盤が現れたりETが地球にきたりするのですね。先生もET が好きで、またそのうちに宇宙に行きたいとおっしゃっています。宇宙を相手に考えておられるイーロンマスクに頼んで火星探検に参加されたらどうでしょう。先生なら火星人とコムニケイッションできるのでは。

今回湯河原で中健次郎先生の気功合宿にいつもの仲間たちと 参加しましたが。先生は自分を無にして宇宙とつながりなさいそうすれば大きな宇宙がしかりと支えてくれてブレない自分が作られるという。それが気功のエッセンスなのだと思いました。宇宙につながっていれば微動だにしないですね。ですから先生を押せども引けどもしっかりとちについています。

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