企業家倶楽部へ記事を提供しました。
企業家倶楽部10月号より転記の許可を得ましたので掲載いたします。
スピンオフの歴史
シリコンバレーのシリコンバレーたる由縁は、やはり半導体産業の基礎を作ったところにある。1947年にトランジスタ(増幅装置)を発明したウィリアム・ショックレーがシリコンバレーにショックレー研究所を作ったのが始まりだ。ここの優秀な研究員であったロバート・ノイスとゴードン・ムーアら8名が1956年に独立して、フェアチャイルド・セミコンダクターを立ち上げ、ここシリコンバレーの基礎を築きあげた。
さらにノイスとムーアはフェアチャイルド・セミコンダクターから1968年に独立してインテルを設立、マイクロプロセッサ(中央処理装置)を開発し、世界最大の半導体メーカーに育て上げた。このマイクロプロセッサを電卓へ応用することで半導体産業が大きく立ち上がっていった。そして、1980年代にはパーソナルコンピューター(以下、PC)がもう一つの大きな増幅器となって半導体産業を大きく発展させていったのだ。それでは、半導体とは何か。半導体は、電気を通す「導体」と電気を通さない「絶縁体」の中間の物質をさすが一般的にはこの半導体素材の上に抵抗素材を配置し、様々な機能を持たせたIC(集積回路)のことを指す。現在では、このICはPC以外にもあらゆる電子機器に搭載されており、私たちの生活になくてはならない必需品になっている。
かつては電卓、PCなどに使われるICは半導体のエンジニアでなければ設計できない非常に難しいものだった。それが回路設計のツールが開発され、半導体のエンジニアでなくても設計が可能になり、さらに市場が拡大した。シリコンバレーの発展は、エンジニアによって支えられているといっても過言ではない。この回路設計の手法を開発し半導体を世界産業にした貢献者を紹介しよう。
半導体産業の母
今回紹介するスハス・パテル博士がその人だ。パテル博士はインドのジャムシュドプール市出身で、名門校インド工科大学(ガラガプール)を卒業後、米国に渡りマサチューセッツ工科大学(MIT)の助手をしながら博士号を取得した。その華やかな経歴からは想像し難いが、米国に渡る際にはわずかな所持金しかなかったという。1970年から75年まで、MITで電気工学の助教授として勤め、生業を立てながら技術者の先端を極めた。MITで教鞭を取った後、米国最大のコンピューターサイエンス研究所であるプロジェクトMAC(マルチ・アクセス・コンピューター)にディレクターとして参加し、コンピューターシステムの設計に携わった。
1975年から1980年の間、ソルトレイク市のユタ大学に移り、コンピューターサイエンスの教授となった。彼は長年に渡りコンピューターの設計や、ICのデザイン方法論に関わる仕事に従事した。この経験を活かし、新しい半導体の設計技法を開発し、1981年にパテル・システムズ社を設立した。この会社が後のシーラス・ロジック社の前身となる。シーラス社は集積回路のファブレス企業で、前期売上高は約200億円、900以上の特許を保有している半導体メーカーである。
コア技術の進化が世界産業を創る
80年代半ばでは、半導体製造の過程はまだ黎明期だった。シーラス社は、いわゆる半導体工場を持たないファブレス企業の走りだった。独自の設計手法でPCや各種電子機器のICを設計・製造を行いファブレス半導体メーカーとして華々しい発展を遂げた。当時のIC製造の引き受け手は日本の半導体メーカーだったが、80年代後半になると、半導体製造は日本から台湾に移って行った。1987年に、TSMC(Taiwan Semiconductor Manufacturing company)が設立され、2002年には世界トップ10の半導体製造工場にまで急成長した。TSMCはシーラス社の一番のクライアントになったのだ。
90年代に入り、PCの普及が半導体産業をさらに発展させていった。ICの性能は年々向上し、インテル創始者の一人が提唱するムーアの法則が実証された。これは、半導体の性能が18カ月から24カ月で倍増するというものだ。半導体メーカーが競って高性能のICを設計し、製造・販売していった。シリコンバレーが注目され始めたのもこの頃である。
しかし、PC市場の急成長にICの製造が追いつかないという現象が起こった。半導体不足を引き起こし、各ファブレス企業は危機を迎えた。シーラス社は、半導体の供給確保のためにAT&Tと組み、工場に投資することになり多大の資金を投入した。しかし、その後、景気の波が大きく振れて、部品あまりの状態となってしまった。シーラス社は今もその後遺症に悩んでいる。半導体産業の宿命だが、需要供給の波はどの産業にもあることだ。
だが、注目すべきは1947年のトランジスタ発明が、今日の世界的な半導体産業を創り出した事実である。
パテル博士との出会い
1992年、私はロバート・リーという若いエンジニアがピコパワーという会社を設立する際に支援した。私が以前勤めていた三洋電機の米国支社から資金を出してもらいファブレス半導体企業を設立した。本格的にノート型PCが市場にでた頃で、多様な機能ICが必要とされていた。ロバートは業界初となるパワーマネジメントのアイデアを持っていたので大好評を得ることになった。IBMをはじめ日本のPCメーカーがこぞって採用した。
一方、シーラス社も順調に業績を伸ばしており、ピコパワー社の急成長に興味を示していた。そしてシーラス社の代表としてパテル氏がついにピコパワー社を買収したいと申し入れてきた。私は自分が手塩にかけた子供を取られる思いがあり反対だったが、経営陣は市場での戦いに疲れており、シーラス社の提案に乗ろうという意見が大半だった。ついに私も折れて買収提案を了解した。売却額は約70億円だった。その後、シーラス社株の好景気で価値は200億円に跳ね上がった。会社としては20%の持ち株があったので、約40億の資金を得た。当初は私がこのM&A に反対していたので、パテル氏はいつも私に悪いなという感情を持っていたようだ。その後、彼とはいくつもの事業を一緒にやっているので今は家族ぐるみの付き合いになっている。
コミュニティと良き助言者
1992年にパテル氏ら事業で成功したインド系の企業家7名が集まり、「どうやって後進を育てるか」と長い時間をかけて話し合い、ザ・インダス・アントレプレナーズ(TiE)という組織を作った。その後、有志は20名まで増え、パテル氏が初代会長に就任した。現在では、シリコンバレーで年に一度5月にイベントが開催され、世界中からインド人を中心に4000人を集めるカンファレンスにまで成長した。私はたまたまこの仲間の一人である元IBMのジョシ博士と友人だったので、TiEのミーテイングの度に彼と参加していた。そんな理由でTiEのメンバーとの交流が多くなり、また多くのインド系ベンチャーに投資を行い、比較的いい結果をだしていたので、彼らから仲間のように扱われてきた。
今ではTiEのチャーターメンバーとして、インド人のコミュニティの中で活動に参加している。
パテル氏はさらに後進の指導をするために小さなビルを購入し、インキュベーター(ベンチャー支援)施設を作った。若手の経営者を自分の手元に置き指導している。入居しているベンチャーの為に大企業並みの通信設備とセキュリティーを備えるといった熱の入れようだ。当然、支援にも力が入る。ある通信系のエンジニアが入居し、打合せを重ねているときには、「結局のところ通信とは多くの人とコミュニケーションすることだ」と、気付き旅行代理店を設立してしまった。現在は、インドからの旅行者のためにサービスを開始し、ビジネスは順調にいっている。パテル氏のビジネスの経験とネットワークが上手く活用されたいい例である
シリコンバレーはこのようなメンター(良き助言者)が多く存在し、若い企業家を指導しながら事業の展開を手伝ってくれる。ここでも、TiEの組織が大きく貢献しているようだ。
また功をなし、ある程度財をなした企業家が後進を育てるということを気持ちよく行っている。日本ではまだまだこのようなメンターが少ないのではないかと苦言を呈する。
日本に必要なもの
パテル氏に日本で企業家を育てるにはどうしたらいいかと尋ねると、「第一にリスクテイクするベンチャーキャピタルが必要だ」と答えが返ってきた。特にアーリーステージ(株式上場前の創業ステージ)のベンチャー支援が重要だという。
次に、メンターが夢を持った若き企業家にビジネスについて教え、マーケットを一緒に検討し、マネジメントについて指導することが必要だという。
パテル氏は決して若者のアイデアの中身を変えさせるとは言わなかった。肝心なのは、若い企業家に成し遂げたい夢があること。そして、燃えるような情熱が必要だという。
若者に向けて、「もし、あなたが燃えるような何かを持っていたら、いいメンターを見つけることだ」とアドバイスを送っている。最後に必ず早い段階から弁護士と付き合ったほうがいいという。証券取引委員会の規則や税金のこと、そして企業統治についてなど、弁護士が指導してくれるからだ。そういう意味では、シリコンバレーではキャピタリストと弁護士、会計士が積極的にベンチャーに参画してくれる。
パテル氏は現在、6社のベンチャー企業の面倒を見ている。近いうちに数社が10億円企業になりそうだという。パテル氏の若者をガイドする滅私奉公の成果がもうすぐ現れると思うと楽しみである。
平 強(たいら・つよし)