挑戦せよ。平 強 (Tsuyoshi taira)

シリコンバレーのエンジェル投資ブログ

上を向いて歩こう

November 2010

“見上げてみて月がとってもきれいです。”

彼女が呟いた、ああそうか、夕方6時確かに月がきれいだ、気づいたら、白鳥が北東に位置にある。牽牛と織女も輝いている、天の川はさすがに月の光で見えない。いつも月も星も輝いているのだ、忘れていた自然がそこにある。

さらに明け方5時に起きて空を見上げたらオリオンが輝いている、素敵だ。毎日の仕事、懸案事項のためにふと空を見上げることもなくなっていたのか。たまには回りも見まわしてみるものです。東京では 明るすぎて星が見えないがカリホルニヤの少し町から外れた場所だと星が良く見える。星空を見上げるのは何となく夏が多い、だから夏の星座はよく見憶えている。しかし星座は24時間回っている。太陽の光にさえぎられる時間あるいは明るい月の光のない時は輝いている。ただ上を見上げる余裕がないだけである。

坂本 九の「上を向いて歩こう」
この歌をおもいだす。いい歌だった。
上を向いて歩こうね。

   “幸せは雲の上に、幸せは空の上に、
      上を向いて歩こう、涙がこぼれないように。

腰骨を真っすぐにして上を向いて歩けば何かみつかるのでは。
教育学者、森信三が腰骨を立てる教育で、性根のある子を育てることを提唱している。腰骨を真っすぐにすることも、又一つの人生訓です。

上を向いてiPhone をかざそう。と言って拍手喝さいを浴びた若い起業家がいた。いつまでも腰骨を真っすぐにして上を向いて歩いて成長してほしいものです。

そして時には夜空の星を見上げてください。

頭のいい子を育てるコツ

November , 2010

私の本 ”エンジニアよ挑戦せよ“ の中の一章、〜ある創造型起業家のこと〜 の中にDr. Sadeg Fairsのことを書いた。1999年ごろに彼が開発した3Dの技術にシードマネーを少し入れて以来、彼の新しい開発にすべて投資してきた。リヒュラブル電池の開発、リフレクテブポラライザーの開発、そして新しい電池の開発など,みんな夢がある。だから夢に投資してきたのです。すべての投資がすべてゼロになったとしても、ある時期夢を共有したことで投資が報われると思っている。それがシリコンバレイの投資家あるいはベンチャーキャピタリストの思いです。リスクマネーを提供するからこそスタートアップの人が成功するチャンスがあります。

彼はリビヤの出身で、ガダフィ大佐から上手くのがれてUC Berkleyに留学します。とても頭がいいので、「どうして貴方は頭良いのか」と聞いたら、「家が貧しかったので毎日の食料のために海に行ってイワシを取ってそれを生で食べていた」という。そしてもう一つの秘密は、「柿を皮ごと食べたからだ」と言う。柿の皮には頭の良くなる栄養素がいっぱいあるとのこと。

是非頭のいい子を育てるのに実行してみたらどうですか?そして少し大きくなったらイワシを沢山たべさせることです。きっと大成功します…とは、今のところいえませんが、一つだけ、決して何事にもあきらめない凄い子供になると思います。

当時3Dのマーケットは、なかなか立ち上がらずに彼は大変苦労していた。教育用のアプリケーションを開発して細々と生業を立てていた。今、日本で3DTVなどが出てきて、少しは3Dのマーケットが増えそうな感じですが。果たしてどれほど立ち上がることか。日本では、有沢さんが彼の技術を使い3DTVをマーケットに出しています。有沢さんもまた、決してあきらめない経営者のひとりです。事業を成功させるために一番肝心なことは最後まであきらめないということです。

Dr. Fairs はIBM時代に沢山の特許を取りいろいろな画期的なアイデアに挑戦していた。そして又沢山の失敗の山を築いている。しかし彼は決してあきらめない。いつも荒廃の中から逞しく立ち上がってくるのです。マレーシアのマハテールさんが首相の時にマレーシア政府が100M$の投資で開発センターをDr. Fairsのために作ってくれた。ここで次世代の電池の開発にとりかかります。しかしマハテール退陣のあと、新しい首相はなんとDr.Fairsへの投資を中止し、しかも彼の会社を国が取り上げてしまった。ここでも又Dr.Fairsは大変な苦労をします。そしてまた、NYに帰り研究を継続します。7転びどころかすでに9転び位しているのでは、いよいよ10起めです(9転10起)。あきらめない限り彼は必ず成功すると思う。私の投資のリターンはすでにあきらめていますが、最後に一つだけでも成功してシャンペンで乾杯するのを夢にしています。それが一番のリターンだとおもっています。

久しぶりに又、彼からメッセージが入った。私は彼のことをこの本で相当宣伝したから、広告費を払ってくれるようにいつも言っているのですが。彼は彼の一章があるからこの本は売れたのだと言ってロイヤリティーをくれといっている。おかげさまでこの本の在庫はすでになくなった。友人が本くれと言うんで、いよいよ仕方なく、ついにamazonで中古の本を買って知人に渡す羽目になっています。できればNetで再販しようかと思っている。

そろそろ彼との付き合いで10年以上にもなる。久しぶりに彼方からメールが届いた。相変わらず本のロイヤリティーのことを言ってきた。

日本の子供たちに是非柿の皮を食べることをおすすめします。
久美子さん、陸チャンに試してみたらアイキューブドシステムズの有能な後継ぎができますよ。
有佳さん、赤ちゃんができる前に貴方も柿を皮ごと食べて、頭のいい子を産んでください。
アシアルの有能な後継ぎが生まれますよ。

以下、Dr. Sadeg Fairsからのメール本文
*****************************************
November 18, Sadeg to Tsuyoshi

Dear Taira-san,

I hope that you, your family and your business are in great health. I apologize for not making contact with you. It has been a while since we communicated. The economy went bad and that affected our recovery. I am optimistic that 2011 will be a lot better. I have not forgotten about your investment. I am persistent (I eat persimmon with the skin) and will succeed. Our 3D technology is now bearing fruit. After many years our 3D TV partner Arisawa-san is achieving success. (http://community.whathifi.com/blogs/industry_insider/archive/2010/04/08/japan-passive-3d-tv-supplier-plans-expansion.aspx )

I am going to be in Japan, and remembered the great time we had and the great help going up and down the train stations that kept you young and healthy.
I hope your book is doing well it has the best chapter that should make too much royalties. Instead of writing about garlic we need a book about persimmon .

I will call you today.

Best regards
Sadeg Faris

以下、私からの返信
**************************************
Novembr 18, Tsuyoshi To Sadeg.

Nice to hear from the past ,I am looking for another Sadeg Faris in Japan, there is some but need to encourage him to challenge aggressively , I met Arisawa san at Karuizwa golf course when I play golf with Idei san we chat little about you.
Any way nice to hear from old friends looking for hearing from you soon.

そして決してあきらめない経営者に贈るとっておきの一枚。
この写真を取った写真家は何と30分もカメラを構えたまま蛙さんの戦いを見守っていたそうです。
そしてついに蛙さんは鷺のくちばしから逃れたのです。

日本のグローバリゼイッションは田子町(たっこまち)から

(日本一のガーリック生産地を訪ねる。) October , 2010

日本一のガーリックの生産地は青森県で、その中でも田子町は品質日本一といわれています。毎年10月の第一土曜日と日曜日に盛大にガーリック祭りがおこなわれます。今年は2日と3日でした。アメリカ一(いち)のガーリックの生産地はカリフォルニアのギルロイです。ギルロイは、Silicon Valley の南に車で40分ほど行ったところにあります。エデンの東のスタインベックが愛した、小高い丘の連なる農村です。田子町とギルロイはいつの日からか姉妹都市の関係を結び、お互いの交流がはじまりました。毎年数名の人たちが交互に訪問し合ってホームステイをたのしんでいます。今年は 咸臨丸米国訪問から150周年たっているのでサンフランシスコで大きな式典が行われました。

【田子町の入り口】

大政奉還のきっかけとなり、坂本龍馬などに多大の影響を与えたJohn Manjiro、そしてJohn Manjiro を救ったCaptain Whitfield その交友が、その後もその子孫まで続きそして70年にもおよんでいます。そしてこの交流を広く一般の人たちに広め、日米民間の交流と平和を推進するために、国際草の根運動が1992年に発足しました。(会長はあの小沢一郎さんです)

今年は咸臨丸San Francisco 入港150年の記念式典と共にJohn Manjiro とCaptain Whitfield の行事も相前後しておこなわれました。何と日本から250名の人たちがここサンフランシスコ近郊にホームステイに訪れたのでした。この中にも田子町から数名の人たちが参加していました。アメリカの人たちは金持ちも貧乏人もありのままにホームステイを受け入れてくれます。そして普段と同じような生活でお客をもてなします。決して豪華なもてなしをしません。ありのままを見てもらいます。そんなわけで何と250名の多くの人たちを受け入れてくれたのです。やっぱり姉妹都市の人たちが一番多くホームステイを受け入れてくれています。

私は移民の父と称された鹿児島から農業移民を数百人もカリフォルニアに送りこんだ内田善一郎さんの息子、テッド内田さんとこの会の資金集めを手伝いました。何しろこれだけの人達の色んな費用などに相当なお金が必要です。幸いテッドのネットワークのおかげで、目標のお金が集まりました。日系の企業の協力あるいは、姉妹都市の関係の人たちが寄付していただき、この草の根運動の資金が調達されました。

このホームステイに福岡の大学生が20名ほど参加していました。オープニングセレモニーで話した学生達の気迫のないことに、いささかガッカリしました。しかし彼等とクロージングセレモニーで話した時の彼等の眼の輝きは、一段と生気に満ち満ちしていました。このように異文化を垣間見るだけでこれだけ違うのかとビックリしました。そして彼等がホームステイで受けたもてなしが、どれだけ彼等を活性化し、今後の生き方に影響を与えたことか。

閉会式では 次の世代に引き継ぐ地球儀のトーチが引き渡されました。John Maniro の5代目中浜キョーコさん、Captain Whitfield さんの5代目、そしてペリー提督の4代目のみなさんが登壇し、次への引き継が行われ、なんと170年もこの精神が引き継がれているのです。この草の根運動のアメリカ側のチャーマン、かつての日本のアメリカ大使 Michel Amacost さん、そして Executive Director が日系二世のMegumi Inoue 嬢、彼女の活躍と頭脳明晰さには大変感心しました。彼女の活躍がこの会を大成功に導いてくれました。そのうち私のスタートアップの会社の社長にしたいなと思っています。

【Amacostさん、日本アメリカの草の根運動会長の渡辺さん、
アメリカの代表Dr. Richard Woodさん、そして田子町の恵子さん勝予さん】

又、Amacostさんの努力でアメリカ側の色んな団体が協力してくれました。Amacostさんは会っただけで温かい感じを人に与える素敵なひとです。日本も彼のような大使がある時期日本に来てもらって、日米友好を維持してくれていたのだとありがたいおもいがしました。さすがにアメリカの人2回目に会った時はすでに”Tsuyoshi Nice See you Again. “です。

【日米デザイナーによる愛情の表現】

閉会式では、日本から訪問してくれた人たちの何と生き生きしていることか。この草の根運動のもたらす意義が彼等の彼女等の眼の輝きにあらわれています。微力ながらこの活動に参加した大きな対価でした。そして提灯行列、盆踊り、サンフランシスコの日本町をみんなで踊り歩きました。そのほかに田子町から来た佐藤恵子さんと宝田勝予さんが参加されていました。そして是非田子町に来てくださいとの招待を受けて、テッドさんの奥さんの万貴子さん、お母さんで田子町を訪問しました。ガーリック祭りは町の広場に大きな鉄板焼きが用意されており、切符を買ってこれをもっていくと何と、霜降りの肉と野菜とガーリックの入ったパッケイジを渡されます。これをもって大きな鉄板の前で肉と野菜を焼いてたべるのです。

兎に角肉の美味しいこと、ガーリックのおいしいこと。たれが付いていたが、塩でも食べてみたいと思った、恵子さん来年は塩も用意してください。ギルロイから来たガーリックの女王と、田子町の女王とみんなで鉄板を囲み大変美味しい肉と、野菜、ガーリックをいただいた。そして土地の高校生のボランティアの皆さんに、いろいろ面倒を見ていただいて楽しい食事でした。八戸の米軍基地が近いので、米軍の人たちが家族ぐるみで車で大勢参加していました。そしてエンターテンメントは何と日米両語での司会です。

さすがにグローバルな町です。これもギルロイとの姉妹都市がもたらす効果なのかもしれません。夜は我々アメリカから来た人たちのために、パーティをひらいてくれました。食べきれないほどの海の幸山の幸でした。町長の松橋良則さん、そして沢口町議会議長のみなさんと歓談することができました。町では町の費用でアメリカ人を英語の先生として雇っています。ジェシカさんすでに町の人気者で町の生活に溶け込んでいます。若い人たちの友達です。そして気楽に町の人たちと交流しています。今年は中学生を10名ほどギルロイのホームステイに送り出すそうです。そして来年は高校生を20名ほど、同じくギルロイにホームステイに行かせるとのこと。実に町をあげてグローバリゼイションに積極的です。これらの学生が町に帰ってきたら、きっと町の将来のために、イノベイティブなアイデアを出してくれるものと、頼もしくおもいます。流石に町長さんのこのような努力に感謝したいとおいます。

日本を活性化するには、中学生からグローバルな視野をもつように啓発しないといけないと思う。我々は大学生の活性化を考えて、日本から訪米する学生をいろいろSilicon Valleyで、現地のチャレンジ精神イノベイションを体現できるようなプログラムを組んでいるのですが。むしろ大学生では少し遅すぎるようなきがする。高校生中学生なら彼等が大学に入る前に、自分はどうしたらいいかを考えて自分の進む道を早めに見つけてくれるものと思う。黒川清さんが、大学の一年を休学して是非世界を見て来い、という提言をしています。何もアメリカがいいのではなくインド、フイリッピン、バングラデシュ、アフリカなど、兎に角日本以外の国を見て来いと言っています。いい提言だとおもいます。

【大勢の中学高校生のボランティア達】

今、田子町では、このギルロイを見てきた中学生小学生、高校生そして大人の人たちがいっぱいおります。この人たちはすでにグローバルです。日本のグローバリゼイッションは田子町からおこります。もうすぐこれ等の子供たちが大学生になったらグローバルに活躍する人たちが沢山でるものとおもう。他の町でも同じようなグローバルな活動のできる子供達を育てたらどうでしょう。この町の英語教育に対する取り組みも又参考にしてほしいとおもいます。是非町のお金でアメリカ人の若者を雇って英語教師としたらいかがでしょうか。町長さん是非全国にこの考えをすすめてください。

田子町での楽しみを、会う人会う人に話したら、もう皆さん涎を垂らして来年は是非連れていけとの要望です。すでに15名ほどコミットしています。佐藤恵子さん、あの一つしかない旅館よりもこの時だけ一般の家庭で民宿をやったらどうだろうか、きっと大変喜ばれるのでは。みなさんがギルロイで味わったのと同じように田舎を知らない東京の人たちが喜ぶのでは。それと体験ガーリック植えをして次の年にそのガーリックを食べにくるイベントをやったら毎年必ず尋ねる人が多いのでは。私の仲間には稲を植えに行って、そして秋に刈り取りまで行って、さらにそのお米でご飯を炊いて楽しんでいる人もいいます。又、肉が大変好きな人、毎日でも肉を食べたい人など沢山います。牛の丸焼き、あの肉はさすがにおいしかった。残念ながら焼くところはみのがしてしまった。

【宝田さんの家で大勢の若者が集まっている】

来年行く連中は肉の好きな連中です。我々の仲間にはあと肉を数枚余計に入れておいてほしいですね。是非田子町の肉を食べてグローバルになりましょう。来年たのしみです。仲間のみなさん10月の第一土曜日、日曜日をあけておいてくださいね。

久しぶりの対戦 〜徳永卓三さん(企業家倶楽部社長)と〜

昨年徳永さんと一緒に武宮正樹名人に、碁の手ほどきをいただきました。二人とも一回だけの指導で弟子だと自称している。久しぶりに徳永さんと一戦まじえることができました。

師の教えは、“陣取りに行くな打ちたいところに打て”でした。
さて、そこまでの悟りに至らない我々は、せっせと陣取りと喧嘩に赴く。石が死にそうだと必死に太らせていき、挙句の果ては丸々と太った豚になり果てて、局地にローストポークを沢山つくってしまう。さすがに私のほうが豚の数が若干おおくなる。碁は大局観をしっかり持って打たないと、負けてしまいます。初心者は一か所、危なくなるともう必死になってその場所を守りに行って、結局は太った豚で死んでしまう。スタートアップの経営みたいなもので、もう局地しか見れないし、方向転換をするタイミングをいつも見失っている。

時には将棋を指すこともある。将棋は一手で勝負が決まる時があるので、一手一手が最後と思って打たないといけない。私のBusiness 相手は時に将棋指しであったり、時には囲碁さしであったりする。当然将棋さしとのBusiness は一手もおろそかにできない。だから全神経を集中してBusiness にあたる。一方碁さしとの商売は、すべて長期戦と大局観でもって対処するので、少々のミスがあってもあとからリカバリーがきく。

これは身内との対応も同じことです。
将棋さしの上司には散々いじめられた。しかし、碁さしの上司とは、実に長期計画と戦略を練り大きな成果をあげることができた。そして、このような上司は実に影でのサポートがすぐれている。碁でも将棋でもその人の考え方が大きく影響しているものです。研究所の人たちとのかかわり合いは、碁さしとのかかわりあいであった。工場の人たちとはそれはものすごい将棋さしです。日本の半導体の経営者は将棋指しが多く、経営の効率が悪いようなきがする。碁さしの事業部長をもって来ればもっと良いのにと思ったものでした。

徳永さんの碁は大変大らかで、大局観に優れておられた。さすがは日経新聞の俊腕記者だっただけあって狙いが正確でした。
私の碁歴は、東京三洋時代に、お昼のサイレンが鳴るとともに、みんなでものすごい勢いで食堂に走る。そして早飯をすませ又、ものすごい勢いで事務所に帰って実験室の中で碁版を広げて打つ。(なにしろ食堂棟まで走って数分かかる広い工場だった。元中島飛行場の跡地に経っていた。)兎に角25分ぐらいのうちに一局終えないといけないので、お互いにノータイムで打つ、そして殺し合いを盤面いっぱいに広げる、こんな碁をうっているものだから、とても大局観など眼中になく、局地の殺し合いに終始してしまう。いまだこの癖が残り、どうしても殺し合い中心の手をうってしまいます。兎に角久しぶりに相手が見つかって楽しい数局をたのしみました。どうやらお互いほぼ互角の実力のようだしこれからの対局がたのしみだ。

下記の写真が対局の途中。もうどちらが誰の手か推測がつかれたと思う。

次回のお手合わせが楽しみだ。

金融工学

ー サブプライムローンを証券化する、さらにはそれにAIGに保険をかけてもらう。
そして一般の何も知らない投資家に売る。ー 

リーマンショックはそしてうまれたと言っても過言でもない。ふたを開けてみるAIGが危ない、これにはオバマもほっておけないから何千億という資金を援助します。景気の底上げどころかこれ以上の失業者を増やせないからウォールストリートの金融関係者に資金がつぎ込まれていく。ウォールストリートが起こした金融危機を政府が必死になってサポートを入れる、そうかと思うとこんな中でウォールストリートがまた儲けだす。そうすると、厚かましくも6ケタ以上のボーナスをもらって当然だという顔をしている。一体どこまで厚かましいことか、あるいはグリーデーであることか。

そんなグリーデーなウォールストリートを規制するために新しい規制法案ができた。さてうまく運営できるだろうか。しかし金融工学にたけた連中だ、きっと新しい証券を生み出すことだろう。先日、スタンフード大学のダニエル沖本教授の講演会で“先生、このような金融危機は又起こりますかね”。と尋ねたら、”また起こるね”と悲しい顔でおっしゃった。ウォールストリートのグリーデーさはいつまでも消えないのだとおっしゃっているようです。

我々エンジェルインベストしている連中は、アントレプレナーの意気に感じてシードマネを投資する。そしてプロトタイプができたころにベンチャーキャピタルから多めの資金を投資してもらう。

さてと、スタートアップというものは、晴天スケジュールで、モノが出たためしはまずない。そして又数年がたってからベンチャーキャピタルに再度投資をお願いに行きます。このころになると数億の金が必要になります。当初の資金集めを、「シリーズA」と言います。そして次々集めて行くときに、B, C. Dとつけていきます。最近ではPまで、何と17回も投資を受けている例があります。それだけ自立するまでに資金がたくさんいるわけです。ですからベンチャー起業の成功率は1%にも満たないのです。

Down Round
さて、アメリカのベンチャーキャピタルの金融工学は次のように展開されます。資金集めの3回目ぐらい、多分このころだと5億円ぐらいが必要になります。このころになると、サンプルもまだ未だお客の見通しもはきりしていません。ですからベンチャーキャピタルは会社の評価を前回よりも低く見積もってきます。2回目の会社の評価が15億円だったとすると、今回のバリューを8億円と提案してきます。従来投資してきたベンチャーキャピタルも逃げ腰になり、結局今回の投資をするベンチャーキャピタルが主導しますから、会社側は背に腹は代えられず、その提案をのみます。そうでないと会社がつぶれますので仕方なくなります。この時、新しい投資するベンチャーキャピタルが次の様な提案をします。今までの投資家に対して今回集める資金をその持ち株比率の分担を要求します。もしそれにおおじない投資家に対しては、その持ち株を1/10 に減らすような提案をします。又この時、従業員の持ち株を1/20 に減らします。それはここまで来て商品ができてないから、創業者の責任を取ってもらう意味があります。さらに社長交代の伏線があります。

この方式をPay per Play (お金を払った人だけがゲームを継続できる)と言います。

最近遭遇した例では従来の投資家分を1/10 にして、さらに従業員の持ち株を1/100にした例がありました。これは社長の株を減らす意味で結局社長を辞めさせる手立てとなっていました。私も創業者の一人だったので社長と二人で会社を辞める羽目になりました。これが最後に金のあるベンチャーキャピタルが、最後に儲ける仕掛けとなっています。ただし、スタートアップの会社は優秀なエンジニアが必要なので、このような処置をしても、あとで従業員のオプションを20%に追加しています。即ち創業者の株をゼロにしたから、その分を新しく従業員の株を20%まであげれるのです。結局創業者社長の責任と追い出しのための処置にもなっています。

我々みたいなエンジェル投資家はこの金を持っているベンチャーが最後に勝つ方程式のためにたびたびこのような痛い目に会っています。Tieの組織の中には我々みたいなエンジェル投資がいっぱいます。ですから最近のエンジェル投資家はいささか嫌気がさして、シードマネーを出したがりません。グリーデーな金融の世界はウォールストリートだけでなく起業を育てる役目のベンチャーキャピタルがこれでは将来もしかして大きな産業になるかもしれない大事な芽を摘んでしまいますね。

日本の場合は金の価値はあまり変わりません。勿論、Valueが半分ぐらいになることはありますが。アメリカのベンチャーキャピタルがみたいに1/10 とか1/100とかにするなどということはありません。$1.00のお金は時間が過ぎても$1.00であってほしいものです。今回の金融危機も、$1.00 の価値が時間と共に下がっていったために起こったのですね。お金は平等で民主主義であるべきです。時々、日本の会社に投資したいアメリカのベンチャーキャピタリストが、この論理を推し進めてくるので大変こまります。私は$1.00の価値が時間がたっても$1.00だと反論していますが。彼等はDown Roundを認めないと投資してきません。このグリーデイさには困ったものです。ウォールストリートがまた、金融危機を起こす可能性があるのはここから来ています。アメリカには孔子、孟子の思想はないですからね。

だからダニエル沖本先生がこの次の金融危機を懸念するわけですよね。

シリコンバレイから。

iPadフィーバーに思う。

世界をあげiPad フィバーに包まれているようです。スティーブ・ジョブズの大成功に拍手を送るのはやぶさかでもないが、残念ながら日本から数百億円のお金がアメリカに流れてしまいます。この経済の停滞している最中に何と残念なことか。せめてこれが日本のメーカー、Sony,やPanasonicあるいはSharpだったらなあーとおもいます。

思えば15年以上も前にAppleの当時のCEO John ScullyがNewtonのコンセプトを発表して”ペンベースコンピューター”の到来近しと、みんなが期待したものでした。当時SanyoのLCD Displayを売るべく、Appleに持参していて、たまたまAppleの社員食堂でScullyにサンプルを見せたこともありました。しかしこの製品を構成する部品の未熟さによって、思うような性能が上がらずに、相当な金をつぎ込んだこのプロジェクトも、ついには放棄することになります。また、このためにAppleの経営がおかしくなり、John Scully其の人もついに、Appleをやめることになったのです。スティーブ・ジョブズを追い出した彼が、今度は自分が追い出される羽目になったのです。そしてご存知のようにそれから数年してスティーブ・ジョブズの返り咲きがあったのです。

当時の一番の問題はデジタイザーにあったとおもいます。Resolutionが上がらないことが一番でした。又文字認識の確度の低さもありましたが。当時このデジタイザーの良い物を作ろうとして、数社のベンチャー企業の人たちといろいろデスカッションを続けたり、プロトタイプを作ったりしましたが、良いものができませんでした。今のiPhone 、iPadも、デジタイザーの不完成性をうまくのがれるような使い方をして成功しています。さすがはスティーブ・ジョブズだと思います。

ものを開発するのに新しい性能の要求があります。もっと早く、もっとパワーを食わないように、もっと小さく、などとこれによっていろんな部品、製造方法が改良されていきます。たとえば半導体の技術の進歩、もっと早く、もっとパワーを少なくなどの要求がSub Micronのプロセスの開発につながり、それがメモリー容量を増やしてくれました。今なら電話の中に、すでに数ギガのメモリーが入っています。同じように、部品の進歩も又すごいものです。コンデンサーは小さくなり、電池は小型で長持ちしていく。ですから全体のレベルが上がって製品がさらに凄いものが出来るのです。

同じころ、1990年代初頭、Kamran Elahianと数人の人たちがペンペースコンピューターの会社「Momenta」を立ち上げました。Portableであり、電池Operationであり、当時のIBMのPCを置き換えようという意気込みで、優秀なエンジニアを集めて企業しました。日本からも三井物産の投資部門が相当な投資をしました。メディアの注目は凄いもので、毎週のニュースとしてとりあげられていました。Comdexのブースはいつも黒山の人だかりで、もうペンベースコンピューターがキーボードコンピューターを置き換えるような大騒ぎでした。しかしこれをサポートする世の中の技術はそれほどあがっていませんでした。電池の寿命が短かった。今のようにリチウムイオンの電池はまだ出来ていませんでした。また、思うに当時のデジタイザー(もちろん今も)のリゾリューションはまだまだでした。そして数百名の優秀なエンジニアを抱え、数百億の投資を受けましたが、ついに数年して会社をクローズせざるをえなくなりました。Kamaran Elahianは今も彼のFerraiにMomentaのライセンスプレートをかかげています。彼曰く、「大きな失敗こそ肝に銘じて墓標を立てておくべきだ」みたいなことを言っていました。しかし彼はこの失敗の後に数々の成功をします。Cirrus Logic, Neo Magic、Centillum communicationなどの企業を成功させSilicon Valleyの基礎に貢献しています。

以前、元ソニーCEOの出井さんの「通信とメディア」という講演会で、時の大スター夏野 剛さん(I-modeの父)のSpeechの後、出井さんに無理やり、質問ないか?と指名されたので、日本のコンピューターソフトの開発者は、これからあまり出ないだろうこれは大変なことだと意見をのべました。

「DocomoがI-modeを開発したので、日本中の若い人たちが親指だけを使って、もはやFull Key Boardのコンピューターを使うのを敬遠してしまうのではないでしょうか。そのために企業の効率が彼、我の差がひどくなり、益々日本は後れを取ってしまう。これこそガラバゴスになって世界に太刀打ちできなくなる可能性があるのでは?」

と 親指文化に警告を発して、大勢のひんしゅくを買ったことがありました。しかし後で一人の方が来て「平さん良いこと言ってくれました。」と言ってくれたので、ああ一人でも何か警告を発する必要があるのだなあと思い、溜飲を下したことがありました。

そこで今回のiPadのフィーバーに警告を発したい。

今一番必要な技術は デジタイザーです。これこそ我々漢字国民が開発する一番のテーマだとおもいます。iPadを超えるのはリゾリューションの優れたデジタイザーです。最近日本に来てポータブルの筆をみつけました(だいぶ私は時代遅れですが)。もし松尾芭蕉が生きていたらもっと俳句を書いたことでしょう。そして何と、昔の筆のように書けるじゃないですか。そして墨も一ヶ月はもっています。今これで時々漢詩をかいて楽しんでいます。あの筆をそのまま使ってデジタイザーに書いたら、筆の文字がそのまま書けるようになったら最高だとおもいます。まだまだコンピューターを使わない高齢者がたくさんいます。高齢化社会になって相当なビジネスを創出することができるのですが、もしあの筆のプレッシャーを再現できたら、そしたらコンピューターで絵が描ける、この筆を用いて色を選んでいけば何も画用紙を使わなくてもスケッチができる。いつの日がこのコンピューターを持って北八でスケッチできる日を夢見たい。

日本のコンピューターソフトの開発をしている若い技術者よ。是非iPadの上を行くコンピューターを作って日本の経済を活性化してほしいものです。そして大勢の若者が何時間も並んで買う姿をみたいものです。

そんなわけで私はiPadは買いません。iPhoneも買いません。Black BerryでFull Key boardを楽しんでいます。臥薪嘗胆して筆コンピューターが出来るまで待ちます。

皆さん、世界初の技術の粋を集めた未来のコンピューターを作ろうではありませんか。

超禅寺合宿 2010

今年で2年目の超禅寺,座禅の合宿を行った当初の13名の参加予定者がビジネスのスケジュールが合わず、6名だけの参加となってしまった。少人数にもかかわらず超禅寺の老師達が全プログラムに最大の努力を傾注していただき大変充実した合宿でした。

ここホノルルの超禅寺は、ハワイの田上天心氏が、日本の臨済宗の大森曹玄氏にお願いして、沢山のボランティアと共に自ら作り上げたお寺です。ボランティアの人たちが大きな石などを1つづつ動かしながら、このお寺が作り上げられたのだそうです。ハワイ、一の剣の達人であった田上天心氏が何回も日本を訪ね、大森曹玄氏に師事し、是非禅寺を作りたいという熱い思いを伝え、その要望にこたえる形でこのお寺が作られたそうです。

禅の修行、そしてその修行が、武道の修行に励むことによって、武道の奥を極められるのだという。
大森曹玄の著書“剣と禅”という本の中に、座禅の修行によって剣の極意に達した人々の例がのべられています。 また、超禅寺で修業したウイスコンシン州出身のケネス・クシュナー氏“一射絶命”の本の中にも弓禅一致が説かれています。超禅寺はその後、沢山の人たちが禅の修行と武道の修行、あるいは、セラミックでの創作を行い、その奥義を極めています。座禅によって自分の人間性を高め、そして武道に芸術にその奥義に近ずけるように毎日努力するのです。

さて参加した若き経営者たち、この経験が経営にどのように反映されるのでしょうか。

プログラムは朝の5時起き、それから30分間の座禅、一汁一菜の朝食、それから呼吸法、弓道入門、書道、尺八、そして夜の座禅などを夜10時まで盛りだくさんのスケジュールです。

座禅の基本が呼吸法にあります。この呼吸法を老師にじっくり指導していただきました。この呼吸法がすべての基礎になります。尺八しかり、弓道しかり、そして書をなす時もおなじなのです。気合を掛けるときも同じ呼吸法です。だから剣聖が毎夜数時間の座禅をして悟りを開かんと努力していたのです。30分間の座禅も初めの2回ほど我慢できればあとはそれほど苦にならない。若い人たちはからだが柔らかいのですぐ慣れているようだ。今年初めて参加した若い人などは足のしびれも感じないらしい。今回のわれわれのスケジュールは次のようになっています。夜は道場に寝袋にくるまって寝ます。ハワイは温かいので全然寒さを感じません。

【超禅寺合宿2010 全日程】

●26-Feb
Arrive Honolulu

3.00pm 超禅寺到着
3.30pm 入浴
4.00pm 夕食
4.30pm 座禅入門
6.30pm 弓道
8,30pm Group meeting Taira juku
9.30 pm 睡眠

●27-Feb
5.00am 起床
5.30am 座禅
6.15am Exercise Stretch
6.30am Hara Training and how to breath (呼吸法)
8.00am 朝食
8.45am 書道
9.30am 休憩
9.45am 弓道
11.30 am 昼食/休憩
12.00pm 尺八
1.30 pm 休憩
1.45 pm Zen & Sound(お経)
2.45pm 禅セラピー(ボディケア)
4.00pm 入浴
5.00pm 夕食
6.00pm 座禅
6.45pm 弓道
8.00pm Lecture宮本武蔵 五輪書-空の巻(Musashi ,5 ring)
8.45-9.30 Taira Juku meeting

●28-Feb
5.00am 起床
5.30 am 座禅
6.15 am Stretch class
6.30am 弓道
8.00am 朝食
8.45 am 書道
9.30 am 弓道
9.45am 武道-直心影流法定(jikishinkageryu)
11.30am 昼食/休憩
12.00pm 尺八
1.30 pm 休憩
1.45 pm お経
2.45pm 禅セラピー(ボディケア)
4.00pm 入浴
5.00pm 夕食
6.00pm 座禅
6.45pm 弓道
8.00pm Lecture:宮本武蔵 五輪書-空の巻(Musashi ,5 ring)
9.00-10.00pm taira juku meeting

●1-Mar
5.00am 起床
5.30am 座禅
6.15am 書道
7.30 am 朝食

Departure
■■■

綱 領

禅は生死を脱却し尽十万世界を
真実人体を究尽する身心一如の学
道である、宮本二天が巌の身と号し柳
生石舟斉が轉しの道と称したものはその実
證に他ならない、身体的表現を伴わない
禅は空論であり、心的究明を経ない武道は
妄動であり倶に吾等の肯わざるところである。
吾門の修道者夫れ勉めよ。
日本臨済各宗の本山当局各位よ。
茲に開眼して吾等と倶に世界に翼たけ!

一九七九年十月一日
インターナショナル禅道場
超禅寺主管
天心義隆

道場の入り口には田上天心老師の綱領が掲げられている。禅修行の精神をうたっている。道場に入る時この心根で修業しなさいということを老師が言われた。

さて弓道の修行が始まった。最初は立ち方、そして呼吸の仕方をおしえていただいた。丹田のしたに気をためる盤石の姿勢でしっかり立つ。この状態ではどこから押されても引かれても動かないのです。弓道の一挙手一投足はすべてが最後に弓を放すまでにしっかりと従わなければ矢は的にあたりません。凄い緊張の連続です。どっかで気が抜けると矢は的を大きく外れています。ですから座禅をしっかり身につけ呼吸法をしっかり身につけていなければいけないのです。

この道場で初めて弓を引いたウイスコンシンの青年、クリシュナー青年、超禅寺で修業し、さらに鎌倉の須原和尚に弓道を師事して、ついには弓道の真髄を会得して“一射絶命”という本を著しました。よく弓道の真髄を語っています。日本人が書いたものよりよくわかります。(もちろん日本語訳ですが。)

禅の修行とセラピスト、超禅寺の禅とは何だと疑問に思い修行に来られたWilliam Leichという方の話を禅セラピストから聞いた。最後まで禅を疑問視し超禅寺に修業にきた。しかし数カ月にわたる座禅の修行によって、禅なるものを会得した。そして自分のセラピストのコンセプトを大幅に改善した。即ちセラピストはどうあるべきかを悟って新しい禅セラピストを開発したのでした。彼の教え子である日系の女性が、我々に禅セラピーを伝授してくれた。とにかく凄く痛いが、あとですっきりします。私の腰痛もこれですっかりなおりゴルフのスコアーもよくなりました。これもひとえに禅セラピストのおかげです。なおゴルフの集中力は弓道を経験してまた一段とよくなりました。

初めての人たちも座禅の30分を無事こなしてくれた、誰も警策のお世話にならずに済んだ。

■■■
尺八の練習これもまた座禅の呼吸法そのものです。なかなか音が出ない。3日間練習したがついに私はギブアップしてしまった,あとの人たちは少なくとも音は出た。やっぱり修行が足りない。また来年は音を必ずだしますと言ってプラスックの尺八を借りて今、毎日努力している。

■■■
【愈々弓道の構えから 引き分けに移る一挙手一投足が命につながる。】

【弓がまえを教えてもらう佐々木勉君】

【そしていよいよ離れとざんしん。さて矢は的に当たるだろうか。】

結局、田中有佳ちゃん一人が的を得た。津波先生曰く、「的に当てるというのが目的ではないので、的に当てよう当てようと的に当たった結果だけを追わないでくれ」という。慰めなのかでも的に当てたい!・・・が残念。来年まで待たないと的は撃てないみたい。来年までの言い訳にしてしまった。

■■■

五輪の書、空の巻の講義。横山老大師の講義、空(くう)とは、無とは、講義も又 “無” 、一同ただ ????? さては修行が足りないのか。先生がたも熱心に聞いていたが、どの顔も“無”、はて!!


おやつの時間一汁一菜。後3時には豪華なおやつがでます。ばちがあたりそうなスイーツです。我々はまだ甘やかされているのか・・・。

■■■
書道は3日間中、ただ“一”という字をかかされた。書道とは墨気を養うことだという。いわゆる腹に座った気力が全部出せるかということらしい。大森曹玄の“禅と書”の中にもどれだけ気合が入っているかが大事だという。ただ字をなぞるだけでは書道とは言わないのだという。だから山岡鉄舟の書はたくさんの偽物があるが、本物はすぐわかるという。それだけ気あいが入っているという。その山岡鉄舟の書でも彼が悟りを開いたあとの書が、又一段と違うのだという。気合あるいは悟るということはそれほど違うものらしい。超禅寺にある書はほとんどが大森曹玄の書です。それが皆ベニヤ板の上に書かれている。墨気がなければすでに薄れてしまっているのでしょう。いまだ生き生きしている。

【安達さん相当気がこもっているね。隣は田中有佳ちゃん。】

作品発表さて、3日間の努力の結果さてと、どれが墨気があるだろうか。吉岡君のものが一番ありそうです。将来を嘱望できますね。

■■■
お経の時間まずはお経に入るまで皆で発生の練習。「あ、え、う、お、い」をみんなで腹の底から発声する。不思議なもので皆の声がそろったところで大きなハーモニーとなって音の波が見事に道場中に響き渡る。素晴らしい。一人ずつ発声させられて音をあわせていく。

そしていよいよ木魚に合わせて皆でお経をよむ。その前に井上老師がまず手本をしめしてくれた。素晴らしい。なんと素敵な音楽なのだと見まがう。彼は日本語はできないが、お経の素晴らしいこと。あとで意味わかるのかと聞いたらわからないという。とにかく音楽としてお経を読んでいるみたい。さて我々も皆で合唱、素晴らしい。みんなの声がそろった時それはいかなる音楽家の歌よりも素晴らしい響きである。不思議なことにここの老師達はすべて音楽の先生だという。津波先生はベートーベンとかブラームスとかの一楽章が出てくる。又田上天心も音楽の先生だったという。

なーむーさーまんだー もどなん。。。。。。。。。ぎゃーぎゃー
ぎゃーきー ぎゃーきー ぎゃーきー  うんぬん。。。。。。。。 

ぎゃーきーとはなんだろう。しかし今はそれを探索する必要もなさそうです。ただただ全員の共鳴に我を忘れて聞いていました。これを暗記して木魚でも買ってきて、自分で唱えようと思う。仏教はいい念仏を創りだしたものです。意味不明だがこのリズムを聞くだけでいいのだ。

Himalaya紀行【March 14,2010】

仲間と共にNepalに行きました。

成田から香港経由でKathmandu、大変疲れた。すでに夜中、たまたま僕の誕生日でSunset View Hotelのロビーで絹のスカーフで誕生を祝ってもらった。昨年の10月に来る予定だったが伸び伸びになってもうこれ以上延ばしたら 永遠に行く機会がなくなるのではないかということで友人たちを誘って決行してもらった。Kathmanduは盆地でPollitionがひどい、おまけにはげ山のために土ぼこりも加わっている。まるで黄砂です。人口増が町を益々スラム化させている。とにかく貧しい。毎日朝10時ごろから夕方まで停電となる。どうも定期的にやっているようで、多分昼間は停電にするようになっているのではないかと思われる。Kathmanduの発電所は昔日本政府が援助して作られた発電所で、いまだこの一つだけに頼っているようです。昼間の電力を賄えないから自然に昼間を停電にしているのではないかと思う。したがって企業は自家発電を用意しているようです。これが又Air Pollutionを増長させているようだ。ここの企業は電力確保のために相当な苦労をしているのではないかとおもわれます。時間があってNepal Telecomに寄って話を聞いた。Cell phoneの普及は27%近くとふえているようです。Fixed Lineの電話の方が電力が常時ないだけに伸びていない。確かにヒマラヤの奥地に行っても携帯電話はつかえる。インフラの設置に苦労している。電気が常時来ないのでソーラーバッテリーを用いて中継器の電力としている。だから結構金がかかっているようです。このあたりに小型水力発電あるいはSolor EnergyとLarge Capacitorの組み合わせによるLocalのローコストのEnergyが必要に思われる。日本の企業がこのあたりに進出すれば、まだまだビジネスのチャンスがあるようにおもわれる。又今のKathmanduのPollitionを少なくするのに、それこそEco-Cityへの移行を本格的に手助けすれば、これもまた日本企業が進出できるチャンスかと思う。電力と水が必要、水はヒマラヤの山々から沢山供給されている、発電所ができれば又水もふんだんに供給できるはずです。これらの水を農業用にも使うことによって農業の発展が期待できるし、お隣のインドという大きなマーケットも控えているので、水も電力も良いビジネスになりうると思う。日本大使館の藤原公使とのDinnerで公使もこのあたりを日本の企業に働きかけようと計画されていた。誰か頑張って乗り込んできて真剣に取り組めばビジネスも展開されることと思う。どの会社でもいいが鈴をつけに来てくれる開拓者魂を持つ戦士がいればいいのだが。この国の人たちのためにあるいは将来の子供たちのために企業の進出と共にJaicaの資金などを有効に使えばいいのでは。

■■■
次の日は古都パタンの観光と買い物、ヒンズー教とネパール仏教の入り混じったような感じの大寺院がありました。

【パタンの町の大寺院】

ここではヒンズー教と仏教がうまく調和して存在するようです。ヒンズー教の神と阿弥陀如来などが共存しているようです。聞けば、おおもとはバラモン教から分かれた中の良い兄弟のような関係で、お互いに相手の存在を認め合っているようです。まるで日本の神仏混合の様な感じです。

■■■
次の日にいよいよエベレスト と対面、こちらは20人ぐらい乗りのプロペラ機でエベレスト連峰を見学。一人ずつコックピットの後ろから写真を写させてもらった。この写真はガイドのPiterbar氏が写したものをいただいた。やっぱりもう少し近くでみたいものです。あまりにも遠すぎる。ヨーロッパアルプスを見たときはいろいろ本で読んでいた山の歴史とふもとに住む人々の事を知っていただけに身近に感じたがエベレストはテンジンというガイドの名前とヒラリー 卿ぐらいしか思い出すだけであまり感動がない。やっぱり近づきにくい山なのだろうか。またの日にもう少し近づいてみたいものです。

【Pitamberさんの撮影するNepalの山の写真はほとんど、彼の作品が絵ハガキになっている】

■■■
さて次の日からヒマラヤの山々と対面、まず早朝にポカラという町にヒコーキで飛ぶ。ボカラの町からはアンナプルナの山々、マナスルなどが目の前に展開している。かつて日本隊のマナスル登山の活躍などを本や雑誌で興奮しながら読んだ記憶がよみえってきました。8千メートル級の山々は近くに見えて近づきがたく遠くにあります。やっぱり素人には手が出ない山なのだとただ眺めているだけになってしまいます。

【平画伯(自分)のスケッチ】

■■■
次の日はJamson まで飛行機で飛び愈々秘境に足をふみいれる。ジープで3時間ほど乗って、ヒンズー教とチベット仏教の聖地ムクチナートをたずねる。

【ガンジス源流の左岸をジープで登る。石ころの上をジープが突っ走る】

ジープがついたところが何と3500メートルの高地。頭がふらふらする。さらにここからあと200メートルを登らないとお寺までいけない。参加者ほとんどがふらふらで、夢遊病者のように一歩一歩ゆっくりと登っています。ヒンズー教のお寺の周りの清水を流している給水パイプが並んでいる。ここで身を清めるためにこの水に打たれて煩悩を流してもらうみたい。ちなみにパイプは108あった。さすがに水は冷たい。あきらめて我が煩悩はそのまま温存して、手だけ108回濡らして行の代わりとする。そしてその脇に円筒に経文を書いたマニ車があった。これをまわしてお祈りをしていくようです。念のためマニ車を数えたら110個あった・・・。煩悩が少し多いのかなあ。本尊観音菩薩像を収めたチベット仏教の寺があった。この中に清水が流れていてその中から天然ガスが出ていて火がついている。年中絶えることなく火がともっているようです。ヒンドウのお寺も見てジープの待つところまで3500メートルの高地です。帰りはもうフラフラで皆が夢遊病者のように歩いていた。やっとレストランのあるところまで降りて軽い昼食を取り、ネパールミルクティーをいただく。生き返ってようだ。2,3人の仲間が少し横になって回復を待つ。

【あと200メートルでお寺。頑張れ。】

【煩悩よ去れ。】

今晩の宿ナウリコット村のThasang Villege Lodgeに、また3時間ほどジープに揺られて、ガンジスの源流から急な山道のつづら折りを9回ほど繰り返してLodgeに到着。Lodgeは2700メートルの高度にあり、目の前にダウラギリの8167mの山なみがよこたわる。このふもとに80軒の小さな村があり小学校があった。

【ガンジスの源流から登ること300メートル。】

【ナウリコットのむら】

夜空の星の数は素晴らしかった。空いっぱいにちりばめられています。夜の9時ごろ屋上から皆で星空を仰いだ。オリオンが、シリウスが、とてもあかるい。周りの星達の多いこと。こんなに沢山の星があったのかとビックリする。冬の大三角形がすぐ認識できる。シリウスの下に光輝く星の集まり、あれが大犬座なのだろうか。次の日の朝4時ごろに目が覚めてまた懐中電灯を頼りに一人屋上に上がった。今度は夏の星座白鳥です。天の川が凄い。今日は水がたくさんあるようだ。牽牛と織女がまさに川を渡らんとしているようだ。こんなに沢山の星で作られる天の川も初めてだ。この自然を何とかPollusionからまもりたいものです。

■■■
【ダウラギリと仲間たち】

今日は一日ホテルからダウラギリの中腹まで、皆で登る。3000メートルのあたりでヤクが草を食んでいる。ヤクは3000メートルの高さが快適に過ごせる場所だという、おもしろいですね。村の人が朝ヤクを連れてダウラギリの登り口(約2800メートル)に連れてくる。そしてヤクを放すと彼等は3000メートルまで登って行って草を食べるという。そして夕方になると又村まで降りてくるので村人に迎えられて彼らの家にいく。村の家は家畜と人間がともにくらしている。家の半分は家畜の部屋になっている。ダウラギリからの水が導水路をとうして村に流れている。途中水車小屋があり蕎麦をひいていた。村人が一人のんびりと小屋の前で蕎麦が挽けるのをまっていた。

【蕎麦の碾き臼のある水車小屋】

ここに簡単な発電機を数個並べれば発電ができるのでは。そしたらせめて数百Wattの電球をつければ子供達も夜勉強できるのでは。またLEDランプにすれば数ワットでいけるから80軒の光はすぐとれるのでは。本格的に考えてみる必要があるようだ。早稲田大学の大学院生の下田くんにこのプロジェクトを投げてみた研究の結果がたのしみだ。

ダウラギリからは数条の滝が流れている。これこそマイクロ水力発電を行えばこの小さな村とこの小学校に電気が引ける。そしてネットがつながれば子供たちの勉強に役立つが。この思いをカトマンヅに帰ってから日本の藤原公使との夕食で何とかしたいという思いが一層つのってきた。Nepalがスイスの様な観光国家として成り立たせるにはこの自然を早く守り、環境を保全する必要があります。ネパールの政治家が早くこれに気づいて国を守ってほしいものです。

■■■
カトマンズに帰ってから伊藤先生と友人アミラさんの農園を見学に行った。カトマンズの町から3時間のバスの旅急峻な山と谷の間のバスの旅は、ただただ緊張の連続で農園についたときはほとほと疲れきってしまった。この国の農家は大変なところで頑張っているのです。

【伊藤先生と友人アミラさんの農園】

それでもカトマンズという大都市を控えて農産物の需要は相当あるようです。その農園はありがたいことに水が豊富で、農作物は順調に獲れているようです。農園の下の方に、かつて日本政府の援助で作られた発電所があるこれが、カトマンズへ電力を供給している、ほぼ唯一の発電所だという。いつも停電しているからあと2,3個所このような発電所を作らないとカトマンズの停電は解消されないようです。まずは国の政治がしっかりしないと、国民の生活は改善されないでしょう。どの国も同じような悩みがあるものです、信念を持って、将来のために,しかりした政策を打ち出せるリーダーが出てきてほしいものです、さて鳩山さんはいかに。そしてまたObamaの信念はいかに。見守っていきたいが、ぜひとも将来を見越した施策がほしいものです。

楽しくもあり、苦しくもあった旅を終り、ネパールの人のために何かできないだろうかという思いでカトマンズから帰国の途についた。

【ナウリコットの幼稚園】

■■■
伊藤 ゆき さんのこと。
今回のHimalaya行きは同級生の小林禧夫君(埼玉大学教授)とヒマラヤに行きたいねと数年前に話して、そして同じく埼玉大学で国際交流センターの特任教授の伊藤ゆきさんを紹介されて愈々ネパール行きが決まったものでした。伊藤さんはネパールの日本大使館で数年仕事をしていた方で、ネパール語を流暢にはなされます。文京学院大学で国際協力フィールドワークを教えていらっしゃいます。そして学生たちを連れてネパールの現地の人たちのところでホームステイさせています。暖房のない、トイレもない家で村人たちと生活する・・・。こんな経験ができる学生は幸せですね。たまたま我々の最後の日に、その学生たちに会いました。とても喜んでいて、大変なことがあったなどとは一つもこぼさなかった。こんな経験をした学生は社会に出て活躍できるものとおもう。学生がほしかったら伊藤先生に連絡してください。

ハイテクの社会でいきていてSilicon ValleyがEntreprenurのメッカでTie Conが若者の眼を開かせるチャンスだなどと考えて行動している自分に、一つのアンチテーゼをあたえてくれた。ネパールのなかで限られたリソースで生きている人たちの生活を、身をもって経験することが大変かけがえのないことのように思う。短い間で伊藤先生の話を聞いて彼女の活動を網羅するのは難しいが、何せネパールの事を一生懸命に考えて手をさしのべ活動しています。我々がナウリコットのむらの学校を訪ねたのも、先生がNPOの援助で村の女性の大学教育を援助してこの村の先生になってもらった、その女性を鼓舞するのも目的のひとつでした。彼女は幼稚園の園児たちを担当して、楽しそうに授業をしていました。伊藤さんとの再会でうれしそうでした。

伊藤先生はNPO日本ネパール女性教育協会(JNFEA)の理事で、また(社)日本ネパール協会(JNS)の副会長(www.nichine.or.jp)もされています。まるでネパールの母みたいなかたです。今回のガイドのピータバルも伊藤先生を慕い、流暢な日本語で、我々の女性群が絶大な好意をよせていました。ピータバルの生い立ち、その後の彼の努力は又ネパールのすばらしい、Entrepreneurでした。もう一度ネパールを訪ねたい、この次はEverestのふもとまで行ってみたい。

+++++
数週間前に伊藤先生からメールがきた。本人に許可なしてここに掲載したい。
From: Yuki ITO Sent: Friday, April 02, 2010 12:30 PM
To: ‘tsuyoshi taira’
Subject: 平強ブログ

平 様

平様のブログを、「お気に入り」に入れました。
息子たちが父親を乗り越える年齢になって、夫は、少し壁を低くしてやりながら、
「何の仕事をしても、食ってゆければ良い。ただし、虚業はするな。」と言ったようです。
私は、東京外大ヒンディー語科4年だった息子に、「カルカッタで半年、港湾労働者
をしてこい。ただし、インド人労働者の仕事は奪うな。世界のどこに住んでも良いが、
日本で役に立たない人間は、外国へ行ったら、お邪魔になるだけ。」と、運送業をして
いた友人に預けました。優秀でない子どもには、体で憶えさせることも大事。
********************************
伊藤ゆき

+++++

伊藤さんは2人の娘さんと2人の息子さんと一人のご主人の面倒を見ながらネパールのために頑張っています。さすがにお母さん、子供を崖からつきおとしています。きっとすばらしい青年に育つでしょうね。私もハイテク至上主義を少し修正して、私がやっている集まりを少し修正しようかと思っています。いまさら Home Stayは無理なのでガンジス川で沐浴ぐらいが良いかなあ。あるいは又、あのムクチナートで、皆で108の聖水で煩悩を洗いに行くかなあ。

友よ、覚悟を決めておいてくれ。

されど、愛しきソニー 蓑宮 武夫著

ソニーの元執行役員上席常務の蓑宮武夫さんが本を出版されました。

日本のエレクトロニックス業界をリードしたソニーの新製品開発への燃えるような努力、その主なプレイヤー達の活躍が鮮明に述べられていて大変興奮しながら読ませてもらいました。業界をリードした会社だけあって、まずは素晴らしい創業者がいらしたこと、さらには出る杭たる侍が相当数いたことがソニーの栄華を築きあげたのだと思う。まずは井深さん盛田さんのDNAが継承されたことが一番大きいと思う。世界で最初にトランジスターラジオを作ることを決めた井深さんの決定は凄いですね。まだゲルマニュウムのトランジスターがやっと作られたころによくもこの決定がなされてこと。すごいです。日本で最初にゲルマニュムのトランジスターを作られた岩瀬新吾博士が、三洋の半導体事業を担当してトランジスターを作り始めるころに私も半導体屋としての一歩を歩みだしたころなので、このころの苦労がよくわかります。本の中での岩間レポートの話がありましたが、このころ日本の各半導体関係者がRCAと契約して、アメリカのニュウジャジーのサマービルに沢山の半導体技術者が駐在していました。そして彼らがRCAのOperation Manual (OI)を日本に送り届けて、どのようにしてトランジスターが作られているかを、必死になって日本にレポートしたものでした。Q-Tip(いわゆる綿棒、みみかき) なるもの記述があり、エンジニヤーが何だろう?と相当頭を悩ましたという話を先輩に聞いたことがありました。大変な苦労でゲルマニュウムトランジスターが出来上がっていったものです。日本の半導体事業もこのような苦労の中から立ち上がってある時期に”Japan is No.1”となったのでした。

今日本では”Innovation”が出ない、日本は駄目だ日本の大人たちは駄目だ(老害)ということを聞くことが多くなりました。又大企業は駄目だともきこえてきます。しかしそうだろうか、日本がこの小さな島国から世界第2の経済大国になったのは”Innovation”があったからこそここまでこれたのだとおもいます。外から見えない大企業の”Innovation”それを蓑宮さんはこの本の中で鮮やかに浮き彫りにしてくれました。時代劇を見るたびに下級武士が殿の誤った決定に対してそれを正す時、切腹覚悟で“殿それは間違っています”。と進言する。その忠言に迫力あるいは、気がこもっているときは殿といえども自分の過ちを正している。勿論切腹させられたものも中にはあるようだけれども、部下の国を思う思いは通じるものがあるからだと思う。徳川300年の歴史が培ってきたこの上下関係のあり方が現在のわれわれの考え方にそのまま影響してきていると思う。この自分の命を賭して意見のできる人物がいわゆる出る釘の人物ではないだろうか。日本の組織はものすごくがっちりしていて上下関係がしっかりしていてその則は越えにくくなっている。しかし国家の存亡にかかわる時黙っていられるだろうか・・・。

この本はそんな組織の中でどのようにして”Innovationができてきたか”を語ってくれる。

江戸幕府から明治維新にかけての若き獅子たちの活躍は国家の存亡にかかわるときに身を賭して立ち上がった若者たちの活躍ではなかったか。もし切腹を覚悟で殿に意見を言う文化がなかったらこのような勤皇の志士達は出てこなかったことでしょう。しかし又その精神的な支えを醸造してくれたのが当時の国学者たちであったと思う。吉田松陰、荻生徂徠、などの若い人たちを導いてくれたのだとおもう。又、西郷隆盛のように漢籍から自ら学び利他の心を身につけて明治維新に貢献した。当時の英雄たちはみな下級武士たちであった、ですから殿はどんなん愚鈍な殿でも務まっていたのである。この風習が残っていた愚鈍な社長がいる会社で最後にはつぶれた会社も見かけるがたいていは志士達によって持ちこたえている場合が多い。

英邁な社長がおりそして若き志士達がおれば会社の繁栄は問題ないとおもうし、”Innovation”もおこるものです。ソニーが英邁な上司を持ち、意気盛んな志士達を抱えてきたのが、今日のソニーを作り上げて来たのだろうと思う。井深さんと盛田さんのDNAは凄いしかしそれを支えてきた志士達もまたすごい。金のかかる方向転換は殿にしかできない。ソニーの半導体を作るという意思決定はトップのDNAがなせる技です。そして日本全体が又半導体を作る方向に行ったのも又、凄いと思う。

ソニーの世界で初めてという各種の製品開発はたいしたものでした。最初の電卓「ソバックス」、あるいは最初のデジタルカメラ「マビカ」、トリニトロンTV、AIBO、これらの商品がのちの大きなマーケットとなっていった。そしてデジタルカメラの素子となるCCDを16年もかっかて開発をつづけた努力は凄いと思う。本の中のたびたび “千に三つ”という言葉が出てきて面白いとおもった。“千に三つ”とはベンチャーキャピタルの成功率のはなしです。即ち千社に投資して成功する会はわずか3社なのです。シリコンバレイの過去のデーターを見てもほぼこれに近いようなデーターがでています。アメリカのベンチャーキャピタルはこのような低い成功率に多額の金をつぎこんでいます。ギャンブルにしてはあまりにも割に合わないものですが。やっぱり西部開拓時のフロンテヤ精神が旺盛なのでしょう。又新しく創造していかないと世の中が停滞してしまいます。あるいは絶えずチャレンジしていくという精神が旺盛なのかもしれません。株式市場が上がり調子の時は千に三つでも十分に大きな利益がもたらされていました。しかしチャレンジしていかない限り、先細りになってついには破綻してしまいます。やっぱり開拓者精神で先を進むしか我々の道はないものです。ソニーの開発も千に三つで来たようです。ですが、三つを成功させるための千のチャレンジがあることが大事です。

さてそれではその千の玉をどのようにして作るのだろうか。

企業戦略から出てくるプロジェクトからは千もアイデアはでません。それは部下(侍)からしかでません。そこにどのような侍がいるかによって千のアイデヤがでるのです。

さてそれではその千のアイデヤをどのようにして三つに仕立て上げていくのか。

かってオランダのフイリップスとICの開発のプロジェクトを持ったことがあってアイントフォウベンの街のレストランでフィリップスのエンジニヤ達と食事をしながら雑談をしていた。アイントフォウベンの街は静かな小さな田舎町です。森の中の一軒家みたいなのがレストランでした。そしてそこには近所に住んでいるフイリップスのエンジニヤ達が時々食事をしています。結局のところこんな場所がフイリップスの中の違うセクッションの人たちを結びつけているのです。とにかく町全体がフイリップスの人たちですから。ここでどうしてCDが開発されたかの話をききました。ある研究所の科学者がプラスチックの板に信号を書き込めないかを考えていたその考えをテレビのエンジニヤーとさらに半導体のエンジニヤに話をした。その彼はこの3名のほかに他の部署の技術者にわからないことは話しあっているうちに自然にアングラのチームが出来上がった。それから彼らは夜になるとその科学者の研究室に集まり実験をくりかえしてある程度のものができて、それから社長に進言したのだそうです。そしてOfficial Projectとして取り上げてもらい、くだんのアングラ部隊がそのままCD開発のチームを作り上げたという。こちらにも騎士道あり、でもしかすると武士道に近いのでは。又このCD技術はソニーがいち早く取り上げて世界に広げたのもソニーのDNAがなせるわざです。アングラプロジェクトというのはほとんどの会社で行われている又このように下からあがるがるプロジェクトこそ芯のあるプロジェクトなのです。意気盛な若きアントレプレナー達がこのようなプロジェクトを立ち上げてあの大会社をささえています。千に三つですが。それを生み出すために何千というアイデアが葬られてそして三つのプロジェクトが会社をささえていきます。明治維新も多分この千に三つのたぐいかもしれない。

私もGreen LED,Laser Diode,世界最初の15Wattオーデオアンプ、それが高じてハイブリットIC事業部ができた 。当初のLCD Displayなど組織を越えてアングラ組にくみして世界に市場をさがしてあるいたものでした。そしてデジタルカメラを大きく立ち上げのために他社のエンジニヤと組んでのアングラも経験した。しかしアングラをアングラだけにしておけば開発はおわりです。あるところでこれをオーソライズしてもらわないと闇に葬られてしまいます。そこに英邁な上司と社長の存在が必要です。

ソニーには見事に井深、盛田のDNAで育って人材がたくさんいてその人たちがソニーを支えてきています。その一人が蓑宮さんだったのですね。日本は製造王国でそれでここまできました。しかしもう大企業が硬直して駄目である、ソニーが製造を放棄したなどと非難されています。しかしそれは決してそうではないとおもいます。まだまだ侍がいます。そして千三つのチャレンジがつづいています。かって出井伸之さんをTie Conのキーノートスピーカーとしてシリコンバレイにお迎えした時、出井さんの話の後から会場からの質問を受け付けたこの時、私は司会をしていましたのではっきりとおぼえています。質問の内容は「いつになったらソニーはグーグルのように利益をあげられますか。」というものでした。その答えに出井さんは何と次の様にこたえたのです。

“グーグルの様な会社はいつまで存続するかわからないでしょう。”

四千名いた観衆はここで一斉に拍手喝さいしたのです。多分その心はバーチャルビジネスとリアルビジネス即ち製造の強みを言われたのではないかとおもいます。日本の強みは製造です。その製造を支えているのが部品なのです。精巧で信頼性の高い部品なくしては今日のエレクトロニクス産業は成り立ちません。製造場所は変わるかもしれませんが。構成している部品は部品メーカーからしか買えません。中国での生産がふえています。しかし部品は大半が日本からです。その部品は日本の大手からの要望で作られたグレードアップされたものなのです。今後とも日本の部品メーカーは成長していくでしょう。又日本の製造メーカーも開発は日本で続けて行くしその要望は部品メーカーに反映されていくものと思う。

本の中に青木桂子さんという女性の活躍の一節がありました。これこそ日本のアングラの世界と殿を結ぶ接点です。どれだけ彼女の活躍がソニーを救ったことか。それでも千に三つです。今、大企業に問われるのはこのアングラプロジェクトの限界があります。青木さんの苦労は数分の空き時間の勝負です。これからも勿論このような努力はいつの世にもあるかとおもいますが。逆に外のアングラプロジェクトを社内に取り入れることを、もっと日本のメーカーは考える必要があるのではないでしょうか。Ciscoは外部の会社を買って、しかもその会社の技術とエンジニヤーを自社の重要な所に配置しています。それだからこそ20%とか30%の成長をまだまだ保ちつづけています。

さあもう井深、盛田のあとを追うのではなく新しくできるベンチャーのアイデアを果敢に取り込まないといけない時期です。中国が日本を抜いて第二の経済大国になりました。日本もこれ以上離されないように外部の技術を取り入れてリープ、フロップしなければいけません。そしてキーコンポネンツをいつも抑えていく必要があります。そうすれば第二の大国でも利益は世界一に保つことができます。

いい本は出されました。自分の身の上にも照らしながら、大変懐かしく読ませてもらいました。そして又各社の侍に思いを及ぼしていました。今ベンチャーインベツトメントに携わっていますが、千に三つでも一つだけでも世の中に貢献できる技術が開発されて、それがいつの日か、世界経済に大きく貢献できる日が来ることを祈って、小さい努力を続けると同時に、若い人たちを鼓舞しつづけていきたいとおもいます。

蓑宮さんありがとう。涙が出るほどいい本でした。
世の中の技術者がたくさん読んでくださることを期待しています。

March,14,2010 Silicon Valleyにて。

一生懸命ふまじめ   武宮正樹

囲碁の神様に2局打ってもらいました。

三連星を考えだした囲碁の神様的な存在である武宮正樹さんとお会いする絶好の機会にめぐまれました。起業家クラブの徳永さんがグアムでのゴルフ大会を企画されたので参加しましたら何とそこに武宮さんも参加されていました。有りがたいことに初日の夜に武宮さんの講演がありました。もうわくわくして講演をききました。何せ三連星という布石は一世を風靡した布石で武宮さんの発想でこの三連星で何勝も連続で勝ち続けた幻の布石でした。ちょうど“一生懸命ふまじめ”という本を上梓されて参加者に一冊づつ配っていただきました。どんな戦略を駆使してあのように連勝されたのかと聞いたら何とその答えは“私は打ちたいところに石をうっているのだ”というのです。そしてさらに驚くことに私は地にはこだわらないというのです。囲碁の基本は地所を取ることです。それを何と地にこだわらないというのです。やっぱり名人の域に達すると地にこだわれずに地がとれているのでしょう。打ちたいところに打ち地にこだわらないで打つもうこれは仙人の域なのだとおもいました。地を取るとは財産を増やすことににています。武宮さんは財産を増やそうとは思わないという、それよりも自分のやりたいことをやるのが一番いいし健康で楽しく生きていければそれが一番だという。なるほど財を築いていい生活をしたいのが凡人の考えだがさすがは名人の域にたっすると世俗を越えてしまわれるのですね。素人は必至になった地取りに専念するし、石を殺されてはいけないので必至になって我が石を守ろうとする、そしてまた財を稼いで少しでもいい暮らしができるようにお金がたまるようにとおもうものです。

なるほど名人はすでに

地を去り戦略を去り 我が思うところに石を打つのだろう

と名人の心を知ることができました。

とにかくいつでも自分のやりたいところに打ちたいところに打つのだという。実生活もまた自分のやりたいことを一生懸命にやるのだという。今武宮さんはダンスに凝っておられて今はプロの域にたっしています。何と一週間に3日それも着替えを3着ももって練習にいくそうです。一回の練習で汗びっしょりになるのですぐ取り換えるのだという。そして3回もとりかえるのです。大変な遊びをまじめにやっておられる、そしてまた碁の方は今またすごい勢いで勝ち抜いていらっしゃるようです。今58歳だそうですが。ますます碁はさえているようです。打ちたいところに打つそれが脳細胞をやはらかくしているのだろうか。今年はタイトルを又取るのではないかといわれているようです。たのしみです。かって 本因坊、十段位、そして名人位など数々のタイトルをものにしてそして今60に近くなって又タイトルをうかがう位置におられるようです。


いよいよ対局。
夕食後に徳永さんと二人で一局おねがいしました。二人とも5目おいておねがいしました。本来なら9目おいてもかなわないのですが。5目しかおかせてもらえませんでした。打ち始めてどうもスーと空気が抜けていくようで相手の抵抗がない。なんだか空気を相手にしているようでいささかきがぬけてします。とにかく我々の碁はとにかく負けるものかと必死に打つものだから相手の意気込みがひしひしと伝わってくるのでこちらも力がこもる。かって学生時代に柔道をやっていたときに先輩の高段者と取り組む時相手と組んだ時何と空気を持ったようでちっとも相手が感じられないことがあった、少しこちらが押したり動いたりするといつの間にか畳の上に叩きつけられていたのに似ている、しかし碁の方が叩きつけられる感覚がないからなおこまる。しかししばらくすると我が石は瀕死の重傷を負っていた。なるほどこれだけ実力が違うと相手にしてもらっているのかどうかもわからない内にもうさんざんやられていた。とにかく面白くない感じでした。柔道なら畳にたたきつけられて十分な稽古をつけてもらったというありがたみがあるがこの神さまとの対局は結局空気と戦っているみたいでもういただけませんでした。やっぱり分相応にへぼ碁でもやっている方がいいのかなあ。もう少し修行してからそのうち又教えを請うことにしよう。同時並行で徳永さんも終わっていました。徳永さんの方は少しまあまあーに戦っていたようです。

次の日が終わってから今度は徳永さんと打つことにしたどうも二人とも同じような実力のようで私が黒を持ってうちはじめた。さてこちらはお互いの気力がひしひしとつたわってきます。お互いに負けてはいかないという気合が伝わってきっます。だから素人同士の碁はおもしろいものです。打ちたいところに打つなどとはとても考えておれません。もう地をとりにいきます。そしてまた貪欲にも相手の石をころしにいきます。とにかく戦略は地を取ること相手の石を殺すこと、将軍の戦ではなく足軽の戦です。こんなことをしていて人に講演するときは戦略を考え、競争相手の手の内を十分に読み我が方に有利なように兵を動かすごとくビジネスをしなさいと、高いところからの賜っている自分を思い出しながらひたすら相手の石を殺すことに集中しています。まだまだ人間ができてないのですね。それはともかく打ちたいところでなく相手を倒さなければいかないところに打ち、地を取るために必死に青手につかかていきます。そして時には自滅してまけるのです。徳永さんは私のがむしゃらを軽くいなされてユウユウとうたれていた。
でもいい勝負でした。又の機会を見つけてうちたいものです。ゴルフも碁もやっぱり人生そのものですね。名人のゴルフはやっぱり名人のゴルフでした。いつの日か雨宮さんの迫力がわかるようになってから又教えていただきたいものです。

そして又ゴルフでも一緒の組で回らさせていただく光栄にめぐまれました。さすがに碁のぎふうのように宇宙流のゴルフです。けしてりきまず、しかしダンスで鍛えた足腰はしかりと大地に根をはやしています。私の方は力任せになるべく遠くに飛ばそうともう毎回、親の仇を討つべくクラブを振りまわしている割にはボールは決して真っすぐには飛んでいきません。さすがに武宮さんのゴルフもまた棋風そのものでした。グアムのゴルフはこの後大雨に襲われたコールドゲームとなってしまいました。女優の藤田佳子さんはさすがに雨の中でいいスコアーでまわっていました。ベットをお願いしたらやめておいた方がいいわよと軽く言われて、まったくそのようになってしまいました。

2日目もゴルフ、今日は武宮さんと一緒でないので名人に気兼することなく我がゴルフを徳永さんの息子健一君と組んでたのしみました。夜は打ち上げのDinner 今回はホテルコーポレイッションの田中健介社長のご厚意でグアムのシラトンホテルとそのゴルフ場で歓待していただいた最後のDinnerをごちそうになってプレジデントスイートで歓談した後せっかくだからこのチャンスにもう一度武宮さんに一局を打ってほしいと厚かましくおねがいしました。今回は石を殺されないように頑張ってみたが歯が立たないのはしかたがない。我々の碁は60目ぐらい負けていても大体最後に大逆転で10目ぐらい勝てるので決して途中で辞めないで最後までうちつづけるのです。そして最後には All or Nothing でゲームがおわるのです。ゴルフの18番ホールのDouble Or Nothing みたいなものです。たいがいDouble で支払いする羽目になっていますが。

さて田中社長、音響の大朏社長などが観戦されていたもう大半が負けていたので田中社長がもう60目負けているからそれで終わりなさいと宣言されたのでここでギブアップしました。そして今度は田中社長と武宮さんの対戦になりました。武宮さんは田中社長の先生で大変きびしい指導をされていると田中さんははなしておられた。段の上の人ながらときどき武宮さんが3目おいて打たせたりするそうです。そんなわけで田中さんはプロ並みの碁をうたれているようです。さて対戦がはじました。武宮さんの気迫は全然感じられないそれに比べて田中さんの気迫のすごいのが感じられる。やっぱり高段者との差がここに出るのか。武宮さんの打たれる石はそれほど奇抜ともおもわれない。相変わらず空気が打っているような雰囲気でした。しかし我々観戦者はもうその一目一目の重みのあることなるほど高段者の碁というものはこういうものかと関心させられた。夜も更けてきた、また田中社長の石が安定したところでもうこれだけにしようと終わりになりました。田中さん方が少し有利のように見受けられた、いや素晴らしい一局をみせてもらいました。

いやー人生はあまりは力まない方がいいようですね。
最後に武宮さんにサインをいただいた。
わざわざ毛筆で何とその書が

“遊神”

楽しいですね。
いつの日かもう一興局相手の息が感じられるようになったらお手あわせいただきたい。

Page 6 of 10

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén