大江修造(東京理科大学教授)

先日小平さん 達が始めたエンジエル投資家の育成を目的とする財団法人アーネスト育成財団にシリコンバレイの活動に関する講演をしてきました。グループの中に奄美出身の大江修造、理科大学教授がいらした。講演の後で彼が書いたこの本をいただいた。子供のころ(6,7歳のころ)、与論島でサトウキビを刈り取り圧搾機にかませて砂糖汁を取る作業の手伝いをしたことがあった。当時の圧搾機は回転部分に長い棒をつけてこれを牛にひかせてサトウキビを回転ギヤーにかませて砂糖汁を回収する方法でした。そんな思いでを浮かべながらこの本を読んだ、そして奄美の黒砂糖が薩摩の財源になりそして明治維新の財源になったことを知り大変感激しました。我々の祖先が苦労して日本が外国の植民地になるのを避けさらには明治維新の資金源を提供したことを知り祖先の苦労に改めて頭がさがりました。
砂糖キビは1609年頃奄美の人が中国から苗を持ち込んで始められた。丁度薩摩が奄美の支配を始めた頃にあたる。以前は奄美は琉球の支配下にあった。また当時は琉球は独立した王国であったが。中国の明に朝貢していた。砂糖黍は奄美以南の亜熱帯でしか成長しなかったこのため奄美、琉球が黒砂糖の産地であった。慶長15年(1610年)に100斤の生産数量であった黒砂糖は全島で生産されるようになり、1805年には700万斤となった。当時砂糖は外国から入ってくるだけで高価なものであった。このため薩摩はこの黒砂糖の販売或いは琉球との密貿易によって多大の資金を得た。

徳川時代の政権維持のための施策によって大名達は多大の出費を強いられるプロジェクトを課されていた、その一例が宝暦の治水工事であった、薩摩藩はこの工事のために大変な出費をよぎなくされている。この木曽川、長良川、揖斐川の工事は難工事で薩摩藩は900名以上の人を派遣してこの工事にあったそして 85名の人が死亡した。 このためこの費用として40万両という借金を大阪商人から借りている。この担保が奄美の黒砂糖であった。当時の黒砂糖の生産数量はまだ少なかったので薩摩藩として砂糖の増産を奄美に強要した。このため逆に奄美で大飢饉がおこってしまう。そしてこれを契機に黒砂糖の総買い上げを藩が実施して益々の搾取政策が実施されるのです。

日本が外国の植民地化を避けられた理由。
ペリー提督が来航し日米和親条約が結ばれる7年前にすでに琉球王国では開国させられていた。琉球、奄美には度々英国、フランスなどの軍艦が度々訪れて水や食料をもらいそしてまた無理やりに条約に調印させられている(流球の開国)。これが薩摩藩が外国の驚異を恐れそして軍艦の購入或いは鹿児島湾の方々に砲台を建設して外国への備えをしたのでした。

薩英戦争(生麦事件)
島津久光の行列に英国人 リチャードソンらの4名がぶつかりそれを薩摩の藩士が リチャドソンを無礼者として切りつけてころしてしまう。英国はこれに対して賠償金十万ポンドと犯人の処刑を要求、幕府は十万ポンドの賠償金を払うが薩摩藩は犯人の処刑を無視しました。このため英国は7隻の艦隊で鹿児島湾に投錨します。交渉のために双方で会談が行われたが物別れになり戦闘が始まり薩摩は砲台からの攻撃で英国の艦船二隻を沈没させた。一方薩摩側は砲台を破壊されさらに市街地が砲弾を受け焼けてしまった。英艦の砲弾の到達距離が日本のものよりはるかに遠く薩摩藩の者を驚かせた。これが薩摩藩が後に英国から 軍艦を買うことをうながしたのでした。この戦闘で薩摩側も多くの軍艦を沈められてしまった。折からの天候不順のため英艦も思うように戦えず結局英艦は横浜に帰還してしまう。薩摩の実力を見てこれはこのまま戦えば不利とみたようです。このため薩摩の実力を見て幕府よりも薩摩藩との交渉に重きを置くようになります。 その後薩摩は英国から軍艦を買うことになり逆に友好な相手となり大政奉還への相談或るいは外国との対応などについてのサジェスション などをもらったようです。

この戦いで薩摩藩は外国の技術の進歩に驚き軍艦を買いさらに Globalization に目覚めて数多くの藩士を英国に留学させるのです。(今のSilicon valley へ日本の大学生を送るのにていますね。)当時の黒砂糖からの収入は年間20万両ほどまでにふえていた。 黒砂糖以外の藩の収入は一万両ほどもなかったから黒砂糖が薩摩の資金源になったしこれば明治維新を実現するための大きな資金となったのです。この頃の薩摩の 支出額は 軍艦船舶 126万両、留学生派遣 7万両、大砲など 19万両、合計 152万両 であった、奄美の黒砂糖が担った役割は凄いものでした。この黒砂糖を確保するために 薩摩藩は生産の全量買い上げを行い徹底的に搾取政策を実施したのでした。また江戸への藩兵500ー700名の派遣にも多大の費用がかかっていた。また薩摩から江戸への藩兵の輸送も春日丸という軍艦があったからこそ出来たのです。もしとう時の陸路を馬で出かけていたら多分一ヶ月はかかたでしょう。そうすれば鳥羽伏見の戦いにも江戸城無血開城にも間に合わなかったし、明治維新は実現しなかったでしょう。或いは日本が中国のように諸外国の植民地となってしまっていたかもしれない。テクノロジーの進歩そしてGlobalization は今も昔も変わらないですね。今こそまたもっと真剣にテクノロジー の進歩またGlobalization を考えないといけない時です。

当時の鎖国の世界から外に目を向けていた薩摩の先見の明はりっぱでした。また留学生を送る英断もたいしたものです。流石に島津久光 また斉彬 の藩主 の英明にもよるのでしょう。

西郷と奄美
西郷隆盛は三回奄美に島流しになっている。最初が奄美大島の龍郷村、二度目が徳之島そして三度目が沖永良部島である。月照とともに自殺は測ったが無事助かってその後奄美に島流しになっている。この奄美でのしまならしの三年間が西郷にとってその人間性を磨きまた精神的な支柱を得ることができたようです。特に中国に留学して奄美にいた 岡程進儀 に漢詩或いは漢籍の指導を受けている。その後2度3度の島流しに合うがこの時こそまた西郷の人間性をさらに大きくする機会となった。かれは行李にいっぱいの漢籍を詰め込んでこれを熟読して人間を磨いたのでした。

本書の著者の大江さんは美しい自然、きびしい自然。それに愛加那(島で結婚した妻)を始め岡程進儀、得藤長など多くの人々との出会いで人間性を高めていったと述べています。まさに同感です。

奄美大島は終戦後1946 に沖縄とともにメリカ軍政府の下で日本と切り離されてしまった(二,二宣言)日本本土への交流が遮断された、本土に行くこともできなくなったのです。(いわゆる外国になったのです)。 翌年から日本復帰のために島民運動が展開されました。その後奄美大島日本復帰協議会が結成され(詩人の泉芳郎氏が議長)そして村民を上げての復帰運動がつづけられた。八年後の1953年の12月に日本に復帰したのでした。私は中学2年、及び3年の時にこの民族運動に参加しました。島民の99.9%の署名が集まったときいています。高校に入るときは日本に復帰しており卒業とともに日本にも行けたし大学に進学することもできたのでした。軍政府当時は 通貨は日本円ではなくて B円という通貨がつかわれていました。

兎に角奄美の黒砂糖が薩摩の資金源となり幕末の薩摩の活躍をささえたのでした。篤姫の徳川家への嫁入りの費用にもこの奄美の黒砂糖が大いに貢献していたのでした。薩摩の奄美の黒砂糖の政策はひどいものでした。さらに島民の扱いを徹底した差別待遇で行つた。黒砂糖の全生産量をやすい価格で藩がすべて買い上げ島民にはその価値がどれほどあるかも知らしめなかったのです。一種の税金みたいにしてすべて搾取したのでした。そして明治の世になっても県が買い上げておりそれに気づいた島民が黒砂糖売買運動などを起こしその後にやっと島民が自由に売買できるようになったようです。

今も島民の中に影をのこしていこのような黒砂糖政策での差別待遇が奄美の人たちのあの物悲しい島唄の響きとなったのでしょう。沖縄の島唄のあの明るさとの差となっているのでしょう。

私は与論島の出身なので与論島は島が小さいのであまり砂糖黍は作ってなかったのでしょうね。
奄美大島と徳之島そして沖永良部島が主な生産地だったようです。喜界島の記述を見ないので喜界島も当時は砂糖黍はなかったのだろうか。

1954年日本復帰後に日本政府は奄美復興特別処置法を制定して、確か100億ぐらいの復興資金と投下したようにきおくしています。当時大島高校から数名が東京の大学で勉強していた。夏に名瀬市に帰るたびにみんなで一体この復興資金がどのように使われているかをみんなで島を回って調べてみようではないかと、5,6名でキャラバンを組んで島々を回ることにした。私が登山の経験があるのでラジウスなどの自炊道具を持ち島の学校の宿直室にお願いして寝泊まりをして徳之島、沖永良部、与論島を見て回った。そして復興資金がどのように使われたかをしらべました。やっぱり復興の主なターゲットが黒砂糖の生産のようでした。大きな砂糖工場ができていました。島の人たちにこのような工場を建設する資金もなかったでしょうし、結局は鹿児島の企業が進出してこの工場を経営しているようでした。島の雇用を増やしたことは確かかもしれない、或いは砂糖黍を売ることで収入を得ていたのでしょう。しかしはたしてこの新しい工場が昔の値段よりも高くで買ってくれたとは思われないし、それはまた、ある意味では資本家の搾取に近いものだったかもしれない。ただ徳之島には大きなパイナップル畑ができていたこれは大きな変化だし、亜熱帯の農産物として一つの産業となっているとおもう。2週間のキャラバンをおえて今度はこの探索旅行記を本にすることにしました。 そして大阪で成功されている奄美出身の社長の会社を訪れて寄付をお願いしてガリ版刷りのほん“島” を発行するこができました。 後にこれが南海日日新聞に取り上げられて数回にわたり掲載されました。しかし当時の我々は表面から眺めただけで離島の苦しみ離島の楽しみの真髄に触れることはできませんでした。ただ少なくとも大きな砂糖工場が数軒できたのが復興の証ぐらいの認識に終わったとおもいます。

兎に角この大江修造教授の 本をいただく機会を得てもう一度我が故郷にもう一度思いを巡らす機会ができてうれしく思います。

かって島尾敏雄さんが 名瀬の文化会館の館長をされておられるころ数冊の本を出版されたその一つが“離島の悲しみ、離島の楽しみ”であった私がまだ大学生であったころ出版された、文学者の目からよく離島を見つめてくださった。又奄美の事をよく理解し奄美を愛して下さったとおもいます。戦争中人間魚雷の隊長として奄美の加計呂麻島で其の日が来るのを待っておられてそこで終戦を迎えその後、奄美の女性ミホさんと結婚し、名瀬市に移り住んで、文筆活動をつづけられた。高校生のころに数回お目にかかったことがありました。目のすごく澄んだ方だったと記憶しています。 島尾さんは “死の棘”で昭和35年に芸術選奨を受賞します。そして文壇での地位をきずいていかれます。島尾さんは又奄美の歴史に興味を持ち古書を集めて奄美の歴史に関する本なども出版されています。その中のひとつが “名瀬だより” です。私は名瀬中学、大島高校と名瀬ですごしました。今回の出逢いからアマゾンで島尾さんのこの本を手にいれることができました。名瀬のことハブ(毒蛇)の事そして島の精神生活などがすばらしい洞察力でかかれていました。奄美は島尾さんという作家を魅了することで素晴らしい宝物を得たものです。或いはミホさんという女性と奄美が島尾さんという人を引き付けたのでしょう。島尾ミホさんも又作家として数冊をのこしています。 私の 故郷の探究はこれから始めなければなりません。