13/03/11 月曜日15:13:22

久しぶりに与論島を訪れた、与論の田中教育長から島の人たちと与論高校の後輩たちにSilicon Valley の話をしてくれと依頼されたので、母の一周忌でもあったので墓参りを兼ねて尋ねることにした。与論島は周りわずか25km、人口5000名の小さい島です。
島の一番高いところが90メートル でそこに城あとがある。ここに琴平神社があり島の中心となっている。実家がこの神社の近くにあり、懐かしい場所である。
琴平神社の絶壁の崖を降りていけばシゴーの海がすぐそこにある。この海が我々子供たちの遊び場であった。しまはサンゴが隆起してできた島なのでどこもサンゴの石ころだらけです。シゴーに行く途中の崖がサンゴの岩棚になっておりここが昔の風葬のあとであった。



空からの与論島


与論島は今では火力発電所がありさらに水道が全島にひかれている。
サンゴでできた島なのでいたるところに鍾乳洞がある、実家の裏にもあった。
家の近くには“ヤゴー”と言う鍾乳洞があったここはきれいな水が自然に出来たサンゴの雨桶(とい)を通ってながれていた。この水が近所の人たちの飲み水であった、一番先が飲み水を汲むところでその次が野菜などをあらうところ、そのあとが洗濯する場所であった中は結構広いので子供たちは一番後ろで水浴びをしていた。当時はふろが我が家にはなかったので何時もここで水浴びをしてふろ代わりにしていた。お袋は毎日ここに飲み水を取りに桶に水を入れそれを頭に載せて2,3回往復していた。そしてそれを大きな水がめに入れて毎日の飲み水と炊事の水となっていた。”ヤゴー“は家からほぼ100メーター程のところだったが重たい水桶を頭の上に乗せて運ぶのは大変な作業だったとおもう。
数年してから兄貴がドラム缶を手に入れてきてそれに水を入れて風呂を沸かしてくれた、いずれにしてもヤゴーからの水が必要なので何回も風呂に入れるわけではなかった。
ヤゴーの水浴とシゴーの海が我々のお風呂場であった。
今は各家庭に水道がひかれ立派な風呂もついている。隔世の感がある。
ヤゴーも今は見ることもなく忘れされている。



城跡から沖縄本島が見える。


久しぶりの島なので島を一周しようと想いたった、周囲25km、5時間もあればあるけるので茶花の町をあとにしてあるきはじめた。しばらくすると後ろから来た車が止まってどこに行くのかと言う、グスク まで行きますと言ったらそれは大変だ送ってあげるから乗りなさいという。いや歩きたいのでいいですと断るが何としても連れて行ってあげると言う。多分自分の仕事があるはずですが。何べんもことわっても兎に角乗れと言うついに諦めて乗せてもらうことにした。さてグスクに着いたからもう後は車はこないだろうからゆっくりと昔の畑道をのんびり楽しめるなあと思ってあるきだした。20分もしない内に又車が来て止まった、そしてどこに行くのかと聞く大金久の海岸まで歩きたいのだと言った、そんな遠くまで大変だから乗せていくから乗れと言う。色々失礼にならないような理由を並べたが又これ以上ことわったら親切を無駄にしそうなのでついにお願いして乗せてもらうことにした。ついに私の与論一周の夢は実現しなかった。この次はなにがなんでも島一周したい。或いは与論一周マラソンのある時にもう一度たずねたい。

室生犀星 の詩、
ふるさとは 遠きにありて思うもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

ふるさとは乞食になったら帰りたくないと言う、しかしこの島は乞食になった時にも帰ってこれる島ではないだろうか。

与論島何の取り柄もない島ですが。ここに帰ってくると落ち着けるし、何もしなくても心が安らぐ、故郷と言うものはそんなものなのでしようね。
作家の島尾敏雄さんは、与論に2回ほどたずねたようです。 その最初の訪問時にエッセイをのこしています。

島尾敏雄全集から
私は都会に生まれそして育ったが、自分を手がかりにして人間を知るための方法をその都会の中では会得しにくかったように思う。すべての人間世界の[進歩](とひとまず言っておくが)の中でその[進歩]の調子に疑惑の気持をいだき始めてから、ある意味ではあとづさりの方法をかんがえた。

戦線を整理し始めると、自分がたしかにつかみとれるかぎられた世界(この場合かぎられたというのは, 平面的な広さのことを言いたいのだが)私の目のまえに大きくすがたをあらわしはじめた。そのとき私には辺地がたいせつな意味をもちはじめる。都会は魅惑を内にしたまま色あせてこわばりはいめ、辺地はやわらかく心象を広げてくれる。

その自分の責任を管理で来るだけの広さ(実際にはせまい場所)に自分を重ねて投入することによって、私ははっきり自分を確かめることに希望をもつだろう。その時すでに。現実のせまさ、その境界を越えてふくらみ始めるだろう。私の心象のなかでは。与論島は、狭い小さな弧島ではなく,なにかいいあらわすことのできない広さとしてとらえられている。
[島尾敏雄の与論島より]


作家の森瑤子がこの島に住み着いたのもこの自然だったのでしょう。
親戚の内から抜け出して“シゴー“の海に裸で飛び込んできた、泳ぐと言うよりは浴びてきた。どこの海よりもきれいな 澄んだ海でした。

百合ガ浜と言う潮が引くと浜辺から1.5メトル程先に突然砂浜 が現れるそこまではボートで連れてくれるし或いは泳いでいける。素敵な砂浜です。そしてそこには星の砂がいっぱいあります。ある夏に息子を連れてお袋に会いに行く、息子に親父の故郷を見てもらいたくて連れていいた。先祖の墓参り自分の過ごして島をじっくりと見てもらいここが私の心のふるさとであることを認識してもらうためにつれていいた。同じく娘を次の年につれていった。
今は息子はアメリカで医者をしている。 娘はパリでTV向けの広告用の映画の制作をしている。この何もない自然の島を二人とも楽しんだようだ。



与論小学校のガジュマルの木


昔、通った与論小学校によってみた。校庭の隅に大きなガジマルが昔と変わらない姿で立っていた。昔はよくこの木の下で遊んだものでした。
校長先生に会って話しを聞いた、学校にはすでにFiber が引かれ子どもたちはNet で色々勉強していると言う。この大洋の孤島にまで文明の利器が来ているのです。どんな子供たちが育つのだろうか。

島には大きな産業がない、昔から砂糖黍は生産されていた、しかし作付面積はたいしたことはないと思う。野菜を植えたり、いもを植えたり、落花生を植えたりしないといけないから
それほど砂糖黍に作付面積は裂いていないでしょう。今はほとんどの農家が牛を飼っているらしい。役場の人に聞いたら島内で牛が5千頭居ると言う。島の人口と同じです。
牛がある程度育ったらこれを松坂とか神戸に送り其れが松坂牛 などになるそうです。
牛がある程度与論の経済に貢献しているようだ。



城跡に建てられた日本復帰の記念塔


奄美が日本に復帰した時は日本の最南端だと言うことで大変な観光客でにぎわったようです。夏ばには 何万人と言う人がスキンダイビング にキャンプにきたようです。
今は最南端と言うキャチフレーズ がなくなり元の静かな村になっているようです。
与論の海はとてもきれいです。ハワイなどよりもはるかにきれいです。この自然をゆっくりと味わってほしいものです。

島にはソテツがあります。赤い実をつけます。栗のように硬い皮でおおわれ中にでんぷんの白い実があります。ソテツの実を鉄のガイドの上におき柄のついた刃物で二つに割り中の実を取り出して日に干して毒気をぬきます。十分に乾かさないと毒にあたります。戦争中はこのソテツの実で島の人が飢えをしのんだのでした。
このでんぷんをおこめと混ぜておかゆにしたり或いは麹を混ぜてミソをつくっていた。
おばちゃんとこのソテツの実を割る手伝いをよくしたものでした。今はこのソテツの実も忘れ去られてせいぜい 田端義雄の“赤いソテツの実も売れるころ”の奄美の歌に残っている位ですね。

琴平神社では旧暦の八月十五夜の祭りがおこなわれる。島中の人が御馳走を作りみんなで十五夜を祝う、相撲大会も盛大に行われる。
なお十五夜のおどりは 琉球と奄美の文化が入り混じって特別な趣の踊りとなっています。
このため、重要無形民俗文化財として国が指定したようです。



与論の十五夜踊り


私が生まれた時は 日本は日中戦争のさなかであったそして1941年には日米戦争に突入していた。戦争が進むにつれて日本は段々と敗戦の色がこくなっていた。
B29が日本全土を絨毯爆撃を繰り返し多数の一般市民が殺されていった。
沖縄本島も米軍が上陸する前に同じように絨毯爆撃で大勢の人が死んでいった。
与論島は沖縄の最北端辺戸岬からわずか20キロメートル です。
戦略時に価値のない島ですから米軍もこの島には目もくれていなかった。日本の軍隊もほんの数十名位しか駐屯していなかった。

沖縄に米軍が上陸する前の一週間は 空母や戦艦など数十隻から毎晩のように艦砲射撃が行われていた。与論からは毎晩の艦砲射撃が鮮やかな光となって続いていたのをみることができた。まるで1メートル置きにそれが1キロメートルから 2キロメートル程並んだように砲火を浴びせていた。我々は比較的大きな(多分100名程は、はいれたとおもう)鍾乳洞が避難所であった。
子供たちは一番奥に集められて大人たちは危険がないと判断されたら村へかって行って仕事をかたずけに行っていた。
鹿児島から沢山のゼロ戦が飛んできて敵艦に体当たりして敵艦を破壊したのですが。又燃料が尽きて敵艦にたどり着く前に海に落ちたゼロ戦がたくさんあったと大人たちがはなしていた、のを何回かきいた。このころはゼロ戦の燃料もほとんどなくなってしまっていたのでしょう。
それから毎日のように艦砲射撃の鮮やかな光の軌跡を毎日見ることになった。
艦砲射撃は7日間続けれてその後に米軍が上陸した。
この戦いで日本の軍人および民間人二十万人が命をおとして。米軍もまた一万二千 の軍人が死亡し三万八千人が負傷したのです。尊い人命がうしなわれたものです。
沖縄を占領するのが目的だったし、又与論島の戦略的な価値がないので与論えの攻撃はなかった。
今思うと母が毎日神棚に天照大御神の写真を掲げて毎日のように日本軍の勝利を祈っているのを聞いていた。日本は神の国であった。
何はともあれ子供のころはなぜ戦争になったのかなど知る由もない、ただ 鬼畜米英と言う言葉だけは良くきかされた。

終戦(1945年) の時は6歳でした。そして次の年に与論小学校に入学した。校舎は焼けてなくなっていたので村の人たちが建てた掘立小屋 四隅の柱を地面に立ててそして横棒を通して固定し屋根と壁は萱ぶきであった。
まず学校が始まってから全校の生徒がみんなで浜辺に砂を取りに行ったそしてその砂を床ならぬ地面にまいてその上に座って勉強した。机はもちろんないのでみんな家の人にお願いして空き箱で簡単な机を作ってもらってそれを学校に持って行ってそれで勉強した。
それから数年してからちゃんと床のある教室ができた。
与論小学校では4年生までいて4年生の後半に 名瀬市に移りそこの名瀬小学校に転入した。
奄美の島々は海を隔てて孤立しているので各々が独自の方言を持ちお互い共通したところが少なかった、特に与論と名瀬ではほとんど外国のようだった。名瀬にわたってしばらくは方言がわからなくて苦労した。そのころから標準語を使いましょうと言うことになっていましたが。子供たちはまだまだ方言のほうが使いやすかったようです。

与論では犬を見たことがなかった。名瀬に来てから大きな犬を見てびっくりした。おまけに終戦直後食料難であったので犬達は大変飢えていた。だから目がらんらんして輝き子供なとかみついて食べてしますのではないかと思う程怖かっただから犬を見るとこれは大変だと目を合わせないように犬が通りすぎていくことをひそかに祈っていた。
そんなわけで今でも犬は怖い。

終戦後奄美は沖縄と共に米軍の信託統治となった。日本本土との交通が遮断されました。
日本にはかってに行けなくなったのです。当時は本土に行かなければならない人達はどのようにしていったのでしょう。ビザなんてなかったとおもうし。
大学え行く人や本土に仕事に行く人は密航で島をはなれたらしい。勿論米軍につかまれば罪人になるわけです。そんなわけで島民全員が日本復帰の大運動を展開したのでした。
島出身の詩人の泉 芳郎氏 が先頭に立ってこの運動をもりあげました。
中学生であった私もブラカードを持ち毎回の島民大会に参加したものでした。民族の団結と言うのは大変強いものです、全島の99%が参加した署名運動などもその強さをしめしています。1953年トルーマン大統領の時のダレス国務長官の声明により1953年12月25日にクリスマスプレゼント として奄美が日本に復帰したのでした。中学2年生のときでした。
盛大な提灯行列で島中の人たちが祝ったのでした。
沖縄の復帰はそれからさらに遅れること19年近くになってニクソン大統領の時に佐藤栄作首相との間で日本に復帰することになるのです。
沖縄では戦争中に多くの人が殺されそしてまた米軍の基地を残しいまだ大変な苦労を強いられています。アメリカの基地がどれほどアメリカのアジヤ政策に必要だったかはその後のベトナム戦争或いは中国と台湾の緊張時などで証明されています。そして今又中国との尖閣島の問題を見ても今沖縄に米軍がいることがどれほど助けになっていることか。
しかしとは言っても沖縄の人たちがどれほどこの為に苦労を強いられていることか。
これからの日本の政治はこの沖縄の苦労をどのように軽減していくかが重要な課題ですね。


名瀬では中学校、高校と勉強し、それから東京に出て都立大学で電気工学を勉強し、将来大きな発展が期待できる半導体産業に就職しました。
与論島はサンゴが隆起してできた島なのでハブ(毒蛇)はいなかった。
奄美大島は 古生層の島でハブがたくさん生息していた。ハブの血清ができる前は年間数名の人が死んでいた。だから決して藪の中とか山にはいかないようにしていた。高校3年間で確か一人の生徒がハブにかまれて死んだ。
奄美の中で大島本島と徳之島にはハブがおり喜界島、沖永良部島、与論島にはハブはいなかった。この3つの島はサンゴの隆起してできたしまなのです。だから高い山がない。
東京に出てからはどんな藪でもどんな山でもハブがいないということで大変山に行くのがたのしみでした。そんなので山に魅せられてついには日本中の山を彷徨したものでした。

与論での子供たちの遊びはもっぱら海でおよぐことでした。
魚釣りをしたり貝をとったりでした。
海には沢山の熱帯魚がおよいでいます。我々はその群れの中に糸を垂れて魚が食いつくのを待っているわけです。熱帯魚は美しいのですがちっとも美味しくない。ただ魚を釣ったと言うよろこびだけでした。
サンゴの海は潮がある程度引くとところどころに小さな湖みたいなのができる。この湖を泳いで先のサンゴの上まで泳いで休む或いはそのサンゴの上にあるツブガイ などをとってくるのです。 モリを持って行って岩のなかにいる魚をつくのですが、まずとれないウツボがいるときは怖さが先にたちこれをモリで仕留めるよりは向かってきたらどうしようかと恐れてしまうのが先に立って逃げてしまったものでした。
このサンゴの湖で子供たちは少しずつ泳ぎをおぼえていくのでした。

与論はサンゴの隆起で出来た島なので島中がサンゴの石がごろごろしていました。こんなところを皆裸足であるいていた。足の裏がしっかりと鍛えられてじょうぶになっていたのです。
おばあさんが 草履の作り方教えてくれたので自分の草履を作ってはいていたがすぐすり減ってしますので結局はだしにかえっていく。
足を怪我してもつばをつけておさえておくだけでした。そのうち自然になおっています。
今だと10針位縫わないといけないけがもそのままで海で泳いで消毒して自然になおっていました。
与論は陸から約1.5キロメートル 位までサンゴの岩に囲まれているこの為に船は桟橋には横付けにできない。船と言っても40トンとかあるいは50トンの漁船です。この為名瀬から与論に来る船はおきに碇をおろし、ハシケが迎えに来る、冬などは波があらく本船からハシケに移るのは大変危険なしごとでした。子供のころは身軽だからかんたんにのりうつれたのですが。老人や女性は大変でした。
ある程度の船が横付できる岸壁が出来たのはそれから数十年あとでした。

与論の方言、与論或いは奄美の方言は奈良時代或いは平安時代の古語がそのまま方言として残った言葉が多い。
たとえばこんにちはとは ”ウガミショウラ“ と言うこれは”拝みたてまつる“なのです。
私は今はほとんど方言を忘れています。ありがとうと言う方言をおもいだしてお世話になった田中 教育長に”トウトガナシ“とお礼を言ったら大変喜んでくれてそして島の方言を何とか残そうとして与論の方言で諺になっているのを集めて子供孫たちに伝えたいと努力されています。掛け軸を作りこれを各家庭にくばり子供たちにおぼえてもらおうとしています。
その中の一つを紹介します。

打(ウ)チジャショリ ジャショリ 誠(マクトウ)打(ウ)チジャショリ 誠(マクトウ)打(ウ)チジャシバ、 何恥(ヌンヌハジ)カチュンガ

これは代表的な与論の古謡の一つであり、[打ちだせ打ち出せ、誠を打ち出せ,誠を打ち出せば何が恥ずかしいことがあろうか。否何も恥ずかしいことはない。

英語の説明がある。
Don’t ever be ashamed, if you are sincere and honest.
良いことわざです。是非こどもたちがこれを何時も口ずさんでほしいものです。
昔は論語の一節を唱えながら心に刻んだものです。
“遠方より友来たり又楽しからずや、或いは 、子曰く、徳は弧ならず、必ず隣あり”。

我がこころのふるさと与論島、これからは何回も行きたいですね。



奄美群島



そして 我が人生のマインド マップ