挑戦せよ。平 強 (Tsuyoshi taira)

シリコンバレーのエンジェル投資ブログ

スタートアップ 四苦八苦物語

日本の半導体企業で働いてそれからアメリカのシリコンバレイの半導体企業に移り,半導体のマーケッテングをアメリカで始めました、半導体の技術の発展とともに半導体企業の盛衰を見そしてまたソフトウエアーの会社に関わったりしながら、アメリカのスタートアップの色々な企業と関わりを持ってきました。Venture Capital の投資が一番多いのはシリコンバレイです。そしてBoston , New York など全国に散らばっています、新しい産業が起こるたびに、あるいは新しい技術が開発されるたびに資金が投下されます。日本でそしてシリコンバレイを始め世界中で新しい会社ができてきます。産業の米と言われて半導体産業、そして半導体を使うたくさんの企業が創出されました。Computer 産業、それからSoft ware の企業、Net work の会社、世界の産業は大変膨れ上がって行きます。新しい産業に大学でTechnology を開発した若者たちが次々と次々と新分野に飛び込んできます。半導体産業では Intel 社がIC を開発し、それがComputer に使われて産業の米となってComputer 業界が発展しました。 そして大型computer から、Potable Computer になり、さらにInternet の発展になり、cellular Phone になりと技術は発展しました。さらにはSoft ware の発展に伴い様々なマーケットの交流となって発展していきました。シリコンバレイのStanford 大学あるいはBoston の大学の優秀な学生たちが新しい会社を立ち上げまたインドや中国の優秀な若者たちがアメリカに進出して起業して産業を発展さてきました。

アメリカの発展はこのStart up の会社の成功によって産業がますます発展したのです。それらのスタトアップを育てたのがベンチャキャピタリストです。そして産業が発展することによってVenture Capital の資金もますます大きくなっていきました。今アメリカのベンチャーキャピタの投資額は昨年で50 Billion $(約5兆円) となっています。このお金がほぼ千社に投下されています。そしてうまくいくとBillion $ Companyとなって行きます。Google . Facebook, Amazon, Tesla Motor Apple computer などなど、Europe でもIntel に立ち向かえる半導体メーカArm holding社、などがあります。 Venture Business は魅力的です。ですからentrepreneur たちが 次々とChallenge してきています。しかしその生存率は実に低く千に三つと言われています。でも今日もまた夢を追い求めて若きEngineer たちが立ち上がっています。

Solar Panel のInverter は100watt ほどの出力パネルを数百枚繋げ最後に全体のDC 電圧を交流に変換していました。もし一枚のパネルが壊れたら全ての電源を止めてから一枚のパネルを交換しなければいけなくなります。それでパネル一枚一枚にMicro Inverter をつければ全体のSystem を止めないで修理が簡単になります。それで各社がMicro Inverter の開発始めました。とりあえず小型のトランスを使って製品が使われ普及し始めました。このInverterはトランスを使っているので まだ大きなものでした。スルヤ はトランスを無くする回路を開発しました。このため全体のセットが小さくなり修理が簡単になりました。日本のメーカーが採用したいというのでサンプルを出しましたが、日本の測定器で性能を図るとセットが動作しません。それでスルヤともう一人のエンジニヤを連れて日本で1週間滞在して原因を追及しました。測定器のせいでインバータが発信してしまっていました。なにせお上のお墨付きの測定器なので、この測定器で認証が取れないと日本のマーケとには販売できないという、行政の誤りですね。 残念ながら退散せざるを得なくなりました。もちろんこのMicro Inverter を使うと大幅なcost downになるのですが仕方なく次回のチャレンジと諦めました。
それで日本のマーケットを諦めてUS のソーラパネルメーカーとの商談に変更しました。資金もなくなってもう会社を閉めるほかはないとみんな諦めていました。幸いに大手のメーカーが会社を買収してくれました、スルヤの回路をすぐ使わずにとりあえず従来品の生産を継続してその後で新しい回路に変更しようということになったようです。この会社は確か400−500億の売り上げの大会社でした。これで我が投資もそのうち花が咲くだろと楽しみにしていました。しかし2年ほどしてどうしたわけか会社がChapter 11 になってしまいました。スルヤにどうしたのかと聞いたらなんと経営者が会社の利益が増えように見せるためにせっせと資金運営を行ったためにそれが失敗して大損をしたという。アメリカでよく見かけられる話でした。たとえばエンロンなどの例。全くせっかくのだい大会社を破産させてしまっています。スルヤは自分のPatent の権利だけを買って会社を辞めました。かれは前の会社でMicro Inverter を全てIC 化することによってすごく安く作れる特許を取得していました。捲土重来 次の弾です。また起業するのかな。また立ち上がるとまた加担せざるを得ないだろうな。これがシリコンバレイのネットワークです。 

Soft bank の孫さんがYahoo を率いて日本の通信業界を改革しようとしてInternet box(ADSL) を作り新橋駅前 、渋谷駅前などでただでADSL Boxを配りました。この努力によって日本でもInternet の利用が大きく伸びることになります。さすがの孫さんですね。だからあのように大きな世界企業に育てたのですね。まだまだ頑張ってもらわないと、またArm Holdings を買ったことは大変ありがたいですね。Arm は日本(孫さん)の会社です。半導体戦争にIntel に負けましたが孫さんがArm を買ったおかげでまだIntel と競走できそうですね。 Arm は日本の会社ですね。有効に活用したいものです。

この頃韓国ではADSL の普及が始まっておりADSL 用のセットが大変売れていました。特に韓国はその普及率が高く、Silicon valley のスタートアップがADSL 関連のセットがたくさん売ていました。韓国出身のエンジニヤーが始めた会社のめんどうを見ることになっていました。なにせ韓国のADSL の普及率はすごくて会社の売り上げは急上昇していました。韓国からの注文がたくさん来ていました。売り上げは伸びる一方でした。このころ友人夫妻とYellow stone park に遊びに行っていました。この時業績がいいので 証券会社が上場しよういうことで上場準備にかかりました。旅行に行く前に書類を持って出かけました。とうじはまだ ADSL がまだ韓国のように普及していませんでした、まだFax が通信手段でした。Yellow Stone parkのホテルにはまだFaxがありませんでした2日後に上場ということで楽しみにして待っていました。最後の書類にさいんして今日中にFax しろという。しかし泊まったホテルにはFaxありませんでした。聞いたらYellow stone Park の反対側のHotel しかないという。Fax のあるホテルまで真夜中にYellow stone パークを車を飛ばしてFax のあるホテルまで行きました。途中大きなBuffalo がものすごい速さで走っていきました。もし正面衝突でもしたなら一命を落としていたことかとびっくりしました。やっとFax のあるホテルについて書類をFaxしました。しかし、なんと数日後IPO がだめになったという連絡が入りました。ついにADSL バブルが弾けたのでした。そしてまたひとつの夢が消えて無くなりました。

通信業界はこれを契機にますます盛んになりSilicon valley は次の技術へと移っていまします。Net workの大手がたくさんできていました。Fiber Optics の敷設が急激に進みました。同時に高速のSwitch が必要になりました。Naveen は一緒に起業していた会社が倒産して、浪人を余儀なくされました。かれは次のTechnology はなにかと色々と勉強していました。技術セミナーがあれば全て参加していました。そして発表される Technologyを色色と勉強していました。興味のある技術の発表があれば発表した技術者をおいかけて行ってしてその技術者と議論していました。それでその技術者と懇意になっていました。ネトとワークの技術者、そして半導体の技術は者、ソフトウエアーの技術者、彼のRolodexにはすごい技術者のなまえが登録されていました。2年間の計画の後4、5名の同士が集まりました。それから数ヶ月彼らは Business Model を作成しましたそのモデルは High speed Switch でした。そのBusiness model を持ってナビンは Sand hill村(Venture Capital 村)に出かけて資金調達に行きました。時あたかもブーム到来Venture capitalist の財布が緩んだ時でした。ナビンは数10億円の資金を手に入れました。彼のRolodex の中の大半のエンジニヤが集まってきました。すごいIQ の連中でした。ビジネスプランを持ってその時の超優良Network の会社World com にプランを見せると大変喜んで ぜひ商品を使おというへんじをもらいました。製品は1000X1000 のOptical Switchでした。Memes を用いるものでした。振動のないTable が設置されて製品の開発が始まりましなおすごいExpert が昼夜兼行で開発が進められました。これができればもうBillion$の会社 間違いなしでした。Prototype の100X100のSwitch ができて大騒ぎしていました。しか好事魔多しです。時にLeman Shockが起りましたPotential Customer だった大手の通信会社が先に倒産してしまいました。そのために1000 x 1000 のプロジェとはなくなりました。Naveenは急遽開発の方向を変更しました。 超一流のScientist がいら なくなってしまいました。 その人達にやめてもらいました。業界のtop Scientist たちでした。それで急遽開発の方向を転換をしました。Internet の普及は相変わらずTarget でした。それで方向をFiber to Home に向けdistribution Box の開発です。これにはPON 用のIC が必要でした。しかしIC開発している半導体メーカーがまだ完全なものはできていませんでした。なんとかプロトタイプができてMarket にだしてみました。Fiber to Home わいぽんのfiber から30社のOffice にGiga のNet work がひけるというので次世代の大きなMarket になるとみんなExcite していました。 PON そのものがまだまだ普及してなくて数年頑張りましたが市場は立ち上がりませんでした。NTT にプロタイプを持ち込みましたnotorious なNTT の購買手法に外国勢が締め出しにあってアメリカ政府から非難を浴びた後であったので、公正な評価を期待して見積もりを出したらなんと日本製のものが我々よりも20%やすいという。PONのICはアメリカ製です、値段が20%も違うとは信じられないと公正を期しているのかを購買課長にただしました。日米で問題になった後だったのでそれらしき比較表なものを見せてもらいましたが実際はどうだったかわかりませんが、日本のメーカーの最初は赤字でも出して後から利益をとる形で値段を出したのかと思われる、やっぱり大NTTのMaker えの無限の圧力ですね。でも日米でPON のマーケットは思ったよりも立ち上がりませんでした。残念ながら次の年に会社をClose することになりました。またひとつ夢が消えてしましました。

ナビンはまた彼なりのベンチャ魂を呼び起こして次に立ち上がりました。今度こそはBillion $ Companyをめざしています。Network Securityの会社です 期待しましょう。

マナスはComputer Scientist です、Boston で企業していました。マナスは丁度DRAM がものすごく不足していてみんなが買いあさってすごく値段が上がっているのを見てなんとかmarketを平滑にできないかと考えていました。それでMarket Place を開いてDRAM の値段が安定かするようにできないかと考えてMarket Place をOpen することを考えました。そのためSoft ware を開発しました。アイデヤとしてはChicago Mercantile Exchange の Online 版でした。すごくいいSoft ware でうまくいけば色んな商品を乗せられられるのでいいBusinessができると踏んでいました。しかし2年ほどしたらDRAM の値段が極端に落ちてしまいビジネスとして成り立ちませんでした。

ちょうど1997年ごろに 世界の炭酸ガスの排出量を抑えないと地球の温度が2度ぐらい上がって北極の氷が溶けて大変なことになると国連で議論がありがあり京都で国連の議論がなされてCO2をへらそうおという国際会議が持たれました。日本が中心になって世界各國のCO2削減の目標を設定して頑張ろうということになりました。日本は確か20%削減を目標にしていました。世界核國が真剣にCO2削減に努力していました。日本から時の外務大臣 川口順子(元サントリーの取締役)が頑張って協定を作りました。日本の電気業界は電気機器の効率を上げて改善分をCO2 削減に換算することで目標を達成しようと努力しました、このおかげで日本の電子機器の省エネ製品の開発が進みInverter Motor の開発が大い進みAir Con 洗濯機、などの効率上がり、CO2 の削減が進みました。日本は真面目に電子機器の効率をあげて省エネによってCO2の排出を真面目に抑える方向で努力していました。日本の各社は本当に頑張ったとお思います。
先進国は石炭の使用量を減らしたり、また原子力発電を増やしてCO2の削減に努力していました。
Kyoto Treaty は低開発国に対しては 森林が吸収するCo2 を計算してその等価CO2 吸収の価値を換算して先進国で目標に達しない国に低開発国のこの森林が吸収するCO2を先進国に売ってこの換算分を低開発国の実現分とした。なかなか素晴らしい計画でした。さすがに川口さん達の努力でした。しかしアメリカ ロシアなどがこの協定に参加しなかったことなどで協定は有名無実となってしまいました。そしてさいど作年になってフランス大統領マクロン大統領が Paris 協定を設定しました。
しかしTrump 大統領はすぐさま アメリカはこの協定に参加しないと表明したのです。世界をリードすべき世界第一の国がこの調子なら世界の気象変化をどのようにして抑えればいいのでしょうか。このように世界を無秩序にしていたら人類が滅びることになりますね。世界大国のアメリカがもっとしっかりしないと世界がおかしくなります。マナスはこのCarbon Trading を彼のソフトウエアーで世界に提供しようとしていましたがまだその機にあらずとして次の手を探しました。

マナスはついに 石油を原料にしているPlastic bug, Bottle などを分解させる材料を開発して地上からPlastic 被害を無くする材料を開発しました、やっと世界の最も困っている問題の解決の糸口を掴んだのでした。台湾で数年前にデジ袋を生産していた工場でPhoto Degradable のプラスチクの材料の生産を始めました。鉱石から粉を作り、さらに植物繊維から作られるスターチなどを混ぜてプラスチック製品を作ると太陽光の紫外線で分解するプラスチク製品が作られました。また地中に埋められたプラスチクは 地中にあるバクテリヤによって分解されるものです。これでやっと世界ちゅうからプラスチクのゴミを処理することができます。海の魚が、亀が、クジラがプラスチクを食べて死なないようにすることができるのです。環境汚染がこれで改善されればやっと100年にも渡ってなくならない海洋の汚染をなくすることができます。マナスと20年にわたって努力したEntrepreneurの夢が実現しそうです。

相変わらず次の夢をおうアントレプレニアーたちは後を絶ちません。これまでに20社近くのアントレプレニヤーたちと夢と失望を共にしてきました。Technology はますます進歩しています。AI 全盛時代。物創りも進化していきます。ガンとの戦い、Pandemic との戦いまだまだくさん資金が必要です。日本の企業もこれかの若きアントレプレニアたちにたくさんの資金を投下してほしいものです。

ふるさと

ふるさとはとおきにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて
遠きみやこにかえへらばや

ふるさとは 我を忘れていなかったのです。故郷の地にいくとしすぎて尋ねてみればやっぱり故郷は我を快く迎えてくれたのです。

明治150年を記念して鹿児島県が 世界全国で活躍している同郷人を招待して鹿児島県人世界大会を 開催していただきました。なんと全世界から300名以上の方々が参加しました。また “せごどん”の映画のおかげで明治維新がどのようにして成し遂げられたかがよく喧伝してくれていました。あの幕末の、西洋の脅威からよく国を守り、また文明開化に向けて民族の力を結集して封建社会からの脱出できたことか。“せごどん”の映画がよく描き出されていました。いつの世でも改革を目指す若きちからが発揮されています。

その中でも武士の世界の権力者にも先見の明を持った人がいたものです。久しぶりの鹿児島の訪問 桜島を眺め 鹿児島湾を見るにつけ、 薩英戦争を思うとき危機一髪だったのだなあーと思う。鹿児島湾奥深くイキリの戦艦が攻め込まれ比較にならない火力で街を焼き尽くしたはずです。性能は悪い大砲といえどもイギリスの軍艦を2隻撃沈で来ればこそイギリスの戦艦がびっくりして逃げていったのです。 薩摩はイギリスの植民地にならずに済んだのです。 しかし 島津斉彬の様な先見の明を持った藩主があればこそ前もって 反射炉などを作り大砲なども作っておいたから、かろうじて薩摩がイギリスの植民地にならずに済んだのです。大久保利通を演じた 瑛太、素晴らしい演技ですね。かれは薩摩にいる時から東京に移ってからも彼の表情は全然変わりませんでした、大久保の性格をあの表情で表していったのですね。西郷と大久保利通の友情は素敵でしたね。最後には結局大久保にやられることになるのですが。歴史の進展とともに仕方ないことですね。ただただ西郷隆盛は大人物でしたね。数回にわたる奄美大島への島流し、その度に漢籍を行李にたくさん詰めていきそれが西郷を大人物に育てたものと思われる。奄美大島龍郷に島流しにあった時に中国に留学していた岡程進儀にあい漢籍を教えてもらったのが大いに人間を磨かれるきっかけになったものと思われる。艱難なんじをたまにする。ですね。最後には薩摩の若き青年たちの新政府への不満に押されて西南戦争に赴かざるを得なくなってついに鹿児島城山で自決することになったのですが。西郷の教えは かって西郷に温情をかけてもらった庄内藩の人たちが西郷の教えを西郷隆盛遺訓として出版して全国を行脚して配ってあるいたのだそうです。

幕末押し寄せる欧米の脅威、尊王か、攘夷か、各大名は 藩の財政の立て直しに汲々としていたのではないでしょうか。日本の将来を愁える若者たちが国を救うにはどうしたら良いのかを真剣に考えて動いたのですね。坂本龍馬の改革への燃えるような思い、また改革が必至と心にかけていた 勝海舟、幕臣でありながら坂本龍馬たちを鼓舞し来るべき時代への心構えを説いていたようです。

薩摩、長州の若き改革者たちの努力によって明治維新がなされたのです。薩長連合ができまでの色々な葛藤。薩摩と長州の葛藤 しかしのちに薩長連合ができて初めて大政奉還がなされてなんとか内乱にならずに徳川幕府が自ら政権を天皇に奉還して明治の世になったのです。“せごどん”の中で 桂小五郎と 西郷の葛藤など 西郷はじめ薩摩志士たちがが 桂小五郎に頭を下げるシーンなど 歴史の一編として危ない時期でしたね。何れにしても危ない橋を渡りながら歴史が進んでいくものです。西郷さんの偉大さを知らしめせせる“せごどん”の 大河ドラマでした。

歴史の変わり目でいろんな変化、などが起こり、それをうまく乗り越えないと大変な苦労を強いられたり、戦争が始まったり、してしまします。第一次大戦の大変な惨状。第二次大戦。 そして日本の敗戦、 どう見ても勝てる戦でもないのに何故戦争を止められなかったのか。 資源のない国がよくもあのような戦争をしたのか。どうして止められなかったのか、若き志士たちがいなかったのか。幕末から明治にかけての危なかた時期をよく持ちこたえた日本、大いに参考にして勉強する必要があったと思います。

変化に対する対応が必要ですね。中国にしても毛沢東時代から の改革がよくもここまできたものと思います。鄧小平の登場から よくぞ資本主義経済に移行できたことか。このまま発展していけるのか。あるいはもう一度革命が起こるのか。

トランプ政権の 処構わぬ政策施策で世界はこのままでいけるのか。経済に対する影響は大きな不況がこないといいのかですが。

インタネートの現状を見るにグーグル、フエイスブック が広告だけで莫大な利益を上げてそのお金で技術のある会社を買いあさって次に技術を抑え込もうとしています。さらにテンセント、アリババ、あるいはアマゾンが リーテイルの 分野で大きな売り上を上げて利益を上げています。だんだんと物を作る会社がなくなっていくような気がします。働いて給料をもらう会社がだんだんとなくなってしますのでは。一億総こじきになる可能性があるのでは。もう一度一次産業の復活果たさないと、一億総、乞食、になってしまいます。一次産業を復活させないといけないが。今こそ農業を 活性化しないと。 一次産業にもっと投資をすべきです。投資が、金がすぐ儲かるところだけに投下されすぎています。

故郷はいものですねまた 奄美の歌声はわが心に響き郷愁を誘うものです。
みはうらぶれても、故郷は我を忘れていないのです。

世界各国からの帰国者を集めて故郷への思いを皆が語り合いました。

西郷隆盛の墓、私心のない、天を敬い、人を愛した大人物でしたね。

盛大な花火祭り

鹿児島県人会 おはら節の披露 Chimmy sanの嬉しそうなひょうじょう、指宿まで足を伸ばして砂風呂に入ってきた。 砂の上に寝てその上から温泉で暖められた砂を体の上にかぶせて蒸し風呂にする、一度は入ってもいいものでした。

そして次の日に知覧の特攻隊の飛行機基地の展示館を見にいった。特攻隊の若き隊員たちが旅、発つ前に家族に友人に、恋人に寄せた手紙がたくさん展示されていた。死を前にして、自分の死を見つめて、死を一つも惜しまない気迫が迫っていました。そして自分の死が家族を守るのだという一念のみが語られていた。特攻隊の若き青年のみならず戦争に出向いた青年たち、壮年たちどの人たちも、家族のために、国のために戦うのだというすごい思いがひしひしと伝わってくる展示でした。知覧の食堂で 若き特攻隊員の母代わりをした“うめ”さん の話など涙が止まりませんでした。特攻隊員が沖縄で死んでそのあと蛍になって知覧に帰ってくる話など涙が止まりませんでした。

日米対戦、硫黄島の戦い、そして2度にわたる原爆投下、なん数十万の人が一瞬にして殺されてしまう。なんであのようバカな戦争をしたのか、もうこの地球上から原爆はなくしないといけないです。広島の原爆記念館、そしてまた沖縄のひめゆりの塔。世界から戦争を無くしないといけないですね。世界の人たちは広島、長崎の原爆記念館を是非見て欲しいですね。

もう秋でした。やっぱりあのカラマツの色ずいた黄色を見たい鹿児島からの帰りカラマツを見に 妙高で仕事終えて、小海線乗った、野辺山で降りてカラマツの中の旅館に泊まった。野辺山の隣の駅 松原湖から北八に登るところに上智大学の山岳部のヒュッテがあった、そしてその壁に カール プッセ の詩、 Uber Den Bergen———がドイツ語で壁に書きつけてあった、 (山のあなたの空遠く幸い住むと人のいう)、八ヶ岳に登るときはいつも、Sophia Hutte は今どうなっているのだろうかと思っていた。 今はもうないかもしれない。

カラマツ林は 素敵です。
やっぱり北原白州の詩が必要ですね。

落葉松林


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。

野辺山駅の前で。(日本で一番高いところにある駅)
カラマツの林に囲まれた旅館で一息つきました。
カラマツは、寂しかったけれども、嬉しかった。

Uber den Bergen
Karl Busse

Uber den Bergen weit zu wandern

Sagen die Leute, wohnt das Gluck.

Ach, und ich ging im Schwarme der andern,

kam mit verweinten Augen zuruck.

Uber den Bergen weit weit druben,

Sagen die Leute, wohnt das Gluck.

日本で一番高いところにある駅(野辺山)

西郷隆盛(せごどん)の面白さ。

NHKの西郷どんを楽しみにして時々見ています。

特に今、西郷が3度目に島流しされた沖永良部島は我が与論島の北32km にある島でありほとんど我が与論島と同じような環境の島です。あの美しい海は与論の海と同じです。奄美群島の喜界島、沖永良部島、さらに与論島はサンゴの島で
珊瑚が隆起してできた島です。鍾乳洞が各島にあります。我が家の庭先から鍾乳洞が海までつずいているようでした、そこまでの探検はしていませんが。珊瑚の隆起でできた島なので、これらの島にはハブはおりませんそれに比べて奄美本島と徳之島は古生層の島でハブがいます。与論島は沖縄本島の北わずかに23kmの地にあり実際手漕ぎのボートでいけそうな距離です。与論島は周りわずかに23km の小さい島ですがFull Marathon の競技も行われているとか。この小さい島ですが、子供の時、小学校まで歩いていくときのとういこと、そして遠足に行く時のすごく大きな島にいた感じでした。年すぎて‘島に帰って車に乗せてもらって一周してもらったらなんと40分で回ってしまった。子供にとっては大きな島だったのですね。1951年San Francisco 講和条約が締結されて日本が主権を回復されましたが、沖縄と奄美大島はアメリカ軍の信託統治となり日本から切り離されてしまいました。とにかくソビエットの共産主義の脅威がすごくまたベトナム戦の勃発などでアメリカとしても沖縄の基地が重要であったのですね。だからその後21年間もの間沖縄の返還が遅れたのです。

奄美では日本が外国になり自由に日本にいけなくなりました。日本の大学に進学したい青年たちは漁船に乗って鹿児島まで密出国して大学に行ったものでした。

その後島全体の民族運動で1953年12月25日にやっと日本に復帰することができたのでした。沖縄はその後21年もの間米軍の信託統治におかれ大変苦労させられています。米軍の沖縄上陸で日本人18万人アメリカ軍人1万2520人の犠牲者を出したのです。沖縄の摩文の戦争記念館を訪問すると、本当に心が痛みます。大勢の若き高校生と島民が鍾乳洞の洞窟で殺されています。日本人としてぜひ一度は 訪ねて欲しいところです。もちろん広島長崎の原爆記念館を含めて。

珊瑚できた島。喜界島、沖永良部、与論島は船から見るとまるで標高10メートルぐらいの島に見えます。いつも冬に名瀬から与論に向かう小さな連絡船にのって沖永良部世論島を見るにつけ思うのですが。台風の時などは波が島全体を超えてしまいそうな感じです。ちなみに与論島は標高97メートルです。しかししまの人たちがあまりにも低いからといってみんなで3メートルほど盛り土をして標高100メートルにしたそうです。一方、沖永良部は240メートル の大山があります。また喜界島は211メートルの丘があります。

西郷さんが沖永良部でサトウキビの収穫と砂糖作りのシーンがありました。サトウキビの葉を落としてそれを圧搾機にかけるのです。圧搾機を回すのに長い棒を機械の回転ぶに入れてその回転部分を牛に引かせて回転させます。牛は一日中絞り機の周りを回っています。一人が圧搾機の後ろに座って次々にサトウキビを絞り機にかませていきます。子供の頃にこの牛追いの手伝いをしたことがありました,絞り汁を集めてから、その砂糖液を 沸騰させて、固まらせて黒砂糖ができます。砂糖のない 当時、黒砂糖は世界中で貴重品だったことかと思います。だから琉球にそして、そこから中国、欧米に売られたのです。大変高価に取引されたと思う。だから薩摩の財政が豊かであったのです。徳川幕府の諸大名のコントロールのための手段参勤交代あるいはまた薩摩藩に課された 宝暦の治水工事などの多大なお金がかかったけれどもその財源となったのです。また薩英戦争のための守備のための砲台ずくり軍艦の買い付けなど様々な費用がこの奄美の黒砂糖のおかげで賄われていたのでした。薩摩の役人の呵責なき島民いじめは正義感に溢れた西郷は怒りを感じて歯がゆい思いをしたのです。

数年前に奄美大島龍郷出身の大江修造 東京理科大学教授にお会いして彼が書いた“明治維新のカギは奄美の黒砂糖にあり“という本をいただき薩摩がどれほど奄美の黒砂糖でその使命を果たすことができたかあるいは明治維新の資金源となったかを知ることができて、奄美の人たちの貢献を誇りに思いました。我々の祖先が明治維新の力になったということで誇りに思いました。しかし農民の苦しみは並大抵ではなかったのです。西郷さんがどれほど怒りを感じたことか。
 
西郷さんはその性格は生まれつきの正義感を持ってうまれた人物だったのですね。彼が3回も奄美大島に島流しにあったことがまた彼の人物を一回りおおきくしてのではないかとおもいます。人はその一番苦しい時に、鍛えられるのだという。そしてまたその時にいい出会もあったのです。

西郷さんが島流しにあった奄美の島々。

私は世論じまに生まれて小学4年生の時に奄美大島の名瀬という街で中学高校を出ました。

西郷さんが奄美の龍郷に島流しにあった時そこには支那から帰って来ていた岡程進儀に漢詩を習い漢籍の指導を受けたことが自分の修養になったのでした。その後徳之島沖永良部島への島流しのたびに行李いっぱいの漢籍を持ってじぶんの修養に勤めてさらなる人物に成長したのです。特に朱子学、陽明学からの影響が多かったようです。西郷の行動は大義名分そして正義感にもとずくものが多く見受けられます。いにしえから支那の聖人たちの書籍はその後の人たちに大きな影響を数千年に渡って与えつずけているのです。孔子であり孟子であり、王陽明であり、数千年の長きにわたり人びとを導いてくれたのです。これらの古典がまた西郷さんを導いてくれたのです。だから西郷の残した言葉は実に人間としての修養から滲み出た言葉が出ています。曰く

郷さんのこの書は京都の日光ホテルの受けつのところに飾っています。

そしてまた、「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」「児孫のために美田を買わず」さすがに利他の心ですね。「己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ」流石に明治の国を作った人たちの心構えですね。私腹を肥やさないことですね。明治の偉人渋沢栄一も “論語と算盤”の本で商売の本質は国をとますことである、といっています。
だからあれだけ多くの銀行を作り会社を作ったのですが。自分は何一つ利益を受けることはなかったのです。

•「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」

江戸城無血開城をはたした山岡鉄舟、薩摩藩士、一人を連れて並み居る官軍のなかをくぐり抜けて西郷にあい無血開城を実現させた山岡鉄舟を評して西郷はこう言っていす。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」山岡鐵舟はその後 明治天皇に使えて日本の発展に力を尽くすのです。英雄は英雄をしるのですね。維新で世の中が大きく変わる時、世のため人のため利他の心を持って  活躍した人がたくさんでています。そしてその人たちがお互、意気に燃えて世の中を変えていいたのです。 この維新の頃に 世のため人のため活躍してくれた先達がたくさん出て国のために頑張ったのですね。坂本竜馬、海援隊を作り外国からの脅威に備えようとして頑張っていました。幕府軍艦奉行の勝海舟は龍馬のことをよく面倒見ていました。そして薩摩、長州の仲を保つためによく働いています。幕末の尊王攘夷、倒幕、そんな、中で、良く幕府を倒さないで、大政奉還に持ち込み、江戸城の無血開城に成功し、政治を正道に戻したことか、徳川慶喜もまた 西郷との交流で 危うい将軍家をうまく持ちこたえさせたものです。徳川300年の歴史、侍がその矜持を持ちつずけたことで外国からの圧力をはねのけて偉大なる明治維新が成功されたのですね。これは一つには教育(寺小屋教育)あるいは姉弟を教えた若き指導者の賜物かと思います。戦後のマーカサー による教育改悪によって日本の良さがどれほどなくなったことか。日本は元の良き教育を取り戻さないと、生きる活力さえうしなわれていくのではないでしょうか。
 
西郷さんの利他の心、鹿児島市の出身である京セラを作った稲盛さんは子供の時から西郷さんにしたしんできたものと思います。故郷の大先輩の教えは身につていたのですね。稲盛さんは西郷さんを尊敬してやまなかったのでしょう。そして利他の精神が身にしみていたのでしょう。

稲盛さんは 素晴らしい方ですね。日本の通信料金が世界各国よりも大変高いことを心配されてこれでは日本は世界と太刀打ちできないと思い若きエンジにヤーとともにKDDI を作ります。NTT こそ国の恩恵を受けているはずですから料金を安くして日本経済に貢献すべきであるはずなのにその公共性を発揮してくれなかったのです。利他の心が少しでもあったら、もっと日本経済に貢献できたはずですが。

それに対して一小企業のKDDIが自力で回線を立ち上げるのですから 大変な苦労だったと思います。 

その後稲盛さんはJAL が破綻した時政府の要請を受けてJAL の再生に参加します。たった2名の部下を連れてJALに乗り込んだのです。従業員3万人、そこにたった3名で乗り込んで行ったのです。戦国時代 3万名の敵陣に対してたった3名のサムライが戦いを挑んで勝ったのに等しいです。稲盛さんは僅か2年余りでJAL をたてなおしました。これこそ利他の心あればこそできたのでしょう。従業員の意識改革だけでこの大会社を立ち直らせたのです。これからも利他の心で益々日本経済に貢献されていかれることと思います。

潮が引いたら沖に砂浜が現れる百合が浜武家社会を思うときやっぱり平家のことを思い浮かべます。
平家は福岡の壇ノ浦でついについに滅びてしまいます。大勢の平家の武士たちがあちこちに落ち延びて行きました。鳥取県の山の中に平家村というのがあり大勢の平家の落人がこのむらに住んでいました。ここの平家村のひとたちは名字を“平家”と名乗っています。三洋電機の鳥取に働いていた優秀なエンジニアーに平家君がいました。こちらは正真正銘の平家の落人の子孫になります。多分壇之浦から遠い奄美にも落ち延びた人たちが多くいたのだと思います。私の“平”姓は 世論島では2軒でした、我が家には平家にまつわるものはありませんでした。明治になって苗字を許されて勝手に平、性を名乗ったのかあるいは平清盛の悪行に遠慮して平家の子孫であることを隠していたのか黙っていたのか。沖縄には“平良”の姓が多いです。また鬼界島にも平家の落人が渡ったという話もあるので世論じままで流れた人もいたのでしょう。人には平家の子孫だと言っています。武士の流れのものだと気持ちがいいし頑張らなくちゃいけないと思っています。You Tube で三波春夫の 平家物語を琵琶法師の伴奏で聞くことができました。物悲しく平家の凋落を語る素晴らしい曲でした。一度聞きたいものですね。琵琶の音も素晴らしい。こんな楽器もあったものですね。“西郷どん“を見て故郷に思いを馳せました、故郷を思い出しました。来年は島に帰って墓参りをしようと思っています。

Andy Matsui さんのこと

西郷さんは「児孫のために美田を買わず」

と言っています。流石に公に仕えた人の言ですね。 
松井さんも流石にこの教えを実行された人ですね。今回の20Million$のCommunity えの寄付も素晴らしいですね。また松井さんの全てのお子さんは親の厄介にならずに全部自分たちの努力でハーバード大学を優秀な成績で卒業され、そしてまた実業についてからも大成功されてさらに父親以上にPhilanthropyを実践しています。次女のKathy Matui san はBangladeshiの女性の大学に多大の寄付をししかも総長としても活躍されました。親の背中を見て育ったのですね。青木財団の長野の中学生から日本の総理大臣をというProject で中学生がCalifornia を訪ねた時に松井さんのナーサリーを訪問させてもらいました。子供達は大変感激していました。この子たちの中から第二の松井さんが、あるいは日本の総理大臣が出るかもしれませんね。今松井さんは病気のためペブルビーチの自宅でおくさまと療養中です。残念です、しかし子供達が父親の背中を見て素晴らしい人生を送っている一例として素晴らしい生き方をして、利他の心を、我々に教えていただいたことに感謝したいです。

Los Angels times の記者、Steve Lopez さんが松井さんのことの 手記を載せています。せっかくなのでその記事の一部を無断で掲載させてもらいます。

In Salinas, the Matsui family is known for its orchids and its life-changing generosity

By STEVE LOPEZ

AUG 01, 2018 | 3:00 AM
| SALINAS, CALIF.

Theresa Matsui at her family orchid farm in Salinas. (Steve Lopez / Los Angeles TImes)

In mid-July, the Matsui family wrote another check.Nobody who lives here, in what is referred to locally as the nation’s salad bowl, is surprised when this happens.

Andy Matsui and his family are known for two things: Growing orchids by the thousands and giving away money by the millions.The latest donation, $500,000, was given to the Natividad Foundation for a new public hospital pharmacy that will serve patients with cancer and other chronic diseases.

I asked Hillary Fish of Natividad about Andy Matsui’s legendary giving. “I can say I really love him,” said Fish, who used to work at Matsui Nursery. “I think he feels like he has lived a wonderful life and he has the means to be able to help others, and he wants to do that. ”Last September, the Matsui family foundation donated land to Hartnell College in Salinas, to use however the school sees fit.The gift was valued at more than $20 million. And since 2004, the family has given about $8 million in college scholarships to Salinas-area high school students who might not have been able to afford college otherwise.

長野の中学生から日本の総理大臣を出そうとの青木財団の平成の咸臨丸の訪米団の子供たちたと。

僕の命は言葉とともにある。 – 福島智

縁あって福島智さんに東大教授の児玉先生宅でおあいする機会がありました。「盲ろう」の人に会う、一体どんな話をすればいいのだろうかと心配しながら児玉せん先生に聞いた。先生曰く普通に話していいよとのこと、先生は盲ろうの人の中にもいい人と悪い人がいるよね。などと話しているそうです。それならなんでも話していいのだと気が落ち着いた。
目が見えないことを想像してみる、映像の世界から閉ざされている、耳が聞こえない、静寂の中にいる、想像して見ても、大変な世界だ、その中に生きるとは、どんなものだろうか、とても恐ろしい世界に思われる、いつも孤独が襲ってくるような。

福島先生の声はちゃんと普通の声でいらっしゃる、18歳まで話されていたのでそれが持続されているらしい。それが18歳で耳が聞こえなくなって盲ろう者になった。どうも我々は映像で人のイメジをつくっているらしい。あるいは事象を映像で記憶しているらしい。お会いしてまず聞いて見た。先生は初めてあった人をどんな感じで記憶にとどめていますか。と質問してら返事がなかた。また2回目にあったらどんな人だったか覚えていますか。と聞いたらこれにも答えがなかった。言葉がすべての世界なのでイメイジの様子がないかも知りません。そのうち指点字で翻訳してくださる奥様ともう一人の通訳を通して勝手にいろんな話が飛び交って行きました。そして誰かが冗談をいうと一緒にみんなで大声で笑いました。

児玉先生の奥様の手料理をいただきまた寿司もご馳走になりました。福島先生は健啖でいらして児玉先生の奥様の手料理をおいしい美味しとたくさん召し上がりました。先生は指点字での会話に神経を集中されてすごいエンゲルギーを使われているような気がします。通訳されている奥様もすごく神経を集中されていました数名の話を全部通訳されているようです、ですから数分で通訳を交代していました。

黒沢明監督の往年の名画、影武者、乱、などで名脇役をつとめられた、油井昌由樹さんも来られており、黒沢芸術の一端を撮影現場の状況から説明していただいてあの名画が作り出されたのだと思って大変感激しました。台風のシーンを撮るのに実際に台風が来るのを待って撮影したらしい大変こりたかたですね。台風に向かってセリフを言うのだそうですが。雨が直接喉の方にあたるのでセリフが出てこなかったそうです。油井さんは馬が好きで随分世界のあちこちでいろんな馬を乗りこなしたそうです。時代劇の戦闘シーンで馬をどこで止めるかを一生懸命に調教して本番で敵の大将のまえで急停止すときのこつなど、黒沢監督のこりしょうとそのスタッフの苦労が目に見えるようでした。油井さんは夕日が好きのようでロスアンゼリスからサンデゴへ行くときの夕日が世界で一番素晴らしかったと、またモンゴルで見る夕日も素晴らしかったと まるで夕日の旅人みたいなロマンを語ってくれました。ジョン、フォードの西部劇を見る様な感じでした。

帰りに福島先生の書かれた“僕の命は言葉とともにある”をいただいた。先生の直筆のサインがあり感激でした。カリホルニヤーに帰る飛行機の中で我を忘れて読みふけった。視聴覚を失った人の凄まじい生き方を、もう身動きもできないで読みふけっていました。目の前にすわったスチュワデスに本を指してこの人にあったのだよと自慢してあなたも読んだ方がいいよとリコメンドしました。先生はたくさんの本を読まれている。点字で読まれるのでそのスピードは普通の人の半分のスピードのようです。だからたくさんの時間を使ってよんでいらっしゃるようです。

私が北方謙三を読んだのはあるとき新聞の広告で 楊令伝、だったか、楊家将のベストセラーの宣伝だった。楊令伝 は中国の部族間の争いそれも騎馬隊の戦いが主な内容でした。数十騎の騎馬隊が100綺もいるいる群れに突っ込んで一気に相手を乱して勝利するもので、親子、兄弟愛、そして部族愛などが織り成す大スペクトラルな物語でした。場面がすごいまるで数秒の差を見事にかわして敵をケチらせて行くのでその様子は爽快でした。なお中国の中のある場所の地形かと思われますが日本のある場所の地形の様にも思われました。描写が生き生きしていて草原の傾斜後ろの山そして崖の様子などみごとなものでした。それからずっと後になってから三国志、水滸伝を読みまたその壮大な展開に我を忘れて読みふけったものでした。北方謙三さんはすごい作家ですね。福島先生と 致知での対談も素晴らしかった。よく山に行っていたので陽伝玲のあの急斜面は確か 北八あたりにそっくりだなあといつも想いをだしていました。

福島先生は実に洋の東西を問わず色々な作家の本を読まれていた、トルストイの戦争と平和、カラマゾスの兄弟あるいはパスカルなど読みふけっておられています。そしていつも行う対談の中にこれらの本の中身が引用されておられます。

先生が幸せとは何かということにつぃて。幸せとは 自分の背中を ある時間ののちに後ろから見てそのときしあわせだったのだと言うという思想家の 吉本隆明さんの言葉にあってそれに共感されていました。人間は後ろに目がないから一度幽体離脱して自分を見るということのようです、なるほどと思いました。

福島先生は東京都立大学の出身と聞きびっくりしました。わたくしは電気工学ですが。なんだか後輩を見つけて大喜びでした。こんな素晴らしい後輩がいるなんて嬉しかったですね。そしてすごく誇りに思いました。

我々はいつも起業家とともに日夜苦労していますが。やっぱりコミニケーッションが一番大事なのですね。火星人は地球の人たちとコムニケイッションしたくてたくさんの信号を送り続けているようです。だから空飛ぶ円盤が現れたり ETが地球にきたりするのですね。先生もET が好きで、またそのうちに宇宙に行きたいとおっしゃっています。宇宙を相手に考えておられるイーロンマスクに頼んで火星探検に参加されたらどうでしょう。先生なら火星人とコムニケイッションできるのでは。

今回湯河原で中健次郎 先生の気功合宿にいつもの仲間たちと 参加しましたが。 先生は自分を無にして宇宙とつながりなさいそうすれば大きな宇宙がしかりと支えてくれてブレない自分が作られるという。それが気功のエッセンスなのだと思いました。宇宙につながっていれば微動だにしないですね。ですから先生を押せども引けどもしっかりとちについています。

平熟、中健二郎先生 気功合宿の延期についてのおしらせ

数年にわたって起業家の皆さんと起業家の苦労、これからどう展開するのかなどを夜を徹して議論する会を持って来ました。その頃私が出会ったのが中健二郎先生の気候合宿でした。中先生の習得された中国の仙人が教える気功でした。先生はその後さらに修行を積まれてインドの聖者を回られてさらなる極みに邁進されています。インドのマザーテレサの元での修行、さらには聖者サイババとの面談などそんな話を聞き大変刺激になっていました。そんなわけで先生にお願いして我々の平塾を先生の道場で毎年おねがいしていました。いつも3月の中旬に1泊2日で行なっていました。今回は残念ながら私が体調を崩し日本行きを4月の初めに伸ばした関係で中先生のスケジュうるが合わなくなりました。さらに中先生もさらなる魂の探求にインド、ネパールの各地のコムニテーでのくんれんに数ヶ月の予定で訪問されていますので今回楽しみな 中先生の道場での合宿は延期します。またいずれかの日に再開しますのでそれまでお待ちください。中先生の魂の旅がインドかく地で展開されています。先生の訪問先での記録そしてそこに参加されている人たちの思想哲学などそして心の安らぎを求平和な社会を作る努力などの感想を寄せてもらいましたので先生の許可を得てここに掲載させていただきます。来年あるいは今年の後半にでもまた平塾を再開したいと思います おまちください。中先生貴重な体験談ありがとうございます。またよろしくおねがいたします。

中先生からの 便り。


私は1月27日より、南インド・ポンディチェリーの郊外にあるオーロヴィル(聖者オーロビンドの霊的パートナーであったフランス人のマザーが作った共同体)に来ています。スペインで私の講習会を開催してくれた友人夫婦がここに住んでいて、色々と案内して貰っています。ここでは、世界52ヶ国から来た2500人もの人々(インド人が約1000人)が霊性を高めながら、平等かつ平和に暮らしています。面積はおよそ20平方キロで、学校は幼稚園から高校まで10校あり、ホリスティックな医療を取り入れた医療施設も整っていて、ヒーリングセンターもあります。ここの皆さんは意識が高く、交流するだけでいろいろとインスパイアされます。もちろん農業もオーガニックで、50年前には荒れ地で砂漠化していたという広大なエリアが素晴らしい森と畑に生まれ変わっていました。何と今までに300万本もの木が植樹されたそうです!オーロヴィリアン(オーロヴィルの住人)以外にも、インド各地から若者たち(建築科の学生)が自然な家造りのためにインターンに来ていたりと、とにかく活気があります。青年たちの純粋さと情熱、そしてクリエイティブな力に圧倒されます。男女一緒に明るく楽しそうに働いていて、ここでの実習が大学の単位として認められるらしいです。日本でもこのようなシステムができると素晴らしい若者が育つと思いました。オーロヴィルは今年50周年を迎え、その式典にはモディ首相も来られるとのことです。さすがはインド、政府もずっと予算を割き支援しているのです。 シュリ・オーロビンドは、お若い時にインド独立のために奔走され、拘置場に拘留されていた時にヴィヴェ・カーナンダ(聖者ラーマ・クリシュナの弟子、宗教家、ヴェーダンタ哲学の真髄を欧米に伝え、岡倉天心とも深交があった)との出会いで、政治から霊性への転換が起こり、悟りを開かれた方です。マホトマ・ガンディーにも多大な影響を与えられました。ポンディチェリーにあるシュリ・オーロビンドが晩年お住まいになっていた住居を案内していただいた時は、その崇高な意識とエネルギーを感じ、魂が震えるほど感動しました。何かがダウンロードされたような感じでした。

人々と地球の霊的進化のため、自主的に生き生きと働かれていらっしゃるオーロヴィルの方々、それぞれがユニークで、しかも経済的にも自立していて、一人一人の生命が内なる喜びで花開いているように感じました。色んな問題を抱えながらも、実際に行動に移している姿に心底感銘を受けました。

福岡正信さん式の自然農法をされている方やダウジングで土地や建物のエネルギーを整えていらっしゃる方にも出会え、毎日が感動の日々でした。ヨットで世界一周した後、持続可能な社会の必要性を感じ、オーロヴィルに移り住んだと言う方もいました。ここのスーパーでは食べ物や洗剤等もオーガニックなものを安価で買え、オーガニックレストランも何軒かあり、太陽光やバイオガスによる発電・風力による地下水の汲み上げシステム等、全ての面でエコに徹しています。
ここでは、音楽をはじめとする様々な芸術・ダンス・ヨガ・合気道・乗馬等自分の才能や持ち味を皆とシェアすることが自然に行われており、私もインターンの大学生たちに為に気功講習会を開くことができました。体調の悪い人へのアドバイスと治療もさせていただけ、ハートが満たされました。オーロヴィルにあるチベットパビリオンにも行ってみました。チベットの文化を伝える施設で、15才でチベットから亡命して来た一人の女性が作ったものです。ダライ・ラマも3回来られたとのことで、ダラムシャラのチベット孤児たちも冬休みの間、こちらに滞在しています。オーロヴィルで、国家や民族を超えて互いに理解し合っている姿を観ると、世界平和の雛型がここにあるような気がします。始まりは、マザーことミラ・アルファサ(Mirra Alfassa)女史の『ドリーム』でした。日本でも、日本の霊性文化を取り入れたこのようなドリームが具現化すれば良いのになと切に思いました。ちなみに今回お世話になったY さんは、このマザーの『A Dream 』という文章に触れ、スペインでのすべての仕事を投げ打って、ご主人とここに移住する決心をされたそうです。オーロヴィルの良さは、創始者が亡くなっても、勢いが衰えることなく、益々発展しているところだと思います。普通ならば尻すぼみになりそうな活動ですが、逆に場所も広がり、住民も増え続けています。純粋な動機と地球にとっての必要性があるからだと思いました。最近、シュリ・オーロビンドのご本「インテグラル・ヨーガ」(発行:アルテ)を借りて読んでいますが、オーロビンドの説かれたエッセンスが書かれてあり、その宗教哲学の深さには心を打たれるものがあります。彼の文章は非常に難解で、日本で何度か読もうとして途中で諦めていたのですが、今回は彼の伝えたかったことが、スッと入ってきます。

2月4日のフライトでここを離れる予定でしたが、ふとしたご縁で、2月4日からオーロヴィルの近くにある『Sri Vast アシュラム(道場)』でリトリート(静修)に入りました。その後2月11日に出るつもりだったのが、覚者Sri Vast さんから「もう少しで全てのチャクラが整うから、滞在を15日まで延長しなさい。費用はこちらで持つ。」と言われ、今その流れに従っています。日本を出る前に予約していた次の目的地へのエアーチケットとホテルはキャンセルとなりましたが、魂は神の計らいを喜んでいます。こちらでは霊性修行以外にトリートメント(ここではプロセスと言う)を受けることもできます。それらは各チャクラに働きかけるもので、アーユルヴェーダのハーブやオイルを使って二人がかりで特殊なマッサージをします。シロダーラのように温めたオイルを垂らしながら、7つのチャクラを優しく刺激することもあります。毎朝4時から瞑想、6時からインナー・ヨガ(内なるエネルギーを整えるソフトなヨガ、ワニになりきって砂場を這う運動もある)を行い、時々サットサン(覚者との清朗の集い)があります。意識の覚醒を身体や感覚から入るのが、気功や太極拳と似ていて、大変興味深く参考になります。『身体に刷り込まれたネガティブな感情エネルギーや条件づけされた意識を解放すると、真の自由を取り戻し、過去や未来にとらわれず、開かれた意識で瞬間瞬間に自己を表現しながら、至福で生きられる』と、Sri Vast さんがおっしゃっていました。オーロヴィルとSri Vast アシュラムでの体験は、グラウンディングとクリエーテイビティという両面で非常にインパクトがあり、私にとって何か新しい始まりのきっかけになりそうです。2月15日の夜行寝台バスでケララ州に行き、数日後にヒマラヤの麓にあるリシケシュというヨガの里に向かいます。そこでは一昨年お出会いした何人かの覚者の方々をお訪ねするつもりです。どのような方々に出会っても、適度な間合いを保ち、のめり込むことなく、しかも謙虚に学ばさせていただければと思っています。大いなる導きの中で、静かなる自己を守りながら、皆と共に今、今、今を感謝と喜びで生きていく!これに尽きると思います。

『すべての生命は、その見かけの背後を見れば、広大な自然のヨーガであり、自然は意識的にも潜在意識的にも、自らの極致を実現しようと、いまだ実現されていない可能性をますます表現し、自分自身を自らの神聖な実体と一体化させようと試みている。』(オーロビンド)『生命全体がその神聖な源泉を意識して、知識、意志、感情、感覚、肉体のそれぞれの活動のなかに、神に由来する衝動を感じられるように。それは世俗的な目的に欠かせないものを何ひとつ拒否せず、それを拡大し、今はその目から隠されている、もっと大きくもっと真実な意味を見いだして、それを生きる。それを限定的、世俗的、死を免れない運命のものから、究極の、神聖な、不滅の価値をもったかたちへと変容させる。』(オーロビンド)今回の旅では、『真の自由とは何か』について常に問いかけられているような気がします。

人類全体が無限の存在に目覚め、ひとつになりますように!
中健次郎

付録:
『A Dream ( ドリーム) 』 
「地球上のどこかにどこの国のものでもない場所、うそ偽りのない志を持つ善意ある人々が世界市民として自由に暮らせる場所、人々がただ一つの権威と呼べる至高の真理にのみ従う場所、そんな場所があるべきなのです。平和と友好と調和の場所、そこでは人間の闘争本能というものが、苦しみや惨めさの原因を克服することや、弱さや無知に打ち勝ち限界や無力さを征服する為だけに使われるのです。その場所では、魂(精神)の必要性と進歩への配慮が、欲望と色情を満たすことや、快楽と物質的楽しみの追求よりも優先されます。この場所で、子ども達は魂とのコンタクトを失うことなく、統合的に育ち発達することができるしょう。教育は、試験にパスしたり免状や役職を得る為に為されるのではなく、持って生まれた能力を伸ばし、新しいものを引き出すために為されるのです。
(中略)
一言で言うならば、普段もっぱら競争や闘争だけをベースにしている人間関係が、協力と真の兄弟愛によってより良きことを為していく人間関係に置き換わっていく、そういう場所になることでしょう。」(マザー)

シリコンバレイのインド人の活躍 (TIE Organization の事)

Stanford 大学の 若き博士課程のエンジニア達が訪ねてきた。いずれもインドのIIT(インド工科大学)の優秀なエンジニアータチでした。新しいSearch engine のソフトが出来上がったので見て欲しいと言われて無理矢理にStanford 大学のComputer 室に連れて行かれた。これからのIT 業界はSearch engine が大事になる、きっといいBusiness になるから資金を集めてくれとのこと。そんなわけで若き彼らが目をかがやかせて説明してくれた。Hardware のエンジニア~である私の理解するところではなかった。だからIT 業界でSearch Engine がどんなに大事であるかわかるはずがなかった。しかし目をかがやかせて説明する彼らの熱気はひしひしと感じられた。すんだ目をしている。そんな訳でシートマネーを集めてあげることにした。時あたかも台湾経済華々しい時でした。PCの立ち上がりと半導体ビジネスの急成長でした。同時に台湾政府が経済の活性化を期待してCapital gain Tax をゼロにしたために大いに投資をあおっていたので]我も我もと投資を考えていました。かって若き台湾のエンジニアーに投資して大成功させたため台湾の投資家がよく私を訪ねてきてくれました。またタイミングよく7名(こちらも7名でした)の台湾の投資家がシリコンバレイにきていたのです。早速みんなを集めてStanford 大学のコンピュター室に案内してまたSearch Engine のデモをしてもらったその後みんなで日本食レストランに夕食に行きました。そしてこの会社のシードマネーを70万ドル集めたいから皆さん一人ずつ10万ドル出してください。とお願いしたら、2、3の人がいや俺は15万ドル出したい。いや私は20万ドルだしたいと大変な意気込みでみんなが盛り上がってしまいました。彼らとてサーチエジンがどういうものかわ私以上に知る由も無いのです。ですが時の流れがみんなをエキサイトさせているのでした。なんとかなだめて結局一人10万ドルの投資があっという間に決まってしまいました。そしてそれから1週間後にお金が集まり会社が設立されたのです。

当時のシリコンバレイは IIT (インド工科大学)での技術者が企業の上層部に昇進したりまたIT 関係の会社を上場させていたりして 活躍しているときでした。これらのインド人一世たちがなんとかインドのわかい人たちを助けてあげようとして数名が集まり色々相談をして互助組織を作りました。月に数回の集まりを企画してここにわかい人たちえを集めて大企業のこれらの成功者や、新しく上場した会社の社長などが,起業の心得、技術の動向、などをコーチしてくれました。この時に集まった有志も7名だったそうです。そしてTIE Organization が設立されたのです。7名という数字はいい数字なのですね。だからことを始めるには7名とか8名でスタートするのがいいとのことです。またグループで 課題を検討するのも4名から8名までがいいそうです。そんなわけで黒澤明の七人の侍。あるいは荒野の七人などが世界的に大当たりをしています。またIntel を作った 8名の反逆者などが有名です。Tie Con も7名の有志のおかげでのちの参加者4千名に登る世界一のTie Organizationできたのでした。この立ち上げに頑張ったのがもとIBM Kentucky のプリンター事業部の事業部長だったKailashi Joshi 博士でした。私は以前からDr. Joshiと知り合いであった関係でこのかいの立ち上げから手伝いをしたり会にでたりましたいました。この会が始まったのが1993年でした。初めの集まりは20名から30名ぐらいの集まりでしたがそれがだんだん大きくなって千名に近くのエンジニアーが集まるようになりました。当初あの7名の侍はDr. Joshi , Bipin Shah ,A.J.Patel などの7名でした。

そして最初に会長になったのが Dr. Suhas Patil さんでした。Dr. Patel はCirrus Logic という半導体会社を設立して走りのAsic Design の技術を設立しました。これが Fabless 半導体ビジネスの走りとなり誰でもがIC を設計できるきっかけとなりました。そしてIC の製造の方は日本や台湾の半導体メーカーに頼んでいました。NEC, Hitachi , Toshiba Sanyo などがIC を作ってくれていました。もし日本の半導体企業が皆がDram に集中しないでASICにも力をいれていたらTSMC やUMC に全てをもって行かれなくて済んだと思うし日本の半導体産業がこれほど落ち込むことはなかったと思うが、その後のTie を盛り上げた人たちが次の歴代の会長です。

Dr. Joshi , Dr. Patil にはビジネスのほかいろいろお世話になりました。日本からの起業家たちとよくDr. Patil の 会社でいろいろお話とサジェッションをいただいたものでした。また我々が立ち上げたPico Power を買収してもらい感謝しています。その後のかく会長ともいろいろ日本からの訪問者を受け入れてもらったり、また 元 Sony の会長出井伸之さんのKey note Speechをアレンジしてもらったりしました。こ方達は本当にわかきアントレプレナーたちをガイドしてくれていました。これがシリコンバレイの起業家たちを育てる、シリコンバレイのインフラを作り上げてくれたのです。

Tie Con が大きくなり年に一度開かれる大きな大会には3千名4千名という規模になりました。

2007年の出井伸之 さんのKey note Speechこの時は4千名が参加していました。

Junglee はこんな状況の中で発足しました。ときあたかもinternet の黎明期でInternetによるBusinessがたいへん多くスタートしました。Junglee のサーチエンジンは当初は職探しに採用されました。Washington Post が新聞紙上で簡単な職探しができるようにしたものでした。されにアパートの部屋探し、あるいは家を買うときの検索などいろんなところに使われていきました。当時の検索は単語一つで検索するので何万とういう検索結果が出ますからそれをいちいち調べるのが大変でした。Jungleeのサーチエンジンは数個の単語でサーチできるので効率が上がりました。しかし検策の精度を上げるにはいろんな知識、また言語学などを総合していくので検索エンジンの精度を上げるのに大変な研究がついて回りました。ソフトウヤーのエンジニヤの数は増えていきます。インド側にも人を採用して研究に費やしていました。そんな頃アマゾンが自社で検索エンジンを開発しよとしてジャングリーを買収するという話が出てついに210Million $ で受け入れれことにしました。そしてインターネットバブルにかかりアマゾンの株は300倍、400倍と上がっていきました。このために従業員は一時的に百万長者が数百人とできました。そのご2001年以降のバブル崩壊とともに株価かは大幅に落ちてしまいましたが。それぞれにある程度金持ちになって次のチャッェンジに向かっていきました。ベンキイ、アナン、アシシ、ラケッシュの経営陣は捕虜としてシアトルのアマゾンに3年間勤務しました。そして彼らが今のアマゾンのサーチエンジンを開発して無事シリコンバレイに戻ってきました。 

そしてバブルの後いろんなビジネスモデルが考えられてインド人技術屋がますます活躍するようになりました。彼らは ジャングリーの創業者に色々相談して彼らの会社を創立します。そして金を集めたいがどうしたら、いいかと聞くと彼らは、Mr. Taira に聞けという。そんなわけでインド人の起業家たちがいっぱい訪ねてきます。そして熱心にビジネスプラを説明してから自分のことを宣伝し始めます。どの人も異口同音に自分はIIT 何年卒業でその年のTop 10で卒業したというのです。どうもみんながTop 10 というのでおかしいと思い、ところであなたの卒業して年の人が訪ねてきて同じ年のTop 10 という方が5人もきたがあなたは本当にTop 10 だったのですかときくといや実は物理の教室でのTop 10 だったという。

日本では能ある鷹は爪を隠すというがインドではどうやら爪は見せびらかさないと、競争に勝てないらしい。
Junglee の成功の物語がBusiness Week のアジア版に載った。表紙を飾ったのはベンキー、アナン、アシシ、ラケッシュ の写真だった。なんとそしてベンキ、アナン、アシシ、3名の大学時代の成績が載っていた。ベンキ、アナンはまさしくNo. 1 だったらしい。アシシ もTop 5 ぐらい だったようです。ラケッシュにお前の成績が載ってないが君もTop 10 だったのかと聞いたらいや Mr.Taira 俺は後ろから数えた方が早かったという。みんなの兄貴分で社長を務めてもらった、社長の成績は違う評価しないといけないようです。でもラケッシュは兄貴分としてよくみんなをまとめて会社を運営してくれた。

Tie の例会で、ナビン、ビスト(Nayna Network を二人で設立)がJunglee の話をTIEの例会でしろということでベンキーと二人で講演した。下記のYou Tube をご覧ください。

さてTechnology はますます進歩しています。ビジネスモデルも大きく変化しています。起業はますます難しくなっています。しかし新しい分野に勇気を持ってChallenge しないと夢は達成されません。またもう一つ新しい夢に向かって挑戦したいものです。

山のあなたにはなお幸い住むと人のいう。チャレンジしましよう。日本の発展のために。

シリコンバレイの成功はStanford 大学が若き起業家たちを応援して会社を成功に導いたこと、そしてまたのちの基幹産業たる半導体会社Fairchild Semiconductor がDr. Noice 達によって設立されたことが大きい。さらに事業で成功した人たちが次の世代の起業家に資金を提供したりメンターとして援助し続けたところにあります。それがベンチャーキャピタリストの発生を促し、大きな資金が投入されることになるのです。残念ながら日本ではこのようなリスクマネーがなく銀行借り入れだけが資金源だったので企業を大きくするのが困難だったのです。

日本のベンチャーキャピタルの資金は年間で 数千億では シリコンバレイの数10兆円に比べてあまりにも少なすぎます。日本の機関投資家がもっとベンチャーキャピタルに資金を投入しなければ日本の産業の発展は期待できないですね。日本の機関投資家あるいは不動産産業が、もっとベンチャーキャピタルに資金を提供しないとベンチャー起業が立ち上がれません。

Junglee の仲間たちとの集まりで。(Palo Alto にて)

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「僕の命は言葉とともにある」 福島智

縁あって福島智さんに東大教授の児玉先生宅でおあいする機会がありました。「盲ろう」の人に会う、一体どんな話をすればいいのだろうかと心配しながら児玉せん先生に聞いた。先生曰く普通に話していいよとのこと、先生は盲ろうの人の中にもいい人と悪い人がいるよね。などと話しているそうです。それならなんでも話していいのだと気が落ち着いた。目が見えないことを想像してみる、映像の世界から閉ざされている、耳が聞こえない、静寂の中にいる、想像して見ても、大変な世界だ、その中に生きるとは、どんなものだろうか、とても恐ろしい世界に思われる、いつも孤独が襲ってくるような。

福島先生の声はちゃんと普通の声でいらっしゃる、18歳まで話されていたのでそれが持続されているらしい。それが18歳で耳が聞こえなくなって盲ろう者になった。どうも我々は映像で人のイメジをつくっているらしい。あるいは事象を映像で記憶しているらしい。お会いしてまず聞いて見た。先生は初めてあった人をどんな感じで記憶にとどめていますか。と質問してら返事がなかた。また2回目にあったらどんな人だったか覚えていますか。と聞いたらこれにも答えがなかった。言葉がすべての世界なのでイメイジの様子がないかも知りません。そのうち指点字で翻訳してくださる奥様ともう一人の通訳を通して勝手にいろんな話が飛び交って行きました。そして誰かが冗談をいうと一緒にみんなで大声で笑いました。

児玉先生の奥様の手料理をいただきまた寿司もご馳走になりました。福島先生は健啖でいらして児玉先生の奥様の手料理をおいしい美味しとたくさん召し上がりました。先生は指点字での会話に神経を集中されてすごいエンゲルギーを使われているような気がします。通訳されている奥様もすごく神経を集中されていました数名の話を全部通訳されているようです、ですから数分で 通訳 を交代していました。

黒沢明監督の往年の名画、影武者、乱、などで名脇役をつとめられた、油井昌由樹さんも来られており、黒沢芸術の一端を撮影現場の状況から説明していただいてあの名画が作り出されたのだと思って大変感激しました。 台風のシーンを撮るのに実際に台風が来るのを待って撮影したらしい 大変こりたかたですね。台風に向かってセリフを言うのだそうですが。雨が直接喉の方にあたるのでセリフが出てこなかったそうです。油井さんは馬が好きで随分世界のあちこちでいろんな馬を乗りこなしたそうです。時代劇の戦闘シーンで馬をどこで止めるかを一生懸命に調教して本番で敵の大将のまえで急停止すときのこつなど、黒沢監督のこりしょうとそのスタッフの苦労が目に見えるようでした。油井さんは夕日が好きのようでロスアンゼリスから サンデゴへ行くときの夕日が世界で一番素晴らしかったと、またモンゴルで見る夕日も素晴らしかったと まるで夕日の旅人みたいなロマンを語ってくれました。ジョン、フォードの西部劇を見る様な感じでした。

帰りに福島先生の書かれた“僕の命は言葉とともにある”をいただいた。先生の直筆のサインがあり感激でした。カリホルニヤーに帰る飛行機の中で我を忘れて読みふけった。視聴覚を失った人の凄まじい生き方を、もう身動きもできないで読みふけっていました。目の前にすわったスチュワデスに本を指してこの人にあったのだよと自慢してあなたも読んだ方がいいよとリコメンドしました。先生はたくさんの本を読まれている。点字で読まれるのでそのスピードは普通の人の半分のスピードのようです。だからたくさんの時間を使ってよんでいらっしゃるようです。

私が北方謙三を読んだのはあるとき新聞の広告で楊令伝、だったか、楊家将のベストセラーの宣伝だった。楊令伝は中国の部族間の争いそれも騎馬隊の戦いが主な内容でした。数十騎の騎馬隊が100綺もいる群れに突っ込んで一気に相手を乱して勝利するもので、親子、兄弟愛、そして部族愛などが織り成す大スペクトラルな物語でした。場面がすごいまるで数秒の差を見事にかわして敵をケチらせて行くのでその様子は爽快でした。なお中国の中のある場所の地形かと思われますが日本のある場所の地形の様にも思われました。描写が生き生きしていて草原の傾斜後ろの山そして崖の様子などみごとなものでした。それからずっと後になってから三国志、水滸伝を読みまたその壮大な展開に我を忘れて読みふけったものでした。北方謙三さんはすごい作家ですね。 福島先生と 致知での対談も素晴らしかった。よく山に行っていたので陽伝玲のあの急斜面は確か 北八あたりにそっくりだなあといつも想いをだしていました。

福島先生は 実に洋の東西を問わず色々な作家の本を読まれていた、トルストイの戦争と平和、カラマゾスの兄弟 あるいはパスカルなど読みふけっておられています。そしていつも行う対談の中にこれらの本の中身が引用されておられます。

先生が 幸せとは何かということにつぃて。幸せとは自分の背中をある時間ののちに後ろから見てそのときしあわせだったのだと言うという思想家の吉本隆明さんの言葉にあってそれに共感されていました。人間は後ろに目がないから一度 幽体離脱して自分を見るということのようです、なるほどと思いました。

福島先生は東京都立大学の出身と聞きびっくりしました。わたくしは電気工学ですが。なんだか後輩を見つけて大喜びでした。こんな素晴らしい後輩がいるなんて嬉しかったですね。そしてすごく誇りに思いました。

我々はいつも起業家とともに日夜苦労していますが。やっぱりコミニケーッションが一番大事なのですね。火星人は地球の人たちとコムニケイッションしたくてたくさんの信号を送り続けているようです。だから空飛ぶ円盤が現れたりETが地球にきたりするのですね。先生もET が好きで、またそのうちに宇宙に行きたいとおっしゃっています。宇宙を相手に考えておられるイーロンマスクに頼んで火星探検に参加されたらどうでしょう。先生なら火星人とコムニケイッションできるのでは。

今回湯河原で中健次郎先生の気功合宿にいつもの仲間たちと 参加しましたが。先生は自分を無にして宇宙とつながりなさいそうすれば大きな宇宙がしかりと支えてくれてブレない自分が作られるという。それが気功のエッセンスなのだと思いました。宇宙につながっていれば微動だにしないですね。ですから先生を押せども引けどもしっかりとちについています。

シリコンバレイのエコー システム〜Arvind とのDinner

ここシリコンバレイではいろんなタレントを持った友人たち、エンジェル投資家、ベンキャピタリストなどが集まってきて新しく起業した友人の相談にのってくれる。

今日のデナー はHD Medical の社長 Arvind Thiagarajan の声がけでその友人たちがあつまってくれた。みんなで彼のビジネス 戦略のけんとう製品の開発をどのようにするかなどについてのアドバイスをするためのものでした。Venture Capitalist が数名、弁護士、そして投資家が数名、Healthcare の業界の方数名の人たちでした。お互いの専門分野からの意見がのべられました。これだけ多くのサポーターがいればこころずよいし、企業が成功する確率がふえるとおもう。 社長のネットワークでこれだけの人が集まって来るのはさすがに人徳ですね。しかしシリコンバレイの連中は仲間を助けるのにやぶさかではないし、手弁当でたすけにきてくれる。自分が人から援助された恩返しみたいなところがあります。これがシリコンバレイのエコ〜システムですね。日本でももっと次世代の起業家を育てるエコーシステム をつくりあげないといけないです。一番日本にかけているのは大起業で成功した人たち或いは起業して成功した人たちが 次の若き起業家のMentor になってくれる人がすくないことです。シリコンバレイはそのようなメンターがたくさんいて応援してくれる。若者の次の夢に少しでも加担しているのがまたのしみなのです。日本の大企業で活躍された起業家が比較的早めに実業の世界から身を引いてしますのがもったいないですね。

久しぶりに半導体出身の投資家が数名おり、半導体華やかなりしころの懐古談に花がさきました。Arvind を応援して素晴らしい花が咲くことを楽しみにしている連中でいろんな手助けをするのを厭わない連中です。

また中の一人が 日本に旅行に行ったときの写真をたくさんIpad に入れてたのしかった話しを披露してくれました。なんと中山道10日間歩く旅に参加したのでした。旅館に泊まり布団で寝た経験を楽しそうにはなしていました。素晴らしい企画ですね。これなどむしろ日本人にもいい企画ではないでしょか。日本文化をもとにしたビジネスモデルを企画すれば異国の旅人を魅了するのではないでしようか。是非そのような企画をしてビジネス をスタートする起業家がでてほしいですね。ハイテックの起業を数々の人々が狙っているのですが。中にはこのような文化的な企画で事業を成功させてくれる人がいればいいですね。我々はそんな起業が出てきた時に心を休めて参画して英気をやしないにいきたいものです。そしたら Arvind を連れて参加したいですね。

左側の奥から三番目がArvind Thigarajan さん。

腹中書有り(読書百ぺんその意自ずから、致知7月号をよむ)

致知という雑誌は店頭販売しないで定期購読者のみに販売されています。十万部も発行されています。いつだったか友人が見せてくれたので目をとうさせてもらいました。中国古典を愛読してどれほど人生の危機をすくわれたのかの記事を読んで感激して定期購読をしました。そしてアメリカまでおくってもらっています。中国古典のみならず、私の好きな安岡正篤さんに関わる記事やさらには、安岡正篤さんの孫娘である安岡定子さんの論語の解説も毎回楽しくよませてもらっています。

7月号で私の尊敬する青木ホルホルヂングの青木擴憲会長と田口佳史 さんの対談は特に胸をうつものがありました。要は人生の危機に置いて古典がいかに自分を助けてくれたかをお二人が語りあっている記事でした。青木さんのモットー 「顧客満足度」X「営業利益」X「社会貢献」の方程式にかんげきしました。この思想があればこそ青木 ホルデングが発展し続けて来られたのだとおもいます。青木さんは社会貢献のひとつとして毎年長野の中学生のロンドンとシリコンバレイの研修旅行をサポートしています。青木さんの故郷長野から将来の大物を作り出そうとして“平成の咸臨丸”と言う名前です。子供達をおくりだしています。

シリコンバレイの活動の一助を担わせていただいて光栄におもいます。7月号の記事が心にしみました。サブタイトルが「腹中書あり」でした。青木さんは家がまずしかったので若くして紳士服の古着の行商を初めて苦労を重ねて紳士服のお青木をそだてあげたのでした。中国古典の教え、人間は一番苦しねたときに鍛えられるそれが神が与えてくれる、試練なのだという。そして人生の書が腹におちてくるのだという。青木さんの場合は 孟子の中の「告知章」であったそうです。論語、孟子、易経、などを目をとうしたのですが、腹に落ちるまでは読んでいない文字を追ったにすいないようです。もっと骨身にしみるまで読みこなさないと腹に落ちないらしい、まだまだ試練が足りないようです。

読書100遍その意自ずからという意味がよくわかりました。同じく7月号で、グロービスの堀 義人さんが内村鑑三の“代表的な日本人”を100遍読んだと言っています。この本は英語でアメリカで発行されました。ケネヂイ大統領もこの本をよんで上杉鷹山を大変尊敬しているという。

かって佐藤栄作 総理がアメリカに渡りケネヂイ大統領に会いに行った時にわずか10分の時間しか約束してくれなかったようです。安岡正篤さんは佐藤栄作首相にケネヂイに合ったら 王陽明の次の一節を伝えなさいと次の一節を伝えます。“戦勝国は敗戦国にたいして、喪に服するように敬意を持って接しなければならない”これを聞いたケネヂイ大統領は姿勢を正して面談に応じて実に3時間にも及んだというごとです。このため沖縄変換がじつげんしたのだという。さらには佐藤栄作総理は ノーベル平和賞をもらうことになったのです。こ助言をしたのが他ならぬ安岡正篤 さんだったのです。安岡さんはその後歴代の総理大臣の指南役をはたされています。 偉大な人物だったのですね。安岡さんの本が数冊あります。(一回しかよんでいません)これから100遍よむことにします。

腹中書ありの極めつけは 日本一の靴下屋さん タビオの越智正直さんの“孫子”とのであいです。越智さんは“男児志を立つ”の本の中で“孫子”を語っています。越智さんのうちは 貧乏だったので中学生の頃に大阪に丁稚奉公にだされます。故郷を出る時に中学校のせんせいが。越智必ず古典を読見なさいといわれます。大阪の古本屋にいって 古典という本をくださいというと店の主人があれだと指差してくれたのが孫子でした。孫や子供が読む本かなあとかどして損をする本を読まないといけないのかと疑問におもいます。それでも先生の教えなので漢和時辞典と首っ引きで孫子をよんでいきます。当時は今のように現代語役はありません。かんぶんそのものでした。越智さんは何ヶ月もかけてよみます。そして全て暗記してしまします。そして靴下屋を開業します。商売が順調に行くまで幾多の苦難に遭遇します。その折々に危機を乗り越えることができたのは孫子のおかげだそうです。困難に応じて解決作が孫子の中の一節が頭に浮かべます、そして危機をのりこえます。男児志を立つ は越智さんの好きな漢詩をあつめたものです。越智さんはその漢詩をすべて暗記されたそうです。 それはまた危機を解決する回答でもあったようです。

本の一番の漢詩が 月性和尚の 漢詩でした。
男児立志出郷関
学若無成不復帰
埋骨何期墳墓地
人間到処有青山
越智さんの丁稚奉公への旅たちのよですね。
中国の李白,杜甫、そしてまた項羽 劉邦、吉田松陰、西郷隆盛、など維新の志士の漢詩雄大で壮大です。

漢詩も是非暗記したいものです。致知出版社さんありがとう,徳を説く編集方針をつらぬき戦後から今日まで続けられてありがとう。日本がかっての道徳の国をとりもどのも間もなくだとおもいます。

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