シリコンバレーのエンジェル投資ブログ

投稿者: taira Page 3 of 10

夏草や兵どもの夢の後 ――バブルと貪欲経済のなせる技――

兵どもの墓

Sooner Inc.

エンジェル インベスターとは個人の投資家で若きアントレプレニヤー が起業するときに最初に資金を提供するひとです。シリコンバレイではこのような投資家がたくさんいるので起業がしやすくそのために沢山の優良企業がシリコンバレイに出来上がったのです。
Apple、Google, Yahoo  しかりです。
エンジェル投資家は結局のところ若き起業家の夢に感動して自分もその夢の実現のための伴走者として若き起業家を援助する人たちなのです。成功した操業者は自分が助けてもらったので今度は自分が次世代の若き起業家に手を差し伸べるのです。Steve Jobs が電話帳で Hewlett Packard さんの番号を調べて電話します、そして周波数カウンターを作るための部品を分けてくれと頼んとき何と20分も話しをしてくれたとのことです。そしてHPでアルバイトをさせてくれたそうです。(Steve Jobs の14、5歳のころ)彼はまたIntel のDr. Noyce  にも話しに行っていろいろおしえてもらったそうです。 これぞシリコンバレイの雰囲気なのですね。ですから起業する若者を助ける人達がたくさんいるのです。エンジェル インベスターは投資家として結局は起業家の夢に共鳴して 起業家のマラソンに伴走する応援団なのです。

2006 年4月 今のDrop Box と同じようなIdea でSooner Inc. が立ちあがりました。自分のファイルをWeb に預けどこからでもアクセスできる技術でこれは大変便利になると投資をしました。 当時はまでCloud Computing もできていなかったし、ましては ローコスト のStorage もなかったですから全部自社でNetwork からStorage から Server を用意しなければいけなかった。 それから数年して Cloud computing, 或いはCloud Storage などが大変安く利用できるようになった、そして,Drop Box が創業された。Sooner は自前のStorage を用意するのに大変なお金がかかった。だから創業して数年してもう資金調達ができない状況になってしまった。そんなわけで残念ながらついに会社をしめることになってしまった。後発のDrop Box はアマゾンなどの安いCloud computing を利用しさらに Cloud 上の安いStorage を使うことによって何十ギガバイト というStorage を安く提供してSubscriber をふやしていきます。 Sooner はこのCloud Computing の波にのりおくれたのです。運、不運はありますが。起業のタイミングは 遅からず、早からざる時に興さなければいけないのです。そして必要なInfrastructure が安く手に入るタイミングを狙わなければいけないのです。素敵なInfrastructure の一枚の絵が投資家の夢をふくらませます。 しかしその一枚の絵を実現するためには多大なお金がかかります。青写真を見る時は各々のBlock にどれだけお金がかかるかを十分吟味して資金調達をしてかからないとインフラの 開発の段階でお金がなくなってしまします。一枚の素敵な絵は大変な代物です。そのためにたくさんの金がひつようになります。大概の失敗の原因はInfrastructure を自分でつくるためにお金がかかりすぎて資金がなくなってしまうことです。夢を一緒に追うものにとっても、状況判断をしかりしないといけないことを 5,6年もたってからやっと理解しました。

The Innovator’s Dilemma

技術の進歩はあるバリヤーを越えると一気に進むものです。そのバリヤーを越えるためには関連する技術の発展のために大変な投資と研究がつづけられていいます。たとえばMoor の法則が適用できるまでには半導体を製造するための色んな技術の大幅な進歩が必要だったのです。まずはWafer のサイズがおおきくならないといけないし。製造装置の進歩があるいは材料の進歩などがひつようです。エッチング装置、露光装置、ホトレジストなどの進歩が必要になります。そして初めて40ミクロン。25ミクロン、18ミクロンと線幅を大幅にちいさくしていけるのです。 ですからMoor さんが予測した、半導体の集積度は 18け月で倍になると言うことが実現していったのです。集積度が上がると性能は4倍以上にはやくなります。同時にメモリーIC の容量が4倍8倍に多きくなっていったのです。今では テラバイトのメモリーICもできるようになったのです。

同じことがLCD の世界でもおこりました。Active Matrix の白黒の4インチのDisplay ができた時、世の中が大騒ぎしました。しかしそのサイズの頃にだれが50インチの LCD ができるなどとは夢にもおもいませんでした。でもあれから30年何といまは50 インチ、あるいは100インチ のLCD TVが可能なのです。

Internet の急速な進歩と共に色んなデーターを一つのDisplay に表示する必要があります。特に1秒を争う株式取引ではこれが大事です。Wall Street で大型のDisplay が必要とされていました。そこに現れたのがプラズマ デスプライでした。何せ38インチのデスプレイが可能でした。 しかしブラウンカンを使っているので消費電力が1K Watts とお大きく又文字が焼きついたりしていました。それと大変高価でした。

このころのLCD の製造技術はやっと19インチのおおきさができたところでした。Wall Street の要望を聞きIBMでFace Down の技術は開発していた優秀なエンジニアー達がこの19インチのLCDを4枚継ぎ合わせて38インチのLCD を作ろうと会社をおこしました。これは19インチのLCD を4枚つなぎ合わせて、継ぎ目がわからないようにして38インチのデスプレイを作ることでした。このプロジェクトを完成させるには4枚の各々のLCD のつなぎ目がわからないように4枚の色合わせ、精密な切り口、そして今までにないおおきさのバックライトをつくることなどなど大変は技術の開発がまっていました。何とか寄せ集めでプロタイプができた時にWall Street の連中に見せたらもう上を下えの大騒ぎになりました。それ程までに皆が必要にしているものでした。しかしいろんな問題点の解決には一つ一つが数年もかかるようなしろものでした。Engineer はChallenge 精神が 旺盛でNo Problem ですすめますが。一つ一つのバリヤーは大変難しいものでした。資金は益々枯渇するし資金の額も大きくなっていきます。 ついにベンチャーキャピタルストからの資金は出なくなってきました。 そんなわけでついにオランダのフイリップス に会社ごと預けるはめになりました。フイリップス は多分さらに数十億近くの資金を投下したようにおもわれる。 それから数年してついにフィリプス もギブアップしてしまいました。このためにまたもう一つの墓石をたてるはめになりました。 百億近い金が消えてしまったのです。しかしサムライたちはまた次の挑戦にかかります。

LCD の技術は Sharp の努力と、さらにはSamsung の努力でその後大きな飛躍をします。そして38インチ 40インチの Display が簡単にできてWall Street も電力の少ない大型のDisplay が使えるようになったのです。 しかしその後に価格競争のためにSharp , Sony などが経営をあやうくしてしましました。LCD のTV の業界は今後ますます。難しさをましていきます。

このころJunglee のファンダ―の一人Anada と共にMITの学生にJunglee のはなしにいきました。そのお昼の時間に にProfessor  Christensen が彼が書いたThe Innovator’s Dilemma の本の話をしてくれました。当時の半導体装置のコントロールに使われていたMini Computer PDP-11がほとんどの半導体会社が使っていました。確か数億円もするしろものでした。DEC(Digital Equipment Corporation) はこのミニコンピュウター のおかげで半導体産業から大きな売り上げをあげていたのです。盤石の会社のイメイジでした。しかしIntel  がCPUを開発しそしてその性能が18け月で倍倍になっていくものですからあっという間にPDP-11の性能を上回ってしまいました。 Dec のコンピュターのなんと十分の一の値段で 半導体製造装置のコントローラーができるようになったのです。この為 アメリカ East Coast  の雄であったDEC もついにCompac Computer に買われてしまたのです。そしてまたこの日の出の勢いであったCompaq もHPにかわれてしまいます。 技術の進歩は大変なものです。 Innovation  を十分に見越して戦略或いは商品開発をしないとお金ばかりつかって陳腐な商品をつくって自滅してしまいます。絶えず技術の進歩を見ながら先取りして開発を進めることが必要です。やっぱり4,5年先を見ながら商品を開発していかないと出来た時に陳腐なものになってしまいます。永続性ある会社を作り世の中に貢献できる技術は開発して10年20年と長生きできる会社をつくらなければいけないのです。そのためには優秀な人材を確保し夢のある商品を作り続けなければいけないのです。生存競争は大変です。何時自分の商品が陳腐化しているのかを世界を見渡ながら判断して新しい商品を作り続けなければいけないのです。

Steve Jobs  の先見の明

1986 年ごろに4インチの白黒のLCD がやっと研究所で作れるようになりました。 Steve Jobs  が John Scale に追い出されてNEXT というServer  の会社をやっていた時、NEXT を訪問してSteve Jobs にDisplay  をみせました。彼は大変興味を持ち今彼が必要としているDisplay のSpec  を紙にかきはじめました。4インチしかできない頃に彼は何と11インチのDisplay を要求していたのです。とにかくもし百万個以上買うというなら3年以内に作って持っていくから、とにかく百万個というのを書いてくれと頼んだが Buy Lots  でごまかされてしまいました。しかし世の中はその後11 インチのDisplay が見事に$250 以下で出回ったのです。その後のLCD Display  を使ったMAC computer が市場を席巻します。これもまた日本のLCD メーカーが作り出した大きな市場でした。Jobs は絶えず先を見て何が必要かをいつもかんがえているようでした。だからJobs が Next からApple に戻ってからはApple が大きな発展をするのです。もちろんIphone  Ipad  ITune の成功が世界一のかいしゃにしたのでした。

我々はまた次のSteve Jobs を探さなければいけないのです。我々の投資先からそんな英才が出てくることを楽しみにしてがんばっていきたいとおもいます。

Blue LED(白色のLamp ができるまで)Gan Semiconductor の話。

LED の世界もたえざる新技術の開発ですすめられてきました。GaAs が主体であった赤色のLEDから日本で開発された Liquid Phase のGaP のGreen LEDができて LEDの応用がすすみました。そして三原色のもう1色 Blue LED がなかなか製造ができませんでした。日谷化学の中村さんがSIC の基板の上にGaNの結晶を積み上げることができてBlue LEDの製造がすすみます。 しかしSICの基板が 高いのでBlue LED はなかなかやすくなりまえんでした。Blue LED ができないと白色の光ができません。そのために世界中でBlue LEDの研究とコストダウン の努力がなされていました。

Korea  の若きEngineer が 欠陥のない結晶の作り方をおもいつきました。発想はコップに水を入れてこれを急冷すると 氷の結晶が水の上にできることからのヒントを得た技術でした。かれのかんがえは GaNの液 を高圧で低温にすれば結晶ができると言うアイデヤした。数億のお金を集めて装置をSilicon Valley の 装置メーカに作ってもらて検討が進められました。 小さい サイズの結晶が出来た時そしてその結晶が欠陥のほとんどない素晴らしいものだったので皆な大喜びしました。ランプを組み立てて光らせてみると何とその輝度のすばらしいと。皆エキサイトしました。 1000里を行くものは一歩がだいじです。まだまだ1000里ものこっています。結晶はGaNの液の上につくります。 少なくても 100ミクロンの厚さがひつようです。そしてまた経済的には 少なくても 直径3インチ 位はほしいわけです。
これからがエンジニヤーの苦労 のはじまりでした。 100ミクロン の厚みを確保することそしてなるべく大きなサイズまですること、このターゲットは生やさしいものではありまえんでした。それから数年エンジニアー はがんばりました。 しかしやっぱり目標 を達成できませんでした。そしてEast Coast  の化学会社にエンジニアー をつけて引き取ってもらいました。この会社は当初投資してくれていましたから、エンジニヤー の 生存を確保するために会社ごと引き取ってもらいました。

E-junction

Samba とMuthu そしてその仲間たちとE-Jnction をはじめた。商品の開発には、Engineering group の設計、Prototype の製造、そして、ICの開発であり。或いは 全く新しい部品をベンダー と共同開発するなど、多くのベンダーのエンジニアーとのインターアクショウンがひつようです。そして製品が完成して量産に移るにはさらに多くの人たちとのコンタクトがひつようです。社内のみならず多くの外部の人達とのコンムニケイッションが必要です。もしこれを一つのサイトで関係者がすべての仕事の進行状況を把握できれば何が問題かなんで仕事が遅れているのかを見つけて対処できるのです。ですからこの商品にかかわったすべての人達又 セールスマン ,製造の人経理関係の人などがすべて情報を共有できるのでビジネスの様子が一望のもとに把握できるわけです。プロトタイプができて とりあえず仲間の会社に使ってもらったら大変仕事をコントローフ出来るとよろこばれました。 これはいいねと言うことになっていよいよシリコンバレイの大手に商売ができるのだと大喜びをしていたときです。これが2000年3月、時あたかもインターネットバブルがはじけてしまつたときでした。突然各社とも新規開発の凍結或いは従業員の解雇などとアメリカ全土が 不況の波にのまれてしまいました。それから数ヵ月何とか このソフトの販売に力をつくしますが。どこもそれどころではなく自社の経費節減従業員の解雇に忙しく新しい開発或いはお金を使うなどとははるか遠い話になってしましました。我々もこれ以上の資金調達も出来ずついに会社を閉めることになってしまいました。

E-Junction  こそ Sales Force .com  のコンセプトでした。時をえずして残念です。 ですから遅からず早からずがベンチャーの運を左右するものです。しかしエンジニヤー達は次のチャンレンジを求めてちっていきました。

太いパイブ (Nayna Networks )

インターネットの発展はものすごいいきおいでした。同時に世の中の景気も沸騰しつづけていました。あっと言う間に何億と言うお金がStart UP の会社に投資されていきました。そしてEye Ball Pair (目玉二つ)1000 ドルの価値と言う評価になっていきました。調査会社は インターネットの パイプはもうすぐ詰まってくるから早くパイプを太くしないと大変なことになると毎月のように印刷しているのです。早くパイプを太くしないと経済までが冷え込むみたいな論説です。Naveen が考えたのはまずはOptical Switch の開発が必要と考えてBusiness Plan をつくりました。このPlan をVenture Capitalist に見せるとわれもわれもとあっという間に数十億のお金があつまりました。このころののVenture Capital 業界も又将来の発展にいささかの疑問もはさまないでいくらでもInternet の会社に投資してきたのです。ですからInternet 業界はいくらでも投資が受けられる状況でした。人間の慾は益々深くなっていきます。 当時のNASDAQ の株価が数倍或いは数十倍はねあがるのです。Naveen はこの時アメリカ中の Optical 関係の技術者、やNetwork のソフトウエアーの技術者を取り込むことに成功していました。何と何十名と言う優秀な技術やがあっという間に集まってきたのでした。メムスを基にした光Switch の開発にかかるのです。 まずはBusiness plan を持って業界のTop の会社World Com にこの企画をみせます。勿論World com がエキサイト しないはずはないのです。 ものができたら是非使うと言うのでもう我々の会社の将来は決まったようなものでした。2000年3月についにバブルがはじけて Nasdaq の株価が半分以下になってしまいました。そして一番最初につぶれた大手がWorld Com だったのです。Eye ball 二つで1000 ドルで集まったお金は Eye ball ひとつでほぼ $10 ドルぐらいになった感じです。勿論もろもろの Internet 会社 Pet.com WebVan など数100M$ 集めた会社が皆つぶれてしまいました。Silicon Valley の優秀な博士号を持った人たちが職を失い数年も職が見つからない状況になってしまいました。勿論わが社の優秀な技術屋然りです。われわれも 光Switch から方向起展開しないといけないので色々検討の結果 PON (Passive Optical Network ) の機器をつくることにしました。 Network のExpert が残っていたのでこの展開は何とかけそうにおもいました。 バブルははじけましたが。Fiber Optics はあちこちで敷設されつづけています。Fiber to Home, Fiber to Building で相変わらずこのあたりの投資はまだまだつづいていました。 しかしPON を作るためにはIC がひつようです。 数社が PONのIC の開発にとりかかりました。Cirrus Logic を設立した Kamran Elahian がMomenta の 失敗の後に会社を作り ADSL のIC を開発しこれでまた成功します、さらにこのPON 向けのIC を開発しました。 しかし相当な難しさを要求されるICで全機能をみたすたところまではいきませんでした。 この為機能の不足な部分をさらに外付けのI C でCover してなんとか機能 する機器をつくれあげていました。このころ特にNTTがこのPONを大量に使うと言うことなので我々も是非競売に参加すべく NTT 詣でをはじめました。 試作品を作りNTT の研究所に持ち込んで検討してもらいました。 結構好評だと(おもわれました)。しかし期限が近くなると日本のメーカーがものすごい勢いで試作品を作り、おまけに噂を聞くと我われの値段よりも30% も40% も安いらしいとの情報などがはいり大変心配しました。しかし30% も40% も安くするのでは大赤字ですからそんな見積もりは出せませんからぎりぎりで赤字のでない最低線での見積もりを出すことにしました。この時確か10社以上の会社が見積もりをだしたいます。日本の大手は当然参加しています。この機器は1本のFiber をもってきて この機器から32本に分岐して大きなビルデング にファイバーを繋ぐもので1Gbps のパイプが32のビルデングに供給でき1社1社にファイバーを引かなくていいので相当な節約になると言うので画期的なものでした。しかしふたを開けてみると32分岐までは大変で結局NTT は分岐点で4分岐だけのものとして敷設していった。勿論ふたを開けてみると日本の会社数社だけが NTT に収めることになったようです。我々から見ると30% 40% の赤字のBusiness だったのですが。これが日本の商売なのかと愕然としたおもいでした。やっぱり親方日の丸 で下請けいじめみたいにみえたものです。NTT はかってのアメリカの外圧があったものだから評価には公正を期したと言っていますが。多分値段のガイダンスは暗黙の了解があったのではと今でも勘ぐっています。その後日本のCable 会社向けに努力をしましたが。Cable 会社もそれほどアグレッシブにすすめる意気込みはなかったので、我我はその後のまず食わずの存続を余儀なくされました。

Silicon Valley では 失敗は大きな勲章だと言って失敗した人をほめることがおおいにあります。しかしその失敗を乗り越えて成功しなければ決して勲章にはなりません。だから大きな失敗の後に大成功する必要があるのです。だから一度大失敗した人は挽回の意味を含めて次のプロジェクトを頑張るのですだから次は成功する確率がたかいのです。Naveen とかSamba とか一緒に大きな或いは中位の失敗した仲間たちは今度は成功をめざして、穴探しに一生懸命に 努力しているのです。何といっても彼らのEntrepreneurship はおとろえていないのです。今第2回目第3回目の連中とこちらは相変わらずフウフ 言いながら夢追いの伴奏をつづけています。一度目の企業である程度まで行き失敗してそしてまた苦労をして結局2回目の成功がなされるまでさらに10年はかかっています。人生休む暇はないですね。さらにますます忙しくなるばかりです。

先ほどのKamran Erahian は Cirrus Logic の後に Momenta と言う会社をおこします。業界初めてのPortable のPen Computer をたちあげます。世界中から数十億のお金をあつめます。 日本の三井物産も相当な金額を投入しました。 電池Operation, LCD Display ,Pen 入力の技術、IC の開発Storage の小型開発すべてアメリカ初て世界で初めての大変な努力でした。同時にメデヤが毎月のように喧伝するので業界中が期待をかけてまちのぞんでいました。手がきのソフトもそのころのものは確度はまだまだでした。Digitizer がまだまだの性能です。そして電池の寿命も短いものでした。しかしあつまたエンジニアーたちは、すごい連中でした。ですがついには狙った性能が出ずについにメインのVenture Capitalist がKamran Elahian を首にして製品の開発を中止します。勿論 Momenta の努力のよってその後の Pen Base Computer の窓あけとなります。そして Apple のNewton の開発につながり、最後にSteve Jobs のIphone でこれらの技術が集約された形になりApple の発展となったのです。Steve Jobs は先を見て色々な開発をしていますが。 製品が使いやすくなければいけないことに徹底しているようでそれがIphone Ipad の成功につながっているようです。Digital Camera にしてもQuick take 100 をだしたがすぐひっこめている。そしてIphne ができた時にDigital Camera の技術が見事に集約されて使いやすく鮮明な写真が撮れるなどでIPhone の爆発的なうれいきになったとおもいます。 Kamran Elahian はMomenta の大きな失敗を何時も肝に銘じてその後努力してきたようです。からの愛車 Ferari のLicense Plate はいまだ Moments です。彼はMomenta の失敗を肝に銘じてがんばってきたのです。失敗いは許されると同時に勲章にもなりますがしかしそれはその後に成功して初めて勲章になるものです。さあ またもう一度挑戦しましよう。一緒に失敗したなかまと又なんとか成功事例を作るべくうごきはじめています。沢山の死んだ会社の墓標だけは立派にたっています。そして成功した暁にこの墓標を拝みそしてかっての従業員にえがおで挨拶できればとおもっています。今日もまたSilicon Valley で頭を痛めながらがんぱっています。

バブルと 貪欲な経済活動
バブルはどうしておこるのでしょうか。
人間は本質的に欲の塊なのでしょうか。 日本では昔から賢者が徳を説き若者をたくさん教育し、しかも、当人は清貧に甘んじていたから 若者が育ったのでしょう。日本人は少なくともある程度の歯止めがこの教えにかなっているのだとおもいます。古くは オランダ のチュウリップのバブル、このときは何とチュウリップの球根ひとつがうち一軒の値段がついたとか。一般の人たちが買い始めてお金がないから家を抵当に入れたり乳牛を抵当に入れたりして買ったそうです。いわゆる先物買いのはしりですね。そしてその証書がまた売買されたとのことサブプライムローンとおなじことがおこなわれていたのです。そしてチュウリップの値段が100分の1になってバブルがはじけてオランダの経済が大変な目にあったのです。 思い起こせば日本の土地と株のバブルの時の狂想曲もおなじですね。80年後半から90年代初めに山手線内の土地でアメリカの全土が買えるまでの値上がりしたとのことそして、三菱地所がアメリカの誇りとしていたロックフェラーセンターを買ったり日本の企業がペッブルビーチのゴルフ場を買ったりしたものだからアメリカの ひんしゅくをかってしまいました。しかしバブルがはじけてさらにはアジア金融危機が訪れ日本経済も大変な状況になってしまいました。そしてロックフェラ-センターも大幅に安く元の持ち主にうられまた ペブルビーチもアーノルド、パーマー たちのグループに安く売り渡す羽目になっています。これからが うしなわれた 20年の始まりだったのです。貪欲の経済が仕向けた結果なのです。日本は古典に習い徳を積む国民だったはずなのにやっぱり金に対する欲は一番避けがたいものなのですね。世界中がこの人間の欲のために貧乏人がますます貧乏になっていくしかけになっています。いつも損をするのが貧乏人なのです。

インターネット、バブルの資金、上図は1999年第3クオーッターから2000年第1クオーターまでのベンチャーキャピタル の投資額です。この6クオーターに投資された金額は何と156ビリオン ダラー(15兆6千億円)におよびます。例年の6クオーターですと30ビリオンドル(3兆円)ですからどれほど欲の皮がつぱっていたことか。正常な考えでは出てこない数字ですね。まさしくチュウリップ バブルの再来です。ウォールストリートの 錬金術師たちはここぞとばかりバブルを演出したのでした。まず金をこれだけ出すところが欲のかたまりです。バブルはその意気込みにまかれて我も我もとなるのですね。まずは金を出すところが自制しなければバブルになってしまいます。普段の5倍も投資が増えたらまずバブルですよ。 錬金術師たちは値上がりがこの場合は5倍にも上がるとみています。兎に角 ( .com)どっとコムという名前あるいは(e-)イーなんとか とつくとすぐ投資家がつくのです。当時は人間の目玉(二つ)がなんと千ドルの価値があると喧伝されたのです。だから百万人のお客がつくと1千億円の企業価値があるとウォールストリートが評価するのです。ですからお客を集めるためにじゃんじゃんお金をつかうのです。50億円使って100万人のお客を集めるのに必死になっていたのです。ベンチャーキャピタルはお金をつかえ使えとあおっていました。当時の Pet.com などは何とSuper Ball の時の30秒の広告に2百マンンドルもだしたのです。そしてまた有名なVenture Capitalist たちがこぞって投資したのがWebVan だった。これはSilicon Valley のヴェンチャー企業のエンジニヤーは暇がないから朝に夕食の食材を注文する、たとえばねぎひと束とうふ一丁、肉1Kg などもちろん出前もOkay で頼むと夕方には家に配達する、というBusiness Model でした。毎日WebVan のトラックをみるようになりました。しかし荷物はたいして積んでないようだしトラックの姿もなんとなく裏さびれたようなかんじでした。その後E-Toys.com,  Go.com など多くのどっとコム 会社がVenture Capital から多大のお金をもらい Eye Ball の獲得に多大のお金をつかいます。 そしてその会社がすぐNASDAQ に上場するのですそして何百億という値がついてしまうのです。そしてついに2000 年3月に NASDAQ  の株価が半分に下落してバブルがはじけるのです。Mathew Buttell というJournalist がFST という経済誌にこのバブルの被害がどれくらいあったかというのを掲載していました。下記の図がInternet bubble のバブル具合を示した絵です。

被害の状況は Pets.com が何と300億円 の損害、Webvan に至っては何と800億円も損をしています。そしてこれらのバブルでなんと2千700億円もの損害を経済にあたえています。このバブル期の技術系の大手6社の価値がなんと165兆円の価値でアメリカのGDP の何と20%に値したとのこと、もちろんバブルがはじけてその値が半分以下になるのですが。

結局このバブルを演出したのは Venture Capitalist でありそして Wall Street でした。Dot.com の会社を上場させて大きなもうけを受けたのはWall Street だったのです。中身のないDot.Com をすごいValue で上場させます。 このときWall Streetは上場時の値段よりも大きな値がつきますから、上場時にすでに大きなもうけがはいります。Venture Capitalist もすぐ株が売れるので大儲けす。しかし従業員は6か月の後にしか売れないので結局は従業員には大したお金がはいらないのです。もちろん早めにM&A されればある程度のお金ははいりますが。Bubble の期間があまりにも短かかってので、結局はそんをしたひとたちの方が多かったのです。

その後のWall Steet はまたまた新しい金融商品を開発します。 それが例の Sub Prime Loan です。ここでもまた再起不能になるぐらいのダメイジを世界経済にあたえてしまいます。 このため住宅ブームを呼び起こししかもお金のない人たちに無理やりにLoan を出したのです。そしてその債券を再販してさらにもうけているのです。今その 後遺症のためにローンを払いきれない人たちの家が銀行に取り上げられてそれが何万建という家がアメリカ中の町に放置されているのです。これがリーマンショックとなり金融危機をまきおこしたのです。

並みいる実態のないインターネットの会社がすべって店じまいをしました。そして華々しく数100億をつぎ込んだ会社がとうさんしていきます。これこそ人間の欲がなさしめる縮図でした。経済を大きく発展させたといわれる大きな評価を受けたFRBの議長 Greenspan  氏 彼は経済は市場の自浄力で解決するのだと言って結局野放しになって経済が破たんします。 経済運営の神様みたいな 氏の評価が一遍にして 地におちてしまいました。 バブル崩壊まえに Greenspan 氏の The age of Turbulence  という本が大ベストセラーとなりましたが。バブル崩壊後にはわすれされてしましました。

欲に根ざした経済政策は結局破綻するのですね。 投資家も欲というのをじっくりみきわめて投資を考えないと結局はバブルに遭遇します。 稲盛さんは 決断する時いつも“動機善なりや, 私心なかりしか。”と自問したそうです。 それがKDDIを成功させ多くの会社の再建をなしえたのでした。 今回JAL の再建にもこの自問自答をされて取り組んだのです。Wall street の連中には “これは欲のために行っていないか。これは世の中のためになっているのか”を絶えず心に問いただしながら活動してほしいものです。そうすればバブルにならないで経済が発展できるのです。

江戸時代の農民救済に努力した二宮尊徳 沢山の業績を残したにも関わらず自分はこの活動から一銭の利益もあげず相変わらず清貧にあまんじたという。江戸時代の寺小屋教育がこのような偉人を生んだのでしょう。武士道とは貪欲を一番嫌ったのではないだろうか、だから武士は食わねど高楊枝だったのでしょう。またサムライの子供たちが寺小屋で素読を基にした漢籍の古典から習い徳を積むことが自然に身に付いたのだと思われる。 また明治期になって日本の経済発展のために沢山の銀行を起こしまたいろんな会社を興した渋沢栄一みたいな人がいたからこそ日本の国力もついて、世界に伍していけたのだろう。だから彼は “論語と算盤”という著書をのこしたのでしょう。

中国をはじめ東南アジアの諸国が欧米の植民地になったのに比べ日本が其の難をのがれえたのも明治政府の要人が武士道精神を持って滅私奉公で国を守ってきたからに違いない。しかも当時の為政者は私心を捨て国のためを思いがんばったのでしょう。

明治政府の要人が岩倉 使節団として1年間も国をあけて世界中をまわり各国の憲法を調査さらに 経済 法学、化学技術を眼のあたりにしこれを我が国も持ちきたし世界に伍していける体制を整えたのは大変な見識だし素晴らしい人たちだったとおもう。大政奉還からそしてサムライの世界から現代えの転換を見事に成し遂げた当時の若者の偉大なこと。当時の世界情勢をよく見極め世界を見ていたことがこの業をなす根幹となたのでしょう。当時のGlobalization  は大したものですね。 意気に燃える青年がいたことまたGlobal に物を考えられる素地があったことが方向を誤らなかった理由でしょう。長州、薩摩の若者たちの燃えるような愛国心が日本の明治を作り日本を世界に伍していける国を作ったのですね。寺小屋の教育の賜物だと思うし、漢籍の古典の思想の賜物ではなかったのでしょうか。

やっぱり私欲を一番押さえてこれたのが大をなさしめたのではないでしょうか。今世紀の数々のバブルを見るにつけ、この私欲を排除するという意識での経済活動をしない限りバブルはなくならないでしょう。 アメリカのWall Street  が自分の活動にあるいは経済活動に、これは人のため世のためになっているかを自問自答しながら活動すればバブルにはならないのでは。

稲盛さんの言葉を借りて、“動機善なりや、 貪欲なかりしか。” これがバブルを避けるための経済活動の大前提です、そうでないとまたまた大勢の貧しい人たちが犠牲になっていきます。今の中国の不動産バブルリーマンショック の再現のような危機をはらんでいます。

兵たちの墓標

平成の咸臨丸-青木Foundation

青木Holding の青木擴憲会長が 長野県の優秀な中学生の見分を広めるために中学生を世界に派遣して勉強してもらうために奨学金を用意された。2年に一度10名程の中学生をヨーロッパ とアメリカに送り込み勉強してもらう。今回は春に、ロンドン を訪問しこの夏に ニュヨーク、ワシントン、シリコンバレイの旅が企画された。 私はシリコンバレイの企画に参画しました。サンフランシスコ到着後すぐに Gilroy の花栽培の大農場を見学してシリコンバレイにかえり我が家でDinner をした。次の日に HPのガレージの見学、Google を訪問 その後 皆さんはUC Barkley を訪問しました。

8名の研修生各々個性豊かでしっかりと自分の意見を持ち、将来を真剣に見つめている姿は頼もしいかぎりでした。夢を持って行動している子、 又これから自分の夢を探すのだと頑張ている子、皆大きく羽ばたけるような子供たちでした。

何時もは日本の大学生達と向き合っていたのですが。中学生は大学生と比べてある意味ではもっと意気揚々としているようなきがします。シリコンバレイの話とアメリカの起業家の話、スタートアップの仲間のはなし、シリコンバレイの 挑戦する若者たちの話をして彼等を鼓舞してあげた。

Google 訪問、開発のエンジニヤーマネジアーがGoogle でどんな開発がおこなわれているかを説明してくれました。そしてGoogle のMission Statement をまず一番初めにせつめいしてくれました。曰く“Google’s mission is to organize the world’s information and make it universally accessible and useful.”と言うことでした。そして色々な開発が何時もこのMission Statement , にかなっているかをチェックしているようです。これは全従業員に徹底しているようです。質疑応答で生徒の一人が Google はFace Book と競争するために何か新しいことを考えているのかとの質問にたいして、Face Book との競争ではなく Mission Statement にかなっているかどうかが問題でFace Bookとの競争はかんがえていないとのことでした。生徒の皆さんはこの点わかってくれたかはさだかではないですが、さすがにGoogle は一貫して Mission Statementを尊重しているようです。青木さんの心積もりは将来の日本の総理大臣を作りたいとのことだった、だから“平成の咸臨丸“と名ずけてこの企画がなされています。別れ際に皆さんが将来大臣になったとすればどの大臣になりたいかの質問をしたら、外務大臣候補者が4名。経済産業大臣が一人 、文部大臣が一人、厚生大臣が一人そして総理大臣が一人でした。頼もしいかぎりです。さすがにGlobal な子供たち外交官志望がおおいようです。

青木さんのこのような活動を今後とも続けられるそうですので頑張ってほしいとおもいます。又同じような試みをいろんな所でやってほしいものです。

Gilroyを訪問した際に、Gilroyで活躍してい内田さんが、ギルロイと青森の田っ子町との姉妹都市で毎年高校生がお互いの町にHome Stay してお互いの国のことを勉強していることを説明してくれました。外国を見ることによって日本のことを見直すことができるのだと話してくれました。

この企画に参加した子供たちはGlobalization に目が開け将来地域をかつぎ、又は日本を背負って行く人材となることかとおもいます。

私が投資しているインドの会社の若き社長にこの青木さんの活動を話したら是非彼も学生をインドに呼びたいといってくれた。 それには売上を上げて利益を早く上げてほしいとたのみました。

私も一生懸命に会社をサポートするから2―3年以内にお金を作って学生をインドに呼ぼうねとちかいあいました。 ご期待ください。さてこれから投資したインドの会社の盛り上げに頑張なければ、3年後はインド行きも企画にくわえてもらいましょう。


8人の侍と守屋指導員と共に


今日は昼食抜きだったので皆さん頼もしくたくさんたべてくれました。


付き添いの稲川弘子さん、Joel Tiala さんそして、
青木Foundation の守屋ゆりさんと生徒達。


素敵な寄せ書きです。


Google の新しい試み風船を上げて太陽電池で動くLocal Router を沢山上げてInternet のないところをCover する、New Zealand で実験済みAfrica での実用を狙う。


Google 訪問


Ted Uchida さんの案内で Gilroy の花の栽培をしているところを見る。

天空の仏教都市、高野山を訪ねる。

空海(弘法大使)は777年に生まれ頭がよかったので奈良の大学で勉強します。しかし儒学では世の中の矛盾は解決できないと、大学をやめて修験者に交じって自然の中で荒業をしながら修行していきます。吉野の金峰山、四国の石鎚山、そして土佐の室戸岬の洞窟の中などで修行をつみます。修験者(山伏)は鳥取の大山、山県の羽黒山、吉野の金峰山 などの霊山と言われるところで修行をつみます。とても大変な荒行のようです。四国の石鎚山には登ったことがありますが、頂上近くの最後の50メーターが凄い岩の絶壁になっていてそこには鉄の鎖がつけられていた。勿論昔はこんなものはなかったでしょうから命がけでのぼったに違いない。今では頂上の近くに山小屋がありそこで味噌汁を御馳走になり大変うまかったことをおぼえている。石鎚の頂上に登り詰めると見晴らしがよく瀬戸内海の向こうに本島の山々がみえた。友人で羽黒山で修行している山伏の話を聞いたことがありますが。一日おにぎり1個と沢庵ひときれで1週間険しい山を歩いて修行するそうですが。終わって麓に帰ってきたらお菓子にむしゃぶりついたと言っていました。大変な荒業だそうです。日本は八百万のかみ神が霊山に棲みそしてまた仏も霊山に居られるから人里離れた山には自然かの霊気がただよっているものです。修験道者も仏教の求道者もこのような場所をさがして修行したのでしょう。修行は体力の限界の中から何かをみいだすのでしょう。天台宗の千日峰回行の修行も又自然から学ぶための修行のように思われる。空海は四国の室戸岬の洞窟で修行しているときに明星が口に飛び込んできて悟りを開いたと言う。

西の入り口にある 大門 ここから弘法大使の廟まで4.5キロ程。

804年空海は遣唐使が使わされる事をしり、自費でこの船にのります。当時の遣唐使は国の金でまかなわれていたからもし自費で行くならもの凄く高いお金ではなかったかと思われる。空海は金集めが上手だったのだろう。唐にわたってからも仏典の筆写の費用、仏教の法具の購入などに多くの金をつかっています。まさしく平安時代のEntrepreneur だったのです。日本に仏教をもちかえるための信念にかられてお金も修行もしゃにむに頑張ったのです。当時の金持ちは豪族か或いはお寺或いは天皇家ぐらいだったとおもう。だから心当たりの多くの人達からお金を集めたに違いない。プレゼンテイッションがうまかったか、情熱がほとばしって人の説得がうまかったのか。或いは日本の仏教のためにと強い信念のために人を説得できたのだろう。

考えてみると聖徳太子の頃からお寺だけは立派なものが建っている。聖徳太子が遣唐使の派遣を考えてから中国のお寺の建設の技術が入ってきたに違いない。それにしても法隆寺、四天王寺、などのすばらしいお寺を作るにも相当のお金が必要だったと思う。国のお金でないと難しかったに違いない。それが空海は金剛峰寺のような壮大なお寺を作るのには沢山の浄財を必要としたのでしょう。この浄財を提供する市井の人たちもお金持ちが大半だったと思いますが、他にも沢山の人達が少しづつ提供して大きなお金となったと思われる。これこそ今のエンジェルインベスターに、似てしかもドーネーションですからそれだけ信仰の篤い人達が信仰のためには自分を犠牲して資金を提供したのだろう。西洋の教会は権力、即金持ちだから簡単に素晴らしい教会がいたるところに立てることができたのです。

主殿(総本山金剛峰寺)屋根には水桶が備わっている火事の時の火消し用

不動堂 (金剛峰寺)素晴らし屋根の曲線です。

金剛峰寺の蟠龍庭(ばんりゅうてい)日本最大の庭園兎に角すばらしかった。

奥の院の入り口

奥の院の弘法大使廟までの2kメートルにわたり歴史上の有名な侍或いは詩人、或いは戦国大名の霊屋、墓標、供養塔、その数は何千とあります。そしてまた近代の企業の供養塔や顕彰碑がたくさんあります。小松製作所、化学会社、松下電器などなどたくさんです。日本の先祖崇拝のあらわれです。ですからこれらの会社或いは侍の子孫が毎年ここをおとずれたものとおもわれます。企業の場合などは大勢に人達がおとずれるのでしょう。

毎年訪れる訪問者のための宿坊が沢山必要だったのでしょう。そのため弘法大使も数軒のお寺の建立に力をかしたりしています。 そしてまたこの宿坊には必ず本尊が祭られています。阿弥陀如来像、数々の菩薩そしてまた不動明王などが有名な仏師によって作られています。宿坊には数体の本尊がおかれています。兎に角空海は素晴らしい経済圏をつくりあげたものです。これこそentrepreneur(起業家) の最たるものです、空海はどうして資金をあつめることができたのでしょうか。

当時の遣唐使は20年と言う滞在期間で唐におくられています。さすがに宗教をもたらし文化をもたらすためにはそれぐらいの年月がかかるのでしょう。時の権力者はそこまで理解して遣唐使を派遣していたのです。ところが空海はわずか2年で密教とそして唐の文化、技術を日本にもたらしたのです。空海は唐の密教の祖、恵果阿闇梨に逢った、恵果は空海をみるなり、ああこれが私のおしえを受け継ぐものだと直感します。それから恵果阿闇梨はものすごい勢いで空海に密教の奥儀を伝授します。そしてわずか3カ月で恵果は死んでしまいます。しかし空海はこの間にすべての法嗣を受けたのです。この為中国側の法灯は途絶えて日本に移ったのです。道を極めた人は、人を見る目があるのです、ですから空海と会ってすぐ空海が自分の教えを引き継いで行く人だと分かったのです。空海は密教の他に中国の文化を理解しそして土木工事の技術をも身につけて日本にもっていきます。農業が主体の経済においては土木工事がどれほど役に立ったことか。そして大きなお寺を作る技術も日本に持ち帰ることができたのでしょう。日本の大工の匠はこの為に益々磨きがかかったものとおもわれます。

高野山は約800メートルの山の上にある平坦な土地にできた町です。周りは1000メートル級の山々に囲まれています。ここに空海は天空の仏教都市をつくるのです。

昔は女人禁制の場所で女人口までしか入れなかった、空海の母も女人口のそとに家を作り住んでいたという。戦乱の世の中でどちらかの権力者に拠ってしか生きられない時高野山はどちらにも組しなかったから戦乱をまぬかれています。一方比叡山の方は僧兵などを大勢抱えて権力を行使していたので信長の 焼き討ちに逢い本堂は焼けおちほとんどの 僧侶が殺されてしまった。その後秀吉が高野山にも食指をのばしますが。武氏出身の僧 木食応其 が仲介して存続できたその後秀吉が帰依して高野山の存続が確保された。これも庶民の仏教としての密教がもたらした功徳かもしれません。

高野山の町はわずか128平方キロメートルに小さな町です。しかしこの小さな町に123軒のお寺があります。そしてそのうちの50-60軒が宿坊をかねています。鎌倉時代、そして徳川時代にはいって、平家、源氏、そして豊臣、徳川の菩提寺、など、他に霊屋、供養塔などが何千と建てられこれにお参りする人々が毎年何万人と訪れて宿坊にとまっています。当時のたとえば徳川時代初期の訪問者を推察してみるに

たとえば宿坊とお寺を含めて100軒とする 年間之訪問客が一軒に500名とすると そして一人1万円の宿泊料とすれば約5億円の経済効果となる。そのほかにお土産やとか 籠やとか色んな商売があったでしょうからこの4-5倍程はあったでしよう。 20億として今の価値にする場20倍ぐらいに考えれば400億の価値です。 空海はやっぱり日本一の企業家だったのですね。明治の起業家そして昭和の大企業家と並び称されてもいいような企業かではないかとおもいます。

金剛峰寺のその後の修復に明治の頃の寄進者の立て札がずらりと並んでいる、曰く 一金千円也、どこどこの何とかさんと言うセメントの立て札が沢山ならんでいる。 多分今の金にしたら一千万円ぐらいのかちかもしれません。
これぞ見返りを期待しない投資資金なのです。これぞシリコンバレイの投資家の心意気のお金です。日本もこのような投資家が沢山いたものですね。そうでないとあの壮大なお寺は維持できないです。このように日本経済は仏教の信者の寄進に拠るお金でお寺を中心とした経済を作り上げていたのです。もしかしたら今お金を持っているのはお寺ではないだろうか。このお寺のお金をベンチャーキャピタルの運用に回してもらえば日本経済ももっと早めに回復するのではないだろうか。

空海は Globalize(国際化) された素晴らしい起業家であり又宗教家であったと思う。

遍照光院の精進料理のDinner 豪勢で食べきれなかった、
食べてしまってから写真をとった。

編照光院という宿坊にとまった 本尊は柿不動尊 であったそして阿弥陀三噂、不動明王などが安置されている。これも大変なお金がかかっていたのでしょう。この宿坊も空海が建てたと言う。朝の勤行に参加させてもらった、そして阿字観を経験させてもらった、阿字観は座禅をして自分を無の境地にして仏を見るための行為です。30分の座禅ですが。足が痛くて自分を無にすることなどはまず無理であった、御坊さんにどうですかと聞かれたので足が痛くて それどころではありませんでしたと答えたら、残念そうな顔をされたので恐縮してしまった。

阿字観はこの絵も前にして我が心を無にして仏をみることです。

一泊のたびでしたが 空海のベンチャー精神をみて日本は今こそベンチャー企業を育てないと国がシュリンクしていきそうである。 お寺のお金をどうかベンチャーキャピタルに預けて運用させてください。 先の朝鮮総連の建物跡を鹿児島の僧侶が49億円で買おうとした所を見てもお寺に沢山のお金が遊んでいるのでは。真言宗、天台宗、その他浄土真宗、そのた諸々にお寺が日本経済の発展のために浄財をベンチャーキャピタルキャピタルに預けてほしいものです。
そんな思いをした高野山でした。

弘法大使像 に水をかけて奥の院にすすむ。

奥の院入口ここで皆さんはお経をあげてから境内に入っていった。

Hochiminh Visit March 21st, 2013/04/06

初めてVietnam を訪問した。
Hochiminh 市でソフトウェヤ を開発している会社をたずねた。

フランス領であった町は昔の面影を残し意外ときれいな街だった。大きな交差点はロータリー式で信号がない。三方,四方から来る車は見事にお互いの流れをみださないようにうまく流れていく。秩序を乱さないようにスムーズ に流れている多くのバイクが見事な流れとなっていく。台湾で見た、北京で見たあの流れとは一寸違っているみたいです。国民性なのか。ところが交差点で信号がないところがあるまず横断することは不可能だったせまい道で横断しようとするとバイクはまず止まらない、わたるのは必死であった、結局街の人がわたる後についていったユックリと歩いてバイクが避けるのを見て長い間かけてやっと5メートル程の道を横切ることができた、急いではいけないバイクの人におれは今わたっているのだと理解させるようにユックリ歩くこれもリヅム、流れをうまくつかまないといけないようです。ここでの生活活動はこのようなタイミングでしないといけないのだろう。

車もバイクも流れを乱さないように同じリズムで流れていく。

街の市場は賑わっていた。大体どの国の市場は同じようにごちゃごちゃしているしお客の値切りと真剣に対応している。ベトナムは コーヒーが美味しかったので粉とコヒーを濾すためのカップをかう。

市場は賑わいをみせていた。経済は順調のようだ。


街はフランス領の頃の名残でヨーロッパ風の建物が多い。


フランスのオペラハウス に似せたサイゴンのオペラハウス、
街の中心は素敵だ。

2007年06月23日 11:55 発信地:ワシントンD.C./米国
2007年【6月23日 AFP】ジョージ・W・ブッシュ(George W. Bush)米大統領とグエン・ミン・チェット(Nguyen Minh Triet)ベトナム大統領の会談が22日、ホワイトハウスで行われた。1975年のベトナム戦争終結以降初のベトナム大統領による訪米となったが、全米各地でベトナム国内の人権問題に対する抗議活動が起こり、会談の中でもブッシュ大統領もこの問題に言及した。

ベトナムの歴史は18世紀にフランスの植民地になって以来数々の戦争にまきこまれた。1940年に日本軍が進駐した。日本軍の進駐は逆にベトナムを独立させるきっかけとなった。日本軍を 救国の神兵 として歓迎したと言う。だから親日なのかも知れない、東南アジアの国々は大なり小なり日本の侵攻により彼らの独立を促進した事は否めない。日本の敗戦と共にベトナム革命がおこりホー、チ、ミン 引きるところの共産国家が宣言された。これからが18年に及ぶ戦争の渦の中にまきこまれるのです。フランスとの戦いや さらにアメリカはフランスを支援するために、アイゼンハワー大統領の頃ベトナムへの援助が増やされた。1946年、ケネデー大統領になってさらに援助が増やされていく。そしてJohnson 大統領になっていよいよ、米軍の投入となっていきます。ソ連とアメリカの冷戦が進行するにつけ戦争ははげしくなっていきます。アメリカは共産主義のドミノ現象を食い止めるべくますます兵力を増強していきます。北ベトナムは中国、ソ連から援助をうけます。南ベトナムがアメリカからの援助で代理戦争の様相を呈していた。このベトナム戦争において米軍は 54万人の兵力を投入しそのうち5万8千人が死亡した。一方南北ベトナム人は何と2百万人が死んでいる。この為ベトナムの人口は若い人が大半をしめている。米国との戦争においてはるかに優れたアメリカの近代兵器、ヘリコプターを使った機動力そしてさらには化学攻撃枯葉作戦などの攻撃に耐えて遂にはアメリカをベトナムからおいだしてしまった。ベトナムは 唯一アメリカを撃退した民族だと思う。これもホー,チ、ミンの偉大な人道的な指導力に拠ったものだと思う。ホー,チ、ミンは若くしてフランス、中国、ソ連などにわたり社会主義国家の建設のために努力した。そしてまたアメリカにもわたり英語の習得にも努力している。このような人物ありきで初めからグローバルな考えでベトナム人をリードしたようです。グローバルにものを考えるとは いつの時代でも大事なことなのだ、日本の明治維新も政府の要人が1年以上にかけて世界を見てきたからあの素晴らしい発展ができたのです。ホー、チ、ミン 御爺さんもしかりでした。日本の若者ももっと若いうちに外国を見て回ることが必要ですね。ベトナムの現在の指導者も多分にこのホー,チ、ミン の感化を受けた人達が多いに違いない。

1975年米軍がサイゴンから撤退した。ヘリコプター でサイゴンから脱出する映像は世界各国に放映された、その中に南ベトナムの要人が多数ふくまれていた。最後の副大統領だった、グエン、カオキ 少将もふくまれていた。

2007年6月23日 にベトナム戦争が終わって初めてベトナムの大統領がアメリカを訪問ジョジ、ブシュ 大統領と会談した。そして帰国の前にベトナムからの移民の多いサウス、ロスアンジェリス(little Saigon) でベトナム大統領とベトナムの経済界の人達とアメリカの産業人とのレセプッションが行われた。 友人のロバート、リーがこのレセプッションのアメリカ側のコミテーになっていたので私も参加させてもらった。 ホテルの外ではベトナム人を主体の人権問題に対する抗議デモがあった多分共産党時代の人権無視などに抗議していたのではないかと思われた。レセプッションが始まってベトナムの大統領が入場しメインゲストとの挨拶がかわされた。そして何とかっての敵グエン、バンチュー 少将がいて大統領と握手を交わしているではないか。そしてお互いに親しく歓談を始めたのです。時の流れは過去を流し去って今は同じ民族としての血のつながりでしっかりとつながっているのでしょう。 この時の訪問で確かベトナム政府は 100憶円程の契約が成立したとその後の報道があった。この元首の訪問は経済外交のいいチャンスなのですね。安部総理大臣が今回のロシヤ訪問にも経済界から百名以上の人が参加しているので国家元首の経済外交は確かに効果があるようです。このレセプッションにはIntel のエグゼクテブが参加しておりこれがベトナムにインテルの工場を作るきっかけとなったようです。ベトナムは 戦争中に2百万人が死んだというそのせいで今は20代30代の人が大半です。ベトナム人は勤勉で真面目にはたらいています。 親日であり、又日本人の気質に良く似ています。中国人に対しては警戒心が強いようです。ソフトウエアーの開発がさかんです。 そのうちインドなどのようにソフトウエアーの産業が大きくなるのではないかとおもいます。日本の企業も沢山進出し工場を建てているようです。中国の不安定さ賃金の上昇をみるとベトナムは労働の質、従業員の安定性などを見る限り今後発展が期待できそうです。日本企業が沢山進出してくることでしょう。

東京の桜

3月25日San Francisco から目黒に帰ってきた。目黒川の桜はもう最盛期でした。何時もより2週間は早い開花です。何だか異常気象で夏のような暑さと冬が交互にきたそうです。何時もは4月初めに目黒に帰ってくるのだが今年は3月末に来てよかった。それから又雨が激しく降る日が続いたり、又夏みたいな日になったり桜も大変な気候に悩まされたのでは。目黒川の両側はその支流五反田近くまで桜の名所となっている。

我が家から毎朝1時間程散歩して桜をたのしんでいる。
日本はほんとに桜がすばらしい。桜の下で会社の連中と酒を酌み交わせて歓談している姿は何となく微笑ましい。
これが日本のコミュニケイッションの重要な一つなんだろう。
東京の桜の名所千鳥が淵と靖国神社にもいってみた。


目黒川の桜

願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ 西行
おしなべて 花の盛に なりにけり 山のはごとに かかる白雲
山家集 西行


目黒川の桜

桜花今ぞ盛りと、人はいえど、われは寂しも、君としあらねば、
大伴 池主

花の色は移りにけないたづらに わが身世にふるながめしまに
小野小町

花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり


靖国神社には桜が にあう、

しき島の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花
本居宣長


千鳥が淵の桜

久方の 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ
紀 友則

目黒川 花のピークから 2週間その間 嵐の様な強風と雨に花はすっかり落ちでしまった。
そして緑の葉が鮮やかに夏をむかえようとしています。

昨夜(4月6日)の強風で花びらが川面に浮かんでいる。ソメイヨシノ と八重桜の新し花弁が混ざってみずもに美しい綾をなしてくれる。ソメイヨシノの終わりを告げて八重桜が変わって春をつげてくれる。

久方の 光のどけき 春の日に しづごころなく 花の散るらむ
紀 友則


目黒川のしだれ桜

自然の営みはみごとです。 ソメイヨシノがすっかり花を落としたらリレイ 競争のバトンタッチのように
八重桜がさきみだれました。

いにしへの 奈良の都の八重桜けふ九重に にほひぬるかな
伊勢大輔(いせのだいふ)

我が故郷与論じま

久しぶりに与論島を訪れた、与論の田中教育長から島の人たちと与論高校の後輩たちにSilicon Valley の話をしてくれと依頼されたので、母の一周忌でもあったので墓参りを兼ねて尋ねることにした。与論島は周りわずか25km、人口5000名の小さい島です。
島の一番高いところが90メートル でそこに城あとがある。ここに琴平神社があり島の中心となっている。実家がこの神社の近くにあり、懐かしい場所である。
琴平神社の絶壁の崖を降りていけばシゴーの海がすぐそこにある。この海が我々子供たちの遊び場であった。しまはサンゴが隆起してできた島なのでどこもサンゴの石ころだらけです。シゴーに行く途中の崖がサンゴの岩棚になっておりここが昔の風葬のあとであった。

空からの与論島

与論島は今では火力発電所がありさらに水道が全島にひかれている。
サンゴでできた島なのでいたるところに鍾乳洞がある、実家の裏にもあった。
家の近くには“ヤゴー”と言う鍾乳洞があったここはきれいな水が自然に出来たサンゴの雨桶(とい)を通ってながれていた。この水が近所の人たちの飲み水であった、一番先が飲み水を汲むところでその次が野菜などをあらうところ、そのあとが洗濯する場所であった中は結構広いので子供たちは一番後ろで水浴びをしていた。当時はふろが我が家にはなかったので何時もここで水浴びをしてふろ代わりにしていた。お袋は毎日ここに飲み水を取りに桶に水を入れそれを頭に載せて2,3回往復していた。そしてそれを大きな水がめに入れて毎日の飲み水と炊事の水となっていた。”ヤゴー“は家からほぼ100メーター程のところだったが重たい水桶を頭の上に乗せて運ぶのは大変な作業だったとおもう。
数年してから兄貴がドラム缶を手に入れてきてそれに水を入れて風呂を沸かしてくれた、いずれにしてもヤゴーからの水が必要なので何回も風呂に入れるわけではなかった。
ヤゴーの水浴とシゴーの海が我々のお風呂場であった。
今は各家庭に水道がひかれ立派な風呂もついている。隔世の感がある。
ヤゴーも今は見ることもなく忘れされている。

城跡から沖縄本島が見える。

久しぶりの島なので島を一周しようと想いたった、周囲25km、5時間もあればあるけるので茶花の町をあとにしてあるきはじめた。しばらくすると後ろから来た車が止まってどこに行くのかと言う、グスク まで行きますと言ったらそれは大変だ送ってあげるから乗りなさいという。いや歩きたいのでいいですと断るが何としても連れて行ってあげると言う。多分自分の仕事があるはずですが。何べんもことわっても兎に角乗れと言うついに諦めて乗せてもらうことにした。さてグスクに着いたからもう後は車はこないだろうからゆっくりと昔の畑道をのんびり楽しめるなあと思ってあるきだした。20分もしない内に又車が来て止まった、そしてどこに行くのかと聞く大金久の海岸まで歩きたいのだと言った、そんな遠くまで大変だから乗せていくから乗れと言う。色々失礼にならないような理由を並べたが又これ以上ことわったら親切を無駄にしそうなのでついにお願いして乗せてもらうことにした。ついに私の与論一周の夢は実現しなかった。この次はなにがなんでも島一周したい。或いは与論一周マラソンのある時にもう一度たずねたい。

室生犀星 の詩、
ふるさとは 遠きにありて思うもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

ふるさとは乞食になったら帰りたくないと言う、しかしこの島は乞食になった時にも帰ってこれる島ではないだろうか。

与論島何の取り柄もない島ですが。ここに帰ってくると落ち着けるし、何もしなくても心が安らぐ、故郷と言うものはそんなものなのでしようね。
作家の島尾敏雄さんは、与論に2回ほどたずねたようです。 その最初の訪問時にエッセイをのこしています。

島尾敏雄全集から
私は都会に生まれそして育ったが、自分を手がかりにして人間を知るための方法をその都会の中では会得しにくかったように思う。すべての人間世界の[進歩](とひとまず言っておくが)の中でその[進歩]の調子に疑惑の気持をいだき始めてから、ある意味ではあとづさりの方法をかんがえた。

戦線を整理し始めると、自分がたしかにつかみとれるかぎられた世界(この場合かぎられたというのは, 平面的な広さのことを言いたいのだが)私の目のまえに大きくすがたをあらわしはじめた。そのとき私には辺地がたいせつな意味をもちはじめる。都会は魅惑を内にしたまま色あせてこわばりはいめ、辺地はやわらかく心象を広げてくれる。

その自分の責任を管理で来るだけの広さ(実際にはせまい場所)に自分を重ねて投入することによって、私ははっきり自分を確かめることに希望をもつだろう。その時すでに。現実のせまさ、その境界を越えてふくらみ始めるだろう。私の心象のなかでは。与論島は、狭い小さな弧島ではなく,なにかいいあらわすことのできない広さとしてとらえられている。
[島尾敏雄の与論島より]

作家の森瑤子がこの島に住み着いたのもこの自然だったのでしょう。
親戚の内から抜け出して“シゴー“の海に裸で飛び込んできた、泳ぐと言うよりは浴びてきた。どこの海よりもきれいな 澄んだ海でした。

百合ガ浜と言う潮が引くと浜辺から1.5メトル程先に突然砂浜 が現れるそこまではボートで連れてくれるし或いは泳いでいける。素敵な砂浜です。そしてそこには星の砂がいっぱいあります。ある夏に息子を連れてお袋に会いに行く、息子に親父の故郷を見てもらいたくて連れていいた。先祖の墓参り自分の過ごして島をじっくりと見てもらいここが私の心のふるさとであることを認識してもらうためにつれていいた。同じく娘を次の年につれていった。
今は息子はアメリカで医者をしている。 娘はパリでTV向けの広告用の映画の制作をしている。この何もない自然の島を二人とも楽しんだようだ。

与論小学校のガジュマルの木

昔、通った与論小学校によってみた。校庭の隅に大きなガジマルが昔と変わらない姿で立っていた。昔はよくこの木の下で遊んだものでした。
校長先生に会って話しを聞いた、学校にはすでにFiber が引かれ子どもたちはNet で色々勉強していると言う。この大洋の孤島にまで文明の利器が来ているのです。どんな子供たちが育つのだろうか。

島には大きな産業がない、昔から砂糖黍は生産されていた、しかし作付面積はたいしたことはないと思う。野菜を植えたり、いもを植えたり、落花生を植えたりしないといけないから
それほど砂糖黍に作付面積は裂いていないでしょう。今はほとんどの農家が牛を飼っているらしい。役場の人に聞いたら島内で牛が5千頭居ると言う。島の人口と同じです。
牛がある程度育ったらこれを松坂とか神戸に送り其れが松坂牛 などになるそうです。
牛がある程度与論の経済に貢献しているようだ。

城跡に建てられた日本復帰の記念塔

奄美が日本に復帰した時は日本の最南端だと言うことで大変な観光客でにぎわったようです。夏ばには 何万人と言う人がスキンダイビング にキャンプにきたようです。
今は最南端と言うキャチフレーズ がなくなり元の静かな村になっているようです。
与論の海はとてもきれいです。ハワイなどよりもはるかにきれいです。この自然をゆっくりと味わってほしいものです。

島にはソテツがあります。赤い実をつけます。栗のように硬い皮でおおわれ中にでんぷんの白い実があります。ソテツの実を鉄のガイドの上におき柄のついた刃物で二つに割り中の実を取り出して日に干して毒気をぬきます。十分に乾かさないと毒にあたります。戦争中はこのソテツの実で島の人が飢えをしのんだのでした。
このでんぷんをおこめと混ぜておかゆにしたり或いは麹を混ぜてミソをつくっていた。
おばちゃんとこのソテツの実を割る手伝いをよくしたものでした。今はこのソテツの実も忘れ去られてせいぜい 田端義雄の“赤いソテツの実も売れるころ”の奄美の歌に残っている位ですね。

琴平神社では旧暦の八月十五夜の祭りがおこなわれる。島中の人が御馳走を作りみんなで十五夜を祝う、相撲大会も盛大に行われる。
なお十五夜のおどりは 琉球と奄美の文化が入り混じって特別な趣の踊りとなっています。
このため、重要無形民俗文化財として国が指定したようです。

与論の十五夜踊り

私が生まれた時は 日本は日中戦争のさなかであったそして1941年には日米戦争に突入していた。戦争が進むにつれて日本は段々と敗戦の色がこくなっていた。
B29が日本全土を絨毯爆撃を繰り返し多数の一般市民が殺されていった。
沖縄本島も米軍が上陸する前に同じように絨毯爆撃で大勢の人が死んでいった。
与論島は沖縄の最北端辺戸岬からわずか20キロメートル です。
戦略時に価値のない島ですから米軍もこの島には目もくれていなかった。日本の軍隊もほんの数十名位しか駐屯していなかった。

沖縄に米軍が上陸する前の一週間は 空母や戦艦など数十隻から毎晩のように艦砲射撃が行われていた。与論からは毎晩の艦砲射撃が鮮やかな光となって続いていたのをみることができた。まるで1メートル置きにそれが1キロメートルから 2キロメートル程並んだように砲火を浴びせていた。我々は比較的大きな(多分100名程は、はいれたとおもう)鍾乳洞が避難所であった。
子供たちは一番奥に集められて大人たちは危険がないと判断されたら村へかって行って仕事をかたずけに行っていた。
鹿児島から沢山のゼロ戦が飛んできて敵艦に体当たりして敵艦を破壊したのですが。又燃料が尽きて敵艦にたどり着く前に海に落ちたゼロ戦がたくさんあったと大人たちがはなしていた、のを何回かきいた。このころはゼロ戦の燃料もほとんどなくなってしまっていたのでしょう。
それから毎日のように艦砲射撃の鮮やかな光の軌跡を毎日見ることになった。
艦砲射撃は7日間続けれてその後に米軍が上陸した。
この戦いで日本の軍人および民間人二十万人が命をおとして。米軍もまた一万二千 の軍人が死亡し三万八千人が負傷したのです。尊い人命がうしなわれたものです。
沖縄を占領するのが目的だったし、又与論島の戦略的な価値がないので与論えの攻撃はなかった。
今思うと母が毎日神棚に天照大御神の写真を掲げて毎日のように日本軍の勝利を祈っているのを聞いていた。日本は神の国であった。
何はともあれ子供のころはなぜ戦争になったのかなど知る由もない、ただ 鬼畜米英と言う言葉だけは良くきかされた。

終戦(1945年) の時は6歳でした。そして次の年に与論小学校に入学した。校舎は焼けてなくなっていたので村の人たちが建てた掘立小屋 四隅の柱を地面に立ててそして横棒を通して固定し屋根と壁は萱ぶきであった。
まず学校が始まってから全校の生徒がみんなで浜辺に砂を取りに行ったそしてその砂を床ならぬ地面にまいてその上に座って勉強した。机はもちろんないのでみんな家の人にお願いして空き箱で簡単な机を作ってもらってそれを学校に持って行ってそれで勉強した。
それから数年してからちゃんと床のある教室ができた。
与論小学校では4年生までいて4年生の後半に 名瀬市に移りそこの名瀬小学校に転入した。
奄美の島々は海を隔てて孤立しているので各々が独自の方言を持ちお互い共通したところが少なかった、特に与論と名瀬ではほとんど外国のようだった。名瀬にわたってしばらくは方言がわからなくて苦労した。そのころから標準語を使いましょうと言うことになっていましたが。子供たちはまだまだ方言のほうが使いやすかったようです。

与論では犬を見たことがなかった。名瀬に来てから大きな犬を見てびっくりした。おまけに終戦直後食料難であったので犬達は大変飢えていた。だから目がらんらんして輝き子供なとかみついて食べてしますのではないかと思う程怖かっただから犬を見るとこれは大変だと目を合わせないように犬が通りすぎていくことをひそかに祈っていた。
そんなわけで今でも犬は怖い。

終戦後奄美は沖縄と共に米軍の信託統治となった。日本本土との交通が遮断されました。
日本にはかってに行けなくなったのです。当時は本土に行かなければならない人達はどのようにしていったのでしょう。ビザなんてなかったとおもうし。
大学え行く人や本土に仕事に行く人は密航で島をはなれたらしい。勿論米軍につかまれば罪人になるわけです。そんなわけで島民全員が日本復帰の大運動を展開したのでした。
島出身の詩人の泉 芳郎氏 が先頭に立ってこの運動をもりあげました。
中学生であった私もブラカードを持ち毎回の島民大会に参加したものでした。民族の団結と言うのは大変強いものです、全島の99%が参加した署名運動などもその強さをしめしています。1953年トルーマン大統領の時のダレス国務長官の声明により1953年12月25日にクリスマスプレゼント として奄美が日本に復帰したのでした。中学2年生のときでした。
盛大な提灯行列で島中の人たちが祝ったのでした。
沖縄の復帰はそれからさらに遅れること19年近くになってニクソン大統領の時に佐藤栄作首相との間で日本に復帰することになるのです。
沖縄では戦争中に多くの人が殺されそしてまた米軍の基地を残しいまだ大変な苦労を強いられています。アメリカの基地がどれほどアメリカのアジヤ政策に必要だったかはその後のベトナム戦争或いは中国と台湾の緊張時などで証明されています。そして今又中国との尖閣島の問題を見ても今沖縄に米軍がいることがどれほど助けになっていることか。
しかしとは言っても沖縄の人たちがどれほどこの為に苦労を強いられていることか。
これからの日本の政治はこの沖縄の苦労をどのように軽減していくかが重要な課題ですね。

名瀬では中学校、高校と勉強し、それから東京に出て都立大学で電気工学を勉強し、将来大きな発展が期待できる半導体産業に就職しました。
与論島はサンゴが隆起してできた島なのでハブ(毒蛇)はいなかった。
奄美大島は 古生層の島でハブがたくさん生息していた。ハブの血清ができる前は年間数名の人が死んでいた。だから決して藪の中とか山にはいかないようにしていた。高校3年間で確か一人の生徒がハブにかまれて死んだ。
奄美の中で大島本島と徳之島にはハブがおり喜界島、沖永良部島、与論島にはハブはいなかった。この3つの島はサンゴの隆起してできたしまなのです。だから高い山がない。
東京に出てからはどんな藪でもどんな山でもハブがいないということで大変山に行くのがたのしみでした。そんなので山に魅せられてついには日本中の山を彷徨したものでした。

与論での子供たちの遊びはもっぱら海でおよぐことでした。
魚釣りをしたり貝をとったりでした。
海には沢山の熱帯魚がおよいでいます。我々はその群れの中に糸を垂れて魚が食いつくのを待っているわけです。熱帯魚は美しいのですがちっとも美味しくない。ただ魚を釣ったと言うよろこびだけでした。
サンゴの海は潮がある程度引くとところどころに小さな湖みたいなのができる。この湖を泳いで先のサンゴの上まで泳いで休む或いはそのサンゴの上にあるツブガイ などをとってくるのです。 モリを持って行って岩のなかにいる魚をつくのですが、まずとれないウツボがいるときは怖さが先にたちこれをモリで仕留めるよりは向かってきたらどうしようかと恐れてしまうのが先に立って逃げてしまったものでした。
このサンゴの湖で子供たちは少しずつ泳ぎをおぼえていくのでした。

与論はサンゴの隆起で出来た島なので島中がサンゴの石がごろごろしていました。こんなところを皆裸足であるいていた。足の裏がしっかりと鍛えられてじょうぶになっていたのです。
おばあさんが 草履の作り方教えてくれたので自分の草履を作ってはいていたがすぐすり減ってしますので結局はだしにかえっていく。
足を怪我してもつばをつけておさえておくだけでした。そのうち自然になおっています。
今だと10針位縫わないといけないけがもそのままで海で泳いで消毒して自然になおっていました。
与論は陸から約1.5キロメートル 位までサンゴの岩に囲まれているこの為に船は桟橋には横付けにできない。船と言っても40トンとかあるいは50トンの漁船です。この為名瀬から与論に来る船はおきに碇をおろし、ハシケが迎えに来る、冬などは波があらく本船からハシケに移るのは大変危険なしごとでした。子供のころは身軽だからかんたんにのりうつれたのですが。老人や女性は大変でした。
ある程度の船が横付できる岸壁が出来たのはそれから数十年あとでした。

与論の方言、与論或いは奄美の方言は奈良時代或いは平安時代の古語がそのまま方言として残った言葉が多い。
たとえばこんにちはとは ”ウガミショウラ“ と言うこれは”拝みたてまつる“なのです。
私は今はほとんど方言を忘れています。ありがとうと言う方言をおもいだしてお世話になった田中 教育長に”トウトガナシ“とお礼を言ったら大変喜んでくれてそして島の方言を何とか残そうとして与論の方言で諺になっているのを集めて子供孫たちに伝えたいと努力されています。掛け軸を作りこれを各家庭にくばり子供たちにおぼえてもらおうとしています。
その中の一つを紹介します。

打(ウ)チジャショリ ジャショリ 誠(マクトウ)打(ウ)チジャショリ 誠(マクトウ)打(ウ)チジャシバ、 何恥(ヌンヌハジ)カチュンガ

これは代表的な与論の古謡の一つであり、[打ちだせ打ち出せ、誠を打ち出せ,誠を打ち出せば何が恥ずかしいことがあろうか。否何も恥ずかしいことはない。
英語の説明がある。
Don’t ever be ashamed, if you are sincere and honest.
良いことわざです。是非こどもたちがこれを何時も口ずさんでほしいものです。
昔は論語の一節を唱えながら心に刻んだものです。
“遠方より友来たり又楽しからずや、或いは 、子曰く、徳は弧ならず、必ず隣あり”。

我がこころのふるさと与論島、これからは何回も行きたいですね。

奄美群島

そして 我が人生のマインド マップ

Norman Mineta さんのこと

経済Society でNorman Mineta さんに Life Time Achievement Award を今年の新年会でさし上げることになりました。その席で講演をしていただきました。Mineta さんは日系二世としてSan Jose で生まれた。2000 年から2001年まで Clinton 大統領時代の商務長官として初めてのアジア系の閣僚となった。されに請われてBush 大統領時代の運輸長官として2001年から2006年まで閣僚として活躍された、御存じのように2001年9月11日の 9.11の大変な時にスピーデーな対策を打ちその後の空の安全をかくほされたのです。この時Mineta さんは次のHijack を避けるためにすべての飛行機の緊急着陸を命じた、そうして空の安全を保つための空港のセキュリテイを強化し、空港の警備員や、荷物の検査官の教育など大変短期間になしとげたのでした。

日系人として生まれて大変な苦労をされてこられました。1941年12月4日の日本軍による真珠湾攻撃によって日系人特に太平洋岸に住んでいる日系人は本国にいろんな情報を流したに違いない、そしてアメリカに対する忠誠心がないのでは、としてすべての日系を祖先に持つ人達を強制収容所に入れます。有名なのがカリホルニヤ のManzanar ですが。Mineta さんの家族はワイオミングのハートマウンテン の収容所にいれられます。

総勢11万人にも上る人たちが収容されます。1946年戦争が終わってから収容所から解放されますが。たいていの人たちはもと、持っていた土地や家をうしなっています。そしてみんな無一文から再度の努力で頑張ってきています。Mineta さんは1975年から1995年にわたってカリホルニヤ選出の下院議員として議会で活躍します。1980年にいたりJimmy Carter 大統領の時期になり日系人を収容所に入れたのは正当性があったかどうかの調査委員会が設けられて“個人の正義か認められなかった”と結論ずけられた。ここに至るまでにMineta さんを始め日系の上院議員及び下院議員が色々努力された。Regan 大統領になって正式に政府としての謝罪と $20,000 の保証金が交付された。これもMineta 議員とその他の日系の議員達の努力によります。

今回の東北震災で日本人の我慢強さそして礼儀正しく 秩序正しい行動に対してMineta さんは大変感心されていたそして当人もそのような精神を持っていることに誇りを持っていらしゃる。そして、日本人の我慢、そして災害に対して仕方がないという気持ちそれが正しい行動に導いているのだと言っておられた。やっぱり親或いは祖先から受け継いだ文化がまだえんえんと続いていることに矜持をもっていらっしゃる。兎に角大変立派な政治家として活躍されたMineta さんに感謝したい。新年会は 300名近くの人たちが参加してくれました。Mineta さんの話に感激した人たちが会の終わりの時間を過ぎてもMineta さんと一言話をしようと列が少しもなくなりませんでした。ついに最後まで参加者と歓談していただきました。我々日本人としてこんな素晴らしい先輩を持っていることは大変うれしいですね。最後にDasher 先生から参加者に何かひとことお願いしますとの質問に対して、自分はSan Joseの市会議員さらには市長にもなりました。それは絶えずソサエテイに参加することでなにか社会に貢献できるのだと言われて、皆さんも是非色んな社会的な活動に参加することを勧めてていらしやいました。そして日本の若い人達にお願いとして是非アメリカの大学に留学してくださいと言われた。2011年の外国からの留学生は 中国、インドからの学生が10万人を超えるのに日本からはほんの2万人だったそうです。是非倍ぐらいの学生に来てもらいたい、そうでないと中国インドの若者に負けてしまうと心配しています。 若者よチャレンジしてみてください。アメリカだけでなく或いはインドなどに留学するのもいかがでしょうか。

経済ソサエテーの今年の目標は “Redesigning US-Japan Business for the next Generation “です。峯田さんはこの目標は大変重要なことです、是非がんばってください。と応援していただきました。峯田さんは色んな国家的な賞 或いは表彰を受けておられるのですが。事の他今回の経済Society の Life Time Achievement を大変よろこばれていました。だから最後の一人まで話を聞かれてみんなを激励してくれました。我々も今年の目標のために努力しないといけないなあとおもいました。Chimmy Shioya 会長を始め会を支えてくれたボランテヤーの皆さんありがとう。
来年も良い新年会を企画してください。


日系人が収容された収容所の所在地


Mineta 議員え Life Time Achievement の盾を送るChimmy Shioya 会長


Mineta 議員と 猪俣サンフランシスコ日本総領事御夫妻と


鏡わり。


Reagan 大統領がCivil Liberties ACT 1988 にサインをする  
Mineta 議員は左から二人目そのほか日系の議員がみまもった。

明治維新のカギは奄美の砂糖にあり

大江修造(東京理科大学教授)

先日小平さん 達が始めたエンジエル投資家の育成を目的とする財団法人アーネスト育成財団にシリコンバレイの活動に関する講演をしてきました。グループの中に奄美出身の大江修造、理科大学教授がいらした。講演の後で彼が書いたこの本をいただいた。子供のころ(6,7歳のころ)、与論島でサトウキビを刈り取り圧搾機にかませて砂糖汁を取る作業の手伝いをしたことがあった。当時の圧搾機は回転部分に長い棒をつけてこれを牛にひかせてサトウキビを回転ギヤーにかませて砂糖汁を回収する方法でした。そんな思いでを浮かべながらこの本を読んだ、そして奄美の黒砂糖が薩摩の財源になりそして明治維新の財源になったことを知り大変感激しました。我々の祖先が苦労して日本が外国の植民地になるのを避けさらには明治維新の資金源を提供したことを知り祖先の苦労に改めて頭がさがりました。
砂糖キビは1609年頃奄美の人が中国から苗を持ち込んで始められた。丁度薩摩が奄美の支配を始めた頃にあたる。以前は奄美は琉球の支配下にあった。また当時は琉球は独立した王国であったが。中国の明に朝貢していた。砂糖黍は奄美以南の亜熱帯でしか成長しなかったこのため奄美、琉球が黒砂糖の産地であった。慶長15年(1610年)に100斤の生産数量であった黒砂糖は全島で生産されるようになり、1805年には700万斤となった。当時砂糖は外国から入ってくるだけで高価なものであった。このため薩摩はこの黒砂糖の販売或いは琉球との密貿易によって多大の資金を得た。

徳川時代の政権維持のための施策によって大名達は多大の出費を強いられるプロジェクトを課されていた、その一例が宝暦の治水工事であった、薩摩藩はこの工事のために大変な出費をよぎなくされている。この木曽川、長良川、揖斐川の工事は難工事で薩摩藩は900名以上の人を派遣してこの工事にあったそして 85名の人が死亡した。 このためこの費用として40万両という借金を大阪商人から借りている。この担保が奄美の黒砂糖であった。当時の黒砂糖の生産数量はまだ少なかったので薩摩藩として砂糖の増産を奄美に強要した。このため逆に奄美で大飢饉がおこってしまう。そしてこれを契機に黒砂糖の総買い上げを藩が実施して益々の搾取政策が実施されるのです。

日本が外国の植民地化を避けられた理由。
ペリー提督が来航し日米和親条約が結ばれる7年前にすでに琉球王国では開国させられていた。琉球、奄美には度々英国、フランスなどの軍艦が度々訪れて水や食料をもらいそしてまた無理やりに条約に調印させられている(流球の開国)。これが薩摩藩が外国の驚異を恐れそして軍艦の購入或いは鹿児島湾の方々に砲台を建設して外国への備えをしたのでした。

薩英戦争(生麦事件)
島津久光の行列に英国人 リチャードソンらの4名がぶつかりそれを薩摩の藩士が リチャドソンを無礼者として切りつけてころしてしまう。英国はこれに対して賠償金十万ポンドと犯人の処刑を要求、幕府は十万ポンドの賠償金を払うが薩摩藩は犯人の処刑を無視しました。このため英国は7隻の艦隊で鹿児島湾に投錨します。交渉のために双方で会談が行われたが物別れになり戦闘が始まり薩摩は砲台からの攻撃で英国の艦船二隻を沈没させた。一方薩摩側は砲台を破壊されさらに市街地が砲弾を受け焼けてしまった。英艦の砲弾の到達距離が日本のものよりはるかに遠く薩摩藩の者を驚かせた。これが薩摩藩が後に英国から 軍艦を買うことをうながしたのでした。この戦闘で薩摩側も多くの軍艦を沈められてしまった。折からの天候不順のため英艦も思うように戦えず結局英艦は横浜に帰還してしまう。薩摩の実力を見てこれはこのまま戦えば不利とみたようです。このため薩摩の実力を見て幕府よりも薩摩藩との交渉に重きを置くようになります。 その後薩摩は英国から軍艦を買うことになり逆に友好な相手となり大政奉還への相談或るいは外国との対応などについてのサジェスション などをもらったようです。

この戦いで薩摩藩は外国の技術の進歩に驚き軍艦を買いさらに Globalization に目覚めて数多くの藩士を英国に留学させるのです。(今のSilicon valley へ日本の大学生を送るのにていますね。)当時の黒砂糖からの収入は年間20万両ほどまでにふえていた。 黒砂糖以外の藩の収入は一万両ほどもなかったから黒砂糖が薩摩の資金源になったしこれば明治維新を実現するための大きな資金となったのです。この頃の薩摩の 支出額は 軍艦船舶 126万両、留学生派遣 7万両、大砲など 19万両、合計 152万両 であった、奄美の黒砂糖が担った役割は凄いものでした。この黒砂糖を確保するために 薩摩藩は生産の全量買い上げを行い徹底的に搾取政策を実施したのでした。また江戸への藩兵500ー700名の派遣にも多大の費用がかかっていた。また薩摩から江戸への藩兵の輸送も春日丸という軍艦があったからこそ出来たのです。もしとう時の陸路を馬で出かけていたら多分一ヶ月はかかたでしょう。そうすれば鳥羽伏見の戦いにも江戸城無血開城にも間に合わなかったし、明治維新は実現しなかったでしょう。或いは日本が中国のように諸外国の植民地となってしまっていたかもしれない。テクノロジーの進歩そしてGlobalization は今も昔も変わらないですね。今こそまたもっと真剣にテクノロジー の進歩またGlobalization を考えないといけない時です。

当時の鎖国の世界から外に目を向けていた薩摩の先見の明はりっぱでした。また留学生を送る英断もたいしたものです。流石に島津久光 また斉彬 の藩主 の英明にもよるのでしょう。

西郷と奄美
西郷隆盛は三回奄美に島流しになっている。最初が奄美大島の龍郷村、二度目が徳之島そして三度目が沖永良部島である。月照とともに自殺は測ったが無事助かってその後奄美に島流しになっている。この奄美でのしまならしの三年間が西郷にとってその人間性を磨きまた精神的な支柱を得ることができたようです。特に中国に留学して奄美にいた 岡程進儀 に漢詩或いは漢籍の指導を受けている。その後2度3度の島流しに合うがこの時こそまた西郷の人間性をさらに大きくする機会となった。かれは行李にいっぱいの漢籍を詰め込んでこれを熟読して人間を磨いたのでした。

本書の著者の大江さんは美しい自然、きびしい自然。それに愛加那(島で結婚した妻)を始め岡程進儀、得藤長など多くの人々との出会いで人間性を高めていったと述べています。まさに同感です。

奄美大島は終戦後1946 に沖縄とともにメリカ軍政府の下で日本と切り離されてしまった(二,二宣言)日本本土への交流が遮断された、本土に行くこともできなくなったのです。(いわゆる外国になったのです)。 翌年から日本復帰のために島民運動が展開されました。その後奄美大島日本復帰協議会が結成され(詩人の泉芳郎氏が議長)そして村民を上げての復帰運動がつづけられた。八年後の1953年の12月に日本に復帰したのでした。私は中学2年、及び3年の時にこの民族運動に参加しました。島民の99.9%の署名が集まったときいています。高校に入るときは日本に復帰しており卒業とともに日本にも行けたし大学に進学することもできたのでした。軍政府当時は 通貨は日本円ではなくて B円という通貨がつかわれていました。

兎に角奄美の黒砂糖が薩摩の資金源となり幕末の薩摩の活躍をささえたのでした。篤姫の徳川家への嫁入りの費用にもこの奄美の黒砂糖が大いに貢献していたのでした。薩摩の奄美の黒砂糖の政策はひどいものでした。さらに島民の扱いを徹底した差別待遇で行つた。黒砂糖の全生産量をやすい価格で藩がすべて買い上げ島民にはその価値がどれほどあるかも知らしめなかったのです。一種の税金みたいにしてすべて搾取したのでした。そして明治の世になっても県が買い上げておりそれに気づいた島民が黒砂糖売買運動などを起こしその後にやっと島民が自由に売買できるようになったようです。

今も島民の中に影をのこしていこのような黒砂糖政策での差別待遇が奄美の人たちのあの物悲しい島唄の響きとなったのでしょう。沖縄の島唄のあの明るさとの差となっているのでしょう。

私は与論島の出身なので与論島は島が小さいのであまり砂糖黍は作ってなかったのでしょうね。
奄美大島と徳之島そして沖永良部島が主な生産地だったようです。喜界島の記述を見ないので喜界島も当時は砂糖黍はなかったのだろうか。

1954年日本復帰後に日本政府は奄美復興特別処置法を制定して、確か100億ぐらいの復興資金と投下したようにきおくしています。当時大島高校から数名が東京の大学で勉強していた。夏に名瀬市に帰るたびにみんなで一体この復興資金がどのように使われているかをみんなで島を回って調べてみようではないかと、5,6名でキャラバンを組んで島々を回ることにした。私が登山の経験があるのでラジウスなどの自炊道具を持ち島の学校の宿直室にお願いして寝泊まりをして徳之島、沖永良部、与論島を見て回った。そして復興資金がどのように使われたかをしらべました。やっぱり復興の主なターゲットが黒砂糖の生産のようでした。大きな砂糖工場ができていました。島の人たちにこのような工場を建設する資金もなかったでしょうし、結局は鹿児島の企業が進出してこの工場を経営しているようでした。島の雇用を増やしたことは確かかもしれない、或いは砂糖黍を売ることで収入を得ていたのでしょう。しかしはたしてこの新しい工場が昔の値段よりも高くで買ってくれたとは思われないし、それはまた、ある意味では資本家の搾取に近いものだったかもしれない。ただ徳之島には大きなパイナップル畑ができていたこれは大きな変化だし、亜熱帯の農産物として一つの産業となっているとおもう。2週間のキャラバンをおえて今度はこの探索旅行記を本にすることにしました。 そして大阪で成功されている奄美出身の社長の会社を訪れて寄付をお願いしてガリ版刷りのほん“島” を発行するこができました。 後にこれが南海日日新聞に取り上げられて数回にわたり掲載されました。しかし当時の我々は表面から眺めただけで離島の苦しみ離島の楽しみの真髄に触れることはできませんでした。ただ少なくとも大きな砂糖工場が数軒できたのが復興の証ぐらいの認識に終わったとおもいます。

兎に角この大江修造教授の 本をいただく機会を得てもう一度我が故郷にもう一度思いを巡らす機会ができてうれしく思います。

かって島尾敏雄さんが 名瀬の文化会館の館長をされておられるころ数冊の本を出版されたその一つが“離島の悲しみ、離島の楽しみ”であった私がまだ大学生であったころ出版された、文学者の目からよく離島を見つめてくださった。又奄美の事をよく理解し奄美を愛して下さったとおもいます。戦争中人間魚雷の隊長として奄美の加計呂麻島で其の日が来るのを待っておられてそこで終戦を迎えその後、奄美の女性ミホさんと結婚し、名瀬市に移り住んで、文筆活動をつづけられた。高校生のころに数回お目にかかったことがありました。目のすごく澄んだ方だったと記憶しています。 島尾さんは “死の棘”で昭和35年に芸術選奨を受賞します。そして文壇での地位をきずいていかれます。島尾さんは又奄美の歴史に興味を持ち古書を集めて奄美の歴史に関する本なども出版されています。その中のひとつが “名瀬だより” です。私は名瀬中学、大島高校と名瀬ですごしました。今回の出逢いからアマゾンで島尾さんのこの本を手にいれることができました。名瀬のことハブ(毒蛇)の事そして島の精神生活などがすばらしい洞察力でかかれていました。奄美は島尾さんという作家を魅了することで素晴らしい宝物を得たものです。或いはミホさんという女性と奄美が島尾さんという人を引き付けたのでしょう。島尾ミホさんも又作家として数冊をのこしています。 私の 故郷の探究はこれから始めなければなりません。

北八彷徨

我が心の山小屋 高見石、学生の頃は毎月のように高見石小屋にいったものでした。特に秋には カラマツの葉が黄色に色づくころに出かけたものです。当時は薩多さんが小屋主であった、その後小屋主が代わり現在の小屋主になったようです。アメリカにわたり数十年が過ぎ何時も思い出すのが故郷の与論島と 高見石小屋です。故郷と言うのはどうしても忘れ得ぬ存在ですね。これと言って特徴のあるところでもないのに何時もどっかで思い出されてしまうものです。与論島は小学校4年生までしかいなかったのですが。忘れ得ぬところですね。まるで自分の性格を形成してくれたようにおもわれます。小学校の校庭のガジュマル と浜辺の白い砂そして海で見る熱帯魚が心に残っている故郷です。

高見石小屋もまたかわらぬ元の景色のままでいつまでも昔を思い出させてくれる。だからただここにきてもはや知らない人たちと一夜を過ごして行くだけで満足して又明日からの生活に戻れるものです。日本に帰るたびに一度はここにきています。 それもここ数年からですね。それまでは仕事、仕事で何も見えない自分でした。 しかしここにきてこの素晴らしい山の気を少しでも感じてほしいと 若い人に声をかけてでかけています。今回は みんな忙しく児玉君だけが同行してくれました。

児玉君は子供のころ父親の仕事の関係でBoston ですごしていました。故郷の話になったら彼はBoston ガ故郷だと言う。なるほど小学4年までぐらいにいたところが故郷なのだなあとお互いに認識したものでした。高見石は渋の湯から2時間ぐらいで 登れるので気軽に来れるところです。又冬も小屋の人がトレイルをつけていてくれるので安心して冬でもこれます。冬は山を歩くのでなく山小屋にとどまって小屋の人たちや其の日に泊まりに来た連中と日ながらに話をして過ごすことが多かった。日本の自然はほんとに心をおちつかせてくれるものです。時たまお寺で座禅をしにいくのですが。この自然の中にいるだけでお寺で座禅をしているような感覚におそわれる。そして時折今やっている起業の事を静かに思い出すこともできる。だからこういう場所をもっているということはしあわせです。

このような山を歩くことによって宇宙の気が自然にわが身しみ込んでくるように思う。そんなわけでこの山は自分にとって英気をもらいに来るような場所です。北八は 南八 に比べてなだらかなやまなみです。 南のゴツゴツした急な山と違いなだらでやさしい山です。茅野から麦草峠 或いはピタゴラス ケブルカーで北横岳の麓まで行き後はなだらかな山裾を麦草に向かって行くとゆっくりした山歩きができ麦草ヒュテ、白駒荘 そして高見石などに泊まることができる。高見石から眺めると北八がゆったりとなだらに連なっていて素敵な景色です。白駒池が森の中にひそかに浮かんでいます。

高見石からのパノラマ、
児玉君がIphone 5 をもってきた、このパノラマ写真が Iphone 5 の作品です。180度カメラを回すと其の光景がすべてこのように素晴らしい パノラマ 写真にしてくれます。これが一つの売りものになっているのでしよう。 よくこのソフトの開発を頑張ったものだとおもいます。しかし電池がすぐなる、薄がたにしているので仕方がないのでしょう。 電池の開発は 次のIphone 7 位にひつようですね。いまの薄さで 倍に長持ちしたら又大ヒットになるでしょうね。 電池の開発者がんばってください。

夜の星空の観賞は素晴らしかった。
夕方 小屋の主人が手製の望遠鏡を出してくれてお月さまをみることができました。月の明かりで星が少し見えにくかったが カシオペヤ、 ペガサスの方形 アンドロメダそして白鳥がくっきりと見えた。明け方3時半ごろに起きてトイレに行った時全天素晴らしい星空が見えた。オリオンがそしてシリウス、双子が南の空に手に取れそうなところに煌々として見えた 北の方には北斗七星がすばらしかった。こんなに 沢山の輝く星を見たのは久しぶりだった。星になった神話の神々も日本の北八を眺めてそのなだらかな山並みをめでているようです。其のうれしさを一そう表し嬉しそうに輝いているのでしょう。すごく寒くてすぐに部屋にもどった。この素晴らしさを又数々の友人に味あわせたいとおもう。次回は今回こられなかった人たちとこよう。

高見石で児玉君と

帰りは久しぶりに佐久側に降りようと中山峠から稲子湯の方におりた。途中 緑いけと言うちいさな素敵な池があった、そばにシラビソ小屋がある、泊まってみたい小屋です。リスなどがたくさん来る小屋のようです。途中から カラマツが増えていくこの針葉樹は秋になると黄色に色づきそのうち葉っぱを落としていく今が黄色に色づくころでした。

落葉松林

白秋の詩がとても素敵に北八にぴったりです。


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。

来年の秋は又カラマツの林を心行くまで散策したいものだ。

タイトル:なぜ私はシリコンバレーで成功できたのか (電子書籍)
著者  :平強
定価  :400円(税込)

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Dynamic Obsolescence

新しい商品が開発されて、今ある商品が陳腐化して売れなくなってしまい商品の寿命が尽きることがあります。これが Dynamic Obsolescence です。商品は同じものが長い間売れ続けることはありません。たとえば家電製品であれば市場の規模はかぎられているわけですから。毎年毎年同じ数量売れることはありません。即ち普及率が増えていけばその分だけ売り上げがおちていきます。又商品の耐用年数が長くなるとそれだけ売上がおちていきます。Color TV の普及率が90% 近くなったら買い替え需要の分だけしか売り上げが伸びないわけです。或いは自動車の普及率もしかりです。ですから国内需要が一巡すれば当然外国への輸出を考えないと国内の生産を落とさざるをえなくなってしまいます。

このDynamic Obsolescence をどのように避けて継続して生産を維持していくかと言うのが企業にとって重要なことになります。 また政府の経済政策もこのDynamic Obsolescence とどうたちむかうかということが経済の維持発展にも重要になっていきます。

政府の政策としては逆に Dynamic Obsolescence を有効に使うことによって経済活動を停滞なく継続させることができます。卑近な例ではTV の Analog 放送を Digital 放送に切り替えてDigital 放送を受信するには新しいTV セットを購入しなければいけないようになるわけです。これによってほぼ全家庭が新しいDigital TV を買わないといけないことになります。この為にTVメーカはさらに数年の生産が続けられるわけです。それが一昨年から日本で起こったことです。そして同時に薄型の液晶TVが普及してTV業界がいきのびたのです。しかし無節操にもこの時とばかりに液晶TVを大増産するのです。理由は政府の補助金が設定されたことで各社がこぞって増産したのでした。この為に今回のTV業界の苦境となったのです。

自動車業界も同じです。
8月28日にObama 大統領が2025年に販売される自動車は 54.5Mile/Gallon の燃料効率でなければいけないと法律を提案しています。 これによってアメリカでは1千2百万バレルのガソリンが節約できて各家庭のガソリン代を大幅に減らすことができると宣言しています。ですから新しい車の開発或いは Hybrid Car の生産が加速されます。或いは現在のガソリンカーの効率を上げる研究がおこなわれてガソリン車でも54.5 Miles/Gallon が実現できる可能性もあるわけです。これも政府の戦略によるDynamic Obsolescence の活用です。この為のInnovation もまた加速されることでしょう。 CO2 の削減にもなっています。 多分2025年を過ぎるとすべての車は電気自動車にしなさい。と言う法律がこの次のDynamic Obsolescence を避けるための手段として提案されるに違いない。

企業は何時もこの Dynamic Obsolescence に直面します。新しい商品を開発したら次にはされに機能のいい商品を出さないと売れなくなります。だから絶えず機能のいい商品を次ぎ次に出していかないと競争にまけてしまします。

Steve Jobs こそこのDynamic Obsolescence の信奉者だったのではないかとおもいます。
絶えず自分の商品を次々にObsolete していくこれこそまさに現代の技術進歩を先取りしてサバイバルしていく為の 真骨頂です。政府の規制を待つことなく自分で自分の商品を陳腐化していきしかも絶えず前世代の商品よりも次世代の商品の売り上げがはるかに大きくなるように努力するようにしなければいけないわけです。

そこでSteve Jobs の戦略をiPhoneの足取りからみてみましょう。
iPhone は最初に2007年6月に発売されました。其の使いやすさが おお受けして今も売りつづけています。そしてDynamic Obsolescence 第一弾 iPhone 3Gが2008年7月に発表されiPhone を凌駕する 数量がうれつづけていました。そしてiPhone 3GS ,2009年6月にこれ又大ブームとなり前者を大きく引き離します。そしてiPhone 4, 2010年6月に さらに数量をのばしています。そしてiPhone 4S, さらには今回のiPhone 5, と各々の導入を1年間隔で投入しています。どうして人々は一年置きに新しい携帯電話を買う必要があるのだろうか。

かってMicro Processor が18カ月で機能を倍倍と増やしていってPCの生産数量を毎年毎年 倍増していたのにすごく似ています。そのPC もついにiPad の登場によって生産がおちてしましました。原因はなんでしょう。 iPad の使いやすさでしょうか。ねがんでしょうか。Comscore のスライドを掲示します。

Apple のこの新製品の導入戦略こそ Dynamic Obsolescence を見事に踏襲した戦略です。それには又流石に次世代の性能或いは使い勝手をどこまで上げていくかの予測を2,3年まえに企画してそしてそれに使うところの色々な部品をある時期に生産できるように用意する必要があります。 かってIntel  が開発チームを二つ用意して現行のCPU を開発するチームと次世代のCPU を開発するチームに分けて18カ月で新製品を出していきしかも性能が2倍以上を達成したのです。 半導体の場合は Design Rule を少しづつ小さくしていけばよかったのでこの戦略が相当な時期にわたって継続していくことができたのでした。ですからIntel の牙城はなかなか崩れなかったのです。それが今回はPC でなく Smart phone  からの攻勢でPC 業界そのものが脅かされてしまいました。 これこそMarketing  の勝利でしょうか。

省みて今の日本の民生機器の凋落、あるいは 携帯電話の凋落を見るにつけて日本企業の戦略の欠点が浮き彫りにされたように思う。ガラバゴス携帯と言われた携帯電話は 性能の追求が先に進み使いやすさなどが失われて行ったところにiPhone が難攻不落と言われた日本の携帯電話業界を見事に攻略してしましまいました。思えば日本のColor TV もリモコン一つでも使いやすくしておいたらもっと寿命が延びたのではないだろうか。 しかしこのリモコンはいまだ世界的に使いにくいままです。早くこのあたりをつかい易いものにすればまだまだリモコン のマーケットだけでも十分なビジネスが展開できるのではないだろうか。インターネットTVにひとつの解があるのでは。

今回のiPhone 5 のもう一つの戦略は チャージャ などのアクセサリーが全く新しくなって古いものが使えなくなっています。 これこそまた Dynamic Obsolescence です。これこそ又あたらしい マーケットをつくりだしています。こちらの方は利幅がたくさんとれていますので、Apple の利益の上乗せに貢献します。

いずれにしてもタコのように自分で自分の足を食べるようなDynamic Obsolescence は新製品の開発によっぽどすごいアイデヤを導入し、しかもそれを数年続けていけるようにしないといけないわけです。ですからApple , Intel  はそれを実現すべく開発部隊二つ以上用意し、又技術予測を十分に検討してきたのです。

今日本の製造業界ももう一度長期の技術予測そしてCustomer Interface の十分な検討をして市場に対処して行かないといけないとおもいます。

其のうち自動車業界が TV 業界と同じような事態になるのは目にみえています。オバマ大統領が ガス効率を 54.5 Miles/Gallon  の車を作ることを立法したのも経済のけいぞく を このDynamic Obsolescence を用いて活性化しようとしています。或いはこれからは車はCo2 ゼロにしないといけないと言う法律ができると電機自動車 しか作れなくなり自動車のマーケットが又新しくなって経済が活性化されます。

Dynamic Obsolescence は政府の政策として経済の発展性を可能にします。

しかし企業としては自ら自分の新製品を 置き換えてくような開発をしていかなければ企業の生き残りはできなくなります。 ですから自分で作りだした市場を自分でうちこわしていくことです。 ソニーはオークマン を早めに殺していくべきだったのです。 シャープ はザウルスを早めに殺していけばもしかするとiPad  に行きつぃたのではないでしょうか。ここらに日本のEngineer の開発に対する取り組みを改めて行かないといけないのでは, 新製品を自分でObsolete いくことです。 日本ではちょうとした成功に必要以上に長くぶら下がってしまいます。或いは現状を変えることをいやがっています。世界の競争相手から殺される前に自分で新しい物を作り自分の商品をObsolete  していくことです。

そしてたえず新しい開発に挑戦していくEntrepreneur  が出てくることを期待したい。あたらしいことに挑戦し新しいマーケットを創造することのできるエンジニヤーそして新しい商品を市場に出して,挑戦できる経営者、或いはリーダーの出現がのぞまれます。

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