シリコンバレーのエンジェル投資ブログ

月: 2024年8月

平 強 / Tsuyoshi Taira

固定投稿

1939年、鹿児島県奄美大島与論町生まれ。 日米の電子機器や半導体メーカーを経て、三洋電機の米国法人・サンヨー・セミコンダクター・コーポレーションに二十年勤めた。 その間、GMやIBMに電子部品を供給する道を開き、デジタルカメラの黎明期の技術開発に携わった。

96年8月、電子技術ベンチャーに投資するタザン インターナショナルを米国カリフォルニア州のシリコンバレーで設立し、「エンジェル投資家」に転身。 有望な技術を発掘しては投資し、経営にも参加して育てる。

スタンフォード大学のインド系学生の技術に目をつけたベンチャーでは、75万ドルの投資資金を調達・投資。 2年後、オンライン販売のアマゾン・ドットコムに2億1000万ドルで売却した。 その投資回収率、実に300倍。 インターネット・ブームで空前の活況を呈していた時期とは言え、最前線の戦いに参加して勝利を収めた日本人はほとんどいなかった。

2000年4月の米国ネットバブル崩壊後もエネルギーは衰えることなく、 現在は、米・欧・アジアにまたがって投資活動を展開している。

Tsuyoshi Taira is the CEO of Tazan International Inc, a Venture Capital and Management Consultancy Firm.

Mr. Taira has been involved with a number of Silicon Valley startup companies as founding investor/director including Atmel Semiconductor (NASDAQ: ATML), Pico Power Technology Inc (acquired by Cirrus Logic), Junglee Corporation (acquired by Amazon.com, NASDAQ: AMZN), Armedia (acquired by Broadcom, NASDAQ: BRCM), Apptivity (acquired by Progress Software, NASDAQ: PRGS) and many others.

He has been instrumental in providing seed stage financing, management and marketing advice, especially f or the Far Eastern market to the startup companies. Currently he serves on the boards of Silicon Storage Technology Inc. (flash memory company),, and Teleweb (Call Center in China). In addition, he is on the advisory board of Reveo (Revolutionary Electro Optics Technology Company) and several other companies. Previously, Mr. Taira was Chairman of Sanyo Semiconductor directing Sanyo’s US marketing strategy. Most of his career was spent at Sanyo Corporation except for five years when he worked at Fairchild Semiconductor.

Mr. Taira graduated from Tokyo Metropolitan University with a BSEE. He also received an Honorary Doctor of Humanities from Newport Asia Pacific University in March 2000. He has published a number of books including “Audio Amplifier”, “Transistor physics And application” as a Co-author and most recently a book on entrepreneurship, “My fellow engineer, let’s challenge” from Nikkei BP.

夏草や兵どもの夢の後 ――バブルと貪欲経済のなせる技――

兵どもの墓

Sooner Inc.

エンジェル インベスターとは個人の投資家で若きアントレプレニヤー が起業するときに最初に資金を提供するひとです。シリコンバレイではこのような投資家がたくさんいるので起業がしやすくそのために沢山の優良企業がシリコンバレイに出来上がったのです。
Apple、Google, Yahoo  しかりです。
エンジェル投資家は結局のところ若き起業家の夢に感動して自分もその夢の実現のための伴走者として若き起業家を援助する人たちなのです。成功した操業者は自分が助けてもらったので今度は自分が次世代の若き起業家に手を差し伸べるのです。Steve Jobs が電話帳で Hewlett Packard さんの番号を調べて電話します、そして周波数カウンターを作るための部品を分けてくれと頼んとき何と20分も話しをしてくれたとのことです。そしてHPでアルバイトをさせてくれたそうです。(Steve Jobs の14、5歳のころ)彼はまたIntel のDr. Noyce  にも話しに行っていろいろおしえてもらったそうです。 これぞシリコンバレイの雰囲気なのですね。ですから起業する若者を助ける人達がたくさんいるのです。エンジェル インベスターは投資家として結局は起業家の夢に共鳴して 起業家のマラソンに伴走する応援団なのです。

2006 年4月 今のDrop Box と同じようなIdea でSooner Inc. が立ちあがりました。自分のファイルをWeb に預けどこからでもアクセスできる技術でこれは大変便利になると投資をしました。 当時はまでCloud Computing もできていなかったし、ましては ローコスト のStorage もなかったですから全部自社でNetwork からStorage から Server を用意しなければいけなかった。 それから数年して Cloud computing, 或いはCloud Storage などが大変安く利用できるようになった、そして,Drop Box が創業された。Sooner は自前のStorage を用意するのに大変なお金がかかった。だから創業して数年してもう資金調達ができない状況になってしまった。そんなわけで残念ながらついに会社をしめることになってしまった。後発のDrop Box はアマゾンなどの安いCloud computing を利用しさらに Cloud 上の安いStorage を使うことによって何十ギガバイト というStorage を安く提供してSubscriber をふやしていきます。 Sooner はこのCloud Computing の波にのりおくれたのです。運、不運はありますが。起業のタイミングは 遅からず、早からざる時に興さなければいけないのです。そして必要なInfrastructure が安く手に入るタイミングを狙わなければいけないのです。素敵なInfrastructure の一枚の絵が投資家の夢をふくらませます。 しかしその一枚の絵を実現するためには多大なお金がかかります。青写真を見る時は各々のBlock にどれだけお金がかかるかを十分吟味して資金調達をしてかからないとインフラの 開発の段階でお金がなくなってしまします。一枚の素敵な絵は大変な代物です。そのためにたくさんの金がひつようになります。大概の失敗の原因はInfrastructure を自分でつくるためにお金がかかりすぎて資金がなくなってしまうことです。夢を一緒に追うものにとっても、状況判断をしかりしないといけないことを 5,6年もたってからやっと理解しました。

The Innovator’s Dilemma

技術の進歩はあるバリヤーを越えると一気に進むものです。そのバリヤーを越えるためには関連する技術の発展のために大変な投資と研究がつづけられていいます。たとえばMoor の法則が適用できるまでには半導体を製造するための色んな技術の大幅な進歩が必要だったのです。まずはWafer のサイズがおおきくならないといけないし。製造装置の進歩があるいは材料の進歩などがひつようです。エッチング装置、露光装置、ホトレジストなどの進歩が必要になります。そして初めて40ミクロン。25ミクロン、18ミクロンと線幅を大幅にちいさくしていけるのです。 ですからMoor さんが予測した、半導体の集積度は 18け月で倍になると言うことが実現していったのです。集積度が上がると性能は4倍以上にはやくなります。同時にメモリーIC の容量が4倍8倍に多きくなっていったのです。今では テラバイトのメモリーICもできるようになったのです。

同じことがLCD の世界でもおこりました。Active Matrix の白黒の4インチのDisplay ができた時、世の中が大騒ぎしました。しかしそのサイズの頃にだれが50インチの LCD ができるなどとは夢にもおもいませんでした。でもあれから30年何といまは50 インチ、あるいは100インチ のLCD TVが可能なのです。

Internet の急速な進歩と共に色んなデーターを一つのDisplay に表示する必要があります。特に1秒を争う株式取引ではこれが大事です。Wall Street で大型のDisplay が必要とされていました。そこに現れたのがプラズマ デスプライでした。何せ38インチのデスプレイが可能でした。 しかしブラウンカンを使っているので消費電力が1K Watts とお大きく又文字が焼きついたりしていました。それと大変高価でした。

このころのLCD の製造技術はやっと19インチのおおきさができたところでした。Wall Street の要望を聞きIBMでFace Down の技術は開発していた優秀なエンジニアー達がこの19インチのLCDを4枚継ぎ合わせて38インチのLCD を作ろうと会社をおこしました。これは19インチのLCD を4枚つなぎ合わせて、継ぎ目がわからないようにして38インチのデスプレイを作ることでした。このプロジェクトを完成させるには4枚の各々のLCD のつなぎ目がわからないように4枚の色合わせ、精密な切り口、そして今までにないおおきさのバックライトをつくることなどなど大変は技術の開発がまっていました。何とか寄せ集めでプロタイプができた時にWall Street の連中に見せたらもう上を下えの大騒ぎになりました。それ程までに皆が必要にしているものでした。しかしいろんな問題点の解決には一つ一つが数年もかかるようなしろものでした。Engineer はChallenge 精神が 旺盛でNo Problem ですすめますが。一つ一つのバリヤーは大変難しいものでした。資金は益々枯渇するし資金の額も大きくなっていきます。 ついにベンチャーキャピタルストからの資金は出なくなってきました。 そんなわけでついにオランダのフイリップス に会社ごと預けるはめになりました。フイリップス は多分さらに数十億近くの資金を投下したようにおもわれる。 それから数年してついにフィリプス もギブアップしてしまいました。このためにまたもう一つの墓石をたてるはめになりました。 百億近い金が消えてしまったのです。しかしサムライたちはまた次の挑戦にかかります。

LCD の技術は Sharp の努力と、さらにはSamsung の努力でその後大きな飛躍をします。そして38インチ 40インチの Display が簡単にできてWall Street も電力の少ない大型のDisplay が使えるようになったのです。 しかしその後に価格競争のためにSharp , Sony などが経営をあやうくしてしましました。LCD のTV の業界は今後ますます。難しさをましていきます。

このころJunglee のファンダ―の一人Anada と共にMITの学生にJunglee のはなしにいきました。そのお昼の時間に にProfessor  Christensen が彼が書いたThe Innovator’s Dilemma の本の話をしてくれました。当時の半導体装置のコントロールに使われていたMini Computer PDP-11がほとんどの半導体会社が使っていました。確か数億円もするしろものでした。DEC(Digital Equipment Corporation) はこのミニコンピュウター のおかげで半導体産業から大きな売り上げをあげていたのです。盤石の会社のイメイジでした。しかしIntel  がCPUを開発しそしてその性能が18け月で倍倍になっていくものですからあっという間にPDP-11の性能を上回ってしまいました。 Dec のコンピュターのなんと十分の一の値段で 半導体製造装置のコントローラーができるようになったのです。この為 アメリカ East Coast  の雄であったDEC もついにCompac Computer に買われてしまたのです。そしてまたこの日の出の勢いであったCompaq もHPにかわれてしまいます。 技術の進歩は大変なものです。 Innovation  を十分に見越して戦略或いは商品開発をしないとお金ばかりつかって陳腐な商品をつくって自滅してしまいます。絶えず技術の進歩を見ながら先取りして開発を進めることが必要です。やっぱり4,5年先を見ながら商品を開発していかないと出来た時に陳腐なものになってしまいます。永続性ある会社を作り世の中に貢献できる技術は開発して10年20年と長生きできる会社をつくらなければいけないのです。そのためには優秀な人材を確保し夢のある商品を作り続けなければいけないのです。生存競争は大変です。何時自分の商品が陳腐化しているのかを世界を見渡ながら判断して新しい商品を作り続けなければいけないのです。

Steve Jobs  の先見の明

1986 年ごろに4インチの白黒のLCD がやっと研究所で作れるようになりました。 Steve Jobs  が John Scale に追い出されてNEXT というServer  の会社をやっていた時、NEXT を訪問してSteve Jobs にDisplay  をみせました。彼は大変興味を持ち今彼が必要としているDisplay のSpec  を紙にかきはじめました。4インチしかできない頃に彼は何と11インチのDisplay を要求していたのです。とにかくもし百万個以上買うというなら3年以内に作って持っていくから、とにかく百万個というのを書いてくれと頼んだが Buy Lots  でごまかされてしまいました。しかし世の中はその後11 インチのDisplay が見事に$250 以下で出回ったのです。その後のLCD Display  を使ったMAC computer が市場を席巻します。これもまた日本のLCD メーカーが作り出した大きな市場でした。Jobs は絶えず先を見て何が必要かをいつもかんがえているようでした。だからJobs が Next からApple に戻ってからはApple が大きな発展をするのです。もちろんIphone  Ipad  ITune の成功が世界一のかいしゃにしたのでした。

我々はまた次のSteve Jobs を探さなければいけないのです。我々の投資先からそんな英才が出てくることを楽しみにしてがんばっていきたいとおもいます。

Blue LED(白色のLamp ができるまで)Gan Semiconductor の話。

LED の世界もたえざる新技術の開発ですすめられてきました。GaAs が主体であった赤色のLEDから日本で開発された Liquid Phase のGaP のGreen LEDができて LEDの応用がすすみました。そして三原色のもう1色 Blue LED がなかなか製造ができませんでした。日谷化学の中村さんがSIC の基板の上にGaNの結晶を積み上げることができてBlue LEDの製造がすすみます。 しかしSICの基板が 高いのでBlue LED はなかなかやすくなりまえんでした。Blue LED ができないと白色の光ができません。そのために世界中でBlue LEDの研究とコストダウン の努力がなされていました。

Korea  の若きEngineer が 欠陥のない結晶の作り方をおもいつきました。発想はコップに水を入れてこれを急冷すると 氷の結晶が水の上にできることからのヒントを得た技術でした。かれのかんがえは GaNの液 を高圧で低温にすれば結晶ができると言うアイデヤした。数億のお金を集めて装置をSilicon Valley の 装置メーカに作ってもらて検討が進められました。 小さい サイズの結晶が出来た時そしてその結晶が欠陥のほとんどない素晴らしいものだったので皆な大喜びしました。ランプを組み立てて光らせてみると何とその輝度のすばらしいと。皆エキサイトしました。 1000里を行くものは一歩がだいじです。まだまだ1000里ものこっています。結晶はGaNの液の上につくります。 少なくても 100ミクロンの厚さがひつようです。そしてまた経済的には 少なくても 直径3インチ 位はほしいわけです。
これからがエンジニヤーの苦労 のはじまりでした。 100ミクロン の厚みを確保することそしてなるべく大きなサイズまですること、このターゲットは生やさしいものではありまえんでした。それから数年エンジニアー はがんばりました。 しかしやっぱり目標 を達成できませんでした。そしてEast Coast  の化学会社にエンジニアー をつけて引き取ってもらいました。この会社は当初投資してくれていましたから、エンジニヤー の 生存を確保するために会社ごと引き取ってもらいました。

E-junction

Samba とMuthu そしてその仲間たちとE-Jnction をはじめた。商品の開発には、Engineering group の設計、Prototype の製造、そして、ICの開発であり。或いは 全く新しい部品をベンダー と共同開発するなど、多くのベンダーのエンジニアーとのインターアクショウンがひつようです。そして製品が完成して量産に移るにはさらに多くの人たちとのコンタクトがひつようです。社内のみならず多くの外部の人達とのコンムニケイッションが必要です。もしこれを一つのサイトで関係者がすべての仕事の進行状況を把握できれば何が問題かなんで仕事が遅れているのかを見つけて対処できるのです。ですからこの商品にかかわったすべての人達又 セールスマン ,製造の人経理関係の人などがすべて情報を共有できるのでビジネスの様子が一望のもとに把握できるわけです。プロトタイプができて とりあえず仲間の会社に使ってもらったら大変仕事をコントローフ出来るとよろこばれました。 これはいいねと言うことになっていよいよシリコンバレイの大手に商売ができるのだと大喜びをしていたときです。これが2000年3月、時あたかもインターネットバブルがはじけてしまつたときでした。突然各社とも新規開発の凍結或いは従業員の解雇などとアメリカ全土が 不況の波にのまれてしまいました。それから数ヵ月何とか このソフトの販売に力をつくしますが。どこもそれどころではなく自社の経費節減従業員の解雇に忙しく新しい開発或いはお金を使うなどとははるか遠い話になってしましました。我々もこれ以上の資金調達も出来ずついに会社を閉めることになってしまいました。

E-Junction  こそ Sales Force .com  のコンセプトでした。時をえずして残念です。 ですから遅からず早からずがベンチャーの運を左右するものです。しかしエンジニヤー達は次のチャンレンジを求めてちっていきました。

太いパイブ (Nayna Networks )

インターネットの発展はものすごいいきおいでした。同時に世の中の景気も沸騰しつづけていました。あっと言う間に何億と言うお金がStart UP の会社に投資されていきました。そしてEye Ball Pair (目玉二つ)1000 ドルの価値と言う評価になっていきました。調査会社は インターネットの パイプはもうすぐ詰まってくるから早くパイプを太くしないと大変なことになると毎月のように印刷しているのです。早くパイプを太くしないと経済までが冷え込むみたいな論説です。Naveen が考えたのはまずはOptical Switch の開発が必要と考えてBusiness Plan をつくりました。このPlan をVenture Capitalist に見せるとわれもわれもとあっという間に数十億のお金があつまりました。このころののVenture Capital 業界も又将来の発展にいささかの疑問もはさまないでいくらでもInternet の会社に投資してきたのです。ですからInternet 業界はいくらでも投資が受けられる状況でした。人間の慾は益々深くなっていきます。 当時のNASDAQ の株価が数倍或いは数十倍はねあがるのです。Naveen はこの時アメリカ中の Optical 関係の技術者、やNetwork のソフトウエアーの技術者を取り込むことに成功していました。何と何十名と言う優秀な技術やがあっという間に集まってきたのでした。メムスを基にした光Switch の開発にかかるのです。 まずはBusiness plan を持って業界のTop の会社World Com にこの企画をみせます。勿論World com がエキサイト しないはずはないのです。 ものができたら是非使うと言うのでもう我々の会社の将来は決まったようなものでした。2000年3月についにバブルがはじけて Nasdaq の株価が半分以下になってしまいました。そして一番最初につぶれた大手がWorld Com だったのです。Eye ball 二つで1000 ドルで集まったお金は Eye ball ひとつでほぼ $10 ドルぐらいになった感じです。勿論もろもろの Internet 会社 Pet.com WebVan など数100M$ 集めた会社が皆つぶれてしまいました。Silicon Valley の優秀な博士号を持った人たちが職を失い数年も職が見つからない状況になってしまいました。勿論わが社の優秀な技術屋然りです。われわれも 光Switch から方向起展開しないといけないので色々検討の結果 PON (Passive Optical Network ) の機器をつくることにしました。 Network のExpert が残っていたのでこの展開は何とかけそうにおもいました。 バブルははじけましたが。Fiber Optics はあちこちで敷設されつづけています。Fiber to Home, Fiber to Building で相変わらずこのあたりの投資はまだまだつづいていました。 しかしPON を作るためにはIC がひつようです。 数社が PONのIC の開発にとりかかりました。Cirrus Logic を設立した Kamran Elahian がMomenta の 失敗の後に会社を作り ADSL のIC を開発しこれでまた成功します、さらにこのPON 向けのIC を開発しました。 しかし相当な難しさを要求されるICで全機能をみたすたところまではいきませんでした。 この為機能の不足な部分をさらに外付けのI C でCover してなんとか機能 する機器をつくれあげていました。このころ特にNTTがこのPONを大量に使うと言うことなので我々も是非競売に参加すべく NTT 詣でをはじめました。 試作品を作りNTT の研究所に持ち込んで検討してもらいました。 結構好評だと(おもわれました)。しかし期限が近くなると日本のメーカーがものすごい勢いで試作品を作り、おまけに噂を聞くと我われの値段よりも30% も40% も安いらしいとの情報などがはいり大変心配しました。しかし30% も40% も安くするのでは大赤字ですからそんな見積もりは出せませんからぎりぎりで赤字のでない最低線での見積もりを出すことにしました。この時確か10社以上の会社が見積もりをだしたいます。日本の大手は当然参加しています。この機器は1本のFiber をもってきて この機器から32本に分岐して大きなビルデング にファイバーを繋ぐもので1Gbps のパイプが32のビルデングに供給でき1社1社にファイバーを引かなくていいので相当な節約になると言うので画期的なものでした。しかしふたを開けてみると32分岐までは大変で結局NTT は分岐点で4分岐だけのものとして敷設していった。勿論ふたを開けてみると日本の会社数社だけが NTT に収めることになったようです。我々から見ると30% 40% の赤字のBusiness だったのですが。これが日本の商売なのかと愕然としたおもいでした。やっぱり親方日の丸 で下請けいじめみたいにみえたものです。NTT はかってのアメリカの外圧があったものだから評価には公正を期したと言っていますが。多分値段のガイダンスは暗黙の了解があったのではと今でも勘ぐっています。その後日本のCable 会社向けに努力をしましたが。Cable 会社もそれほどアグレッシブにすすめる意気込みはなかったので、我我はその後のまず食わずの存続を余儀なくされました。

Silicon Valley では 失敗は大きな勲章だと言って失敗した人をほめることがおおいにあります。しかしその失敗を乗り越えて成功しなければ決して勲章にはなりません。だから大きな失敗の後に大成功する必要があるのです。だから一度大失敗した人は挽回の意味を含めて次のプロジェクトを頑張るのですだから次は成功する確率がたかいのです。Naveen とかSamba とか一緒に大きな或いは中位の失敗した仲間たちは今度は成功をめざして、穴探しに一生懸命に 努力しているのです。何といっても彼らのEntrepreneurship はおとろえていないのです。今第2回目第3回目の連中とこちらは相変わらずフウフ 言いながら夢追いの伴奏をつづけています。一度目の企業である程度まで行き失敗してそしてまた苦労をして結局2回目の成功がなされるまでさらに10年はかかっています。人生休む暇はないですね。さらにますます忙しくなるばかりです。

先ほどのKamran Erahian は Cirrus Logic の後に Momenta と言う会社をおこします。業界初めてのPortable のPen Computer をたちあげます。世界中から数十億のお金をあつめます。 日本の三井物産も相当な金額を投入しました。 電池Operation, LCD Display ,Pen 入力の技術、IC の開発Storage の小型開発すべてアメリカ初て世界で初めての大変な努力でした。同時にメデヤが毎月のように喧伝するので業界中が期待をかけてまちのぞんでいました。手がきのソフトもそのころのものは確度はまだまだでした。Digitizer がまだまだの性能です。そして電池の寿命も短いものでした。しかしあつまたエンジニアーたちは、すごい連中でした。ですがついには狙った性能が出ずについにメインのVenture Capitalist がKamran Elahian を首にして製品の開発を中止します。勿論 Momenta の努力のよってその後の Pen Base Computer の窓あけとなります。そして Apple のNewton の開発につながり、最後にSteve Jobs のIphone でこれらの技術が集約された形になりApple の発展となったのです。Steve Jobs は先を見て色々な開発をしていますが。 製品が使いやすくなければいけないことに徹底しているようでそれがIphone Ipad の成功につながっているようです。Digital Camera にしてもQuick take 100 をだしたがすぐひっこめている。そしてIphne ができた時にDigital Camera の技術が見事に集約されて使いやすく鮮明な写真が撮れるなどでIPhone の爆発的なうれいきになったとおもいます。 Kamran Elahian はMomenta の大きな失敗を何時も肝に銘じてその後努力してきたようです。からの愛車 Ferari のLicense Plate はいまだ Moments です。彼はMomenta の失敗を肝に銘じてがんばってきたのです。失敗いは許されると同時に勲章にもなりますがしかしそれはその後に成功して初めて勲章になるものです。さあ またもう一度挑戦しましよう。一緒に失敗したなかまと又なんとか成功事例を作るべくうごきはじめています。沢山の死んだ会社の墓標だけは立派にたっています。そして成功した暁にこの墓標を拝みそしてかっての従業員にえがおで挨拶できればとおもっています。今日もまたSilicon Valley で頭を痛めながらがんぱっています。

バブルと 貪欲な経済活動
バブルはどうしておこるのでしょうか。
人間は本質的に欲の塊なのでしょうか。 日本では昔から賢者が徳を説き若者をたくさん教育し、しかも、当人は清貧に甘んじていたから 若者が育ったのでしょう。日本人は少なくともある程度の歯止めがこの教えにかなっているのだとおもいます。古くは オランダ のチュウリップのバブル、このときは何とチュウリップの球根ひとつがうち一軒の値段がついたとか。一般の人たちが買い始めてお金がないから家を抵当に入れたり乳牛を抵当に入れたりして買ったそうです。いわゆる先物買いのはしりですね。そしてその証書がまた売買されたとのことサブプライムローンとおなじことがおこなわれていたのです。そしてチュウリップの値段が100分の1になってバブルがはじけてオランダの経済が大変な目にあったのです。 思い起こせば日本の土地と株のバブルの時の狂想曲もおなじですね。80年後半から90年代初めに山手線内の土地でアメリカの全土が買えるまでの値上がりしたとのことそして、三菱地所がアメリカの誇りとしていたロックフェラーセンターを買ったり日本の企業がペッブルビーチのゴルフ場を買ったりしたものだからアメリカの ひんしゅくをかってしまいました。しかしバブルがはじけてさらにはアジア金融危機が訪れ日本経済も大変な状況になってしまいました。そしてロックフェラ-センターも大幅に安く元の持ち主にうられまた ペブルビーチもアーノルド、パーマー たちのグループに安く売り渡す羽目になっています。これからが うしなわれた 20年の始まりだったのです。貪欲の経済が仕向けた結果なのです。日本は古典に習い徳を積む国民だったはずなのにやっぱり金に対する欲は一番避けがたいものなのですね。世界中がこの人間の欲のために貧乏人がますます貧乏になっていくしかけになっています。いつも損をするのが貧乏人なのです。

インターネット、バブルの資金、上図は1999年第3クオーッターから2000年第1クオーターまでのベンチャーキャピタル の投資額です。この6クオーターに投資された金額は何と156ビリオン ダラー(15兆6千億円)におよびます。例年の6クオーターですと30ビリオンドル(3兆円)ですからどれほど欲の皮がつぱっていたことか。正常な考えでは出てこない数字ですね。まさしくチュウリップ バブルの再来です。ウォールストリートの 錬金術師たちはここぞとばかりバブルを演出したのでした。まず金をこれだけ出すところが欲のかたまりです。バブルはその意気込みにまかれて我も我もとなるのですね。まずは金を出すところが自制しなければバブルになってしまいます。普段の5倍も投資が増えたらまずバブルですよ。 錬金術師たちは値上がりがこの場合は5倍にも上がるとみています。兎に角 ( .com)どっとコムという名前あるいは(e-)イーなんとか とつくとすぐ投資家がつくのです。当時は人間の目玉(二つ)がなんと千ドルの価値があると喧伝されたのです。だから百万人のお客がつくと1千億円の企業価値があるとウォールストリートが評価するのです。ですからお客を集めるためにじゃんじゃんお金をつかうのです。50億円使って100万人のお客を集めるのに必死になっていたのです。ベンチャーキャピタルはお金をつかえ使えとあおっていました。当時の Pet.com などは何とSuper Ball の時の30秒の広告に2百マンンドルもだしたのです。そしてまた有名なVenture Capitalist たちがこぞって投資したのがWebVan だった。これはSilicon Valley のヴェンチャー企業のエンジニヤーは暇がないから朝に夕食の食材を注文する、たとえばねぎひと束とうふ一丁、肉1Kg などもちろん出前もOkay で頼むと夕方には家に配達する、というBusiness Model でした。毎日WebVan のトラックをみるようになりました。しかし荷物はたいして積んでないようだしトラックの姿もなんとなく裏さびれたようなかんじでした。その後E-Toys.com,  Go.com など多くのどっとコム 会社がVenture Capital から多大のお金をもらい Eye Ball の獲得に多大のお金をつかいます。 そしてその会社がすぐNASDAQ に上場するのですそして何百億という値がついてしまうのです。そしてついに2000 年3月に NASDAQ  の株価が半分に下落してバブルがはじけるのです。Mathew Buttell というJournalist がFST という経済誌にこのバブルの被害がどれくらいあったかというのを掲載していました。下記の図がInternet bubble のバブル具合を示した絵です。

被害の状況は Pets.com が何と300億円 の損害、Webvan に至っては何と800億円も損をしています。そしてこれらのバブルでなんと2千700億円もの損害を経済にあたえています。このバブル期の技術系の大手6社の価値がなんと165兆円の価値でアメリカのGDP の何と20%に値したとのこと、もちろんバブルがはじけてその値が半分以下になるのですが。

結局このバブルを演出したのは Venture Capitalist でありそして Wall Street でした。Dot.com の会社を上場させて大きなもうけを受けたのはWall Street だったのです。中身のないDot.Com をすごいValue で上場させます。 このときWall Streetは上場時の値段よりも大きな値がつきますから、上場時にすでに大きなもうけがはいります。Venture Capitalist もすぐ株が売れるので大儲けす。しかし従業員は6か月の後にしか売れないので結局は従業員には大したお金がはいらないのです。もちろん早めにM&A されればある程度のお金ははいりますが。Bubble の期間があまりにも短かかってので、結局はそんをしたひとたちの方が多かったのです。

その後のWall Steet はまたまた新しい金融商品を開発します。 それが例の Sub Prime Loan です。ここでもまた再起不能になるぐらいのダメイジを世界経済にあたえてしまいます。 このため住宅ブームを呼び起こししかもお金のない人たちに無理やりにLoan を出したのです。そしてその債券を再販してさらにもうけているのです。今その 後遺症のためにローンを払いきれない人たちの家が銀行に取り上げられてそれが何万建という家がアメリカ中の町に放置されているのです。これがリーマンショックとなり金融危機をまきおこしたのです。

並みいる実態のないインターネットの会社がすべって店じまいをしました。そして華々しく数100億をつぎ込んだ会社がとうさんしていきます。これこそ人間の欲がなさしめる縮図でした。経済を大きく発展させたといわれる大きな評価を受けたFRBの議長 Greenspan  氏 彼は経済は市場の自浄力で解決するのだと言って結局野放しになって経済が破たんします。 経済運営の神様みたいな 氏の評価が一遍にして 地におちてしまいました。 バブル崩壊まえに Greenspan 氏の The age of Turbulence  という本が大ベストセラーとなりましたが。バブル崩壊後にはわすれされてしましました。

欲に根ざした経済政策は結局破綻するのですね。 投資家も欲というのをじっくりみきわめて投資を考えないと結局はバブルに遭遇します。 稲盛さんは 決断する時いつも“動機善なりや, 私心なかりしか。”と自問したそうです。 それがKDDIを成功させ多くの会社の再建をなしえたのでした。 今回JAL の再建にもこの自問自答をされて取り組んだのです。Wall street の連中には “これは欲のために行っていないか。これは世の中のためになっているのか”を絶えず心に問いただしながら活動してほしいものです。そうすればバブルにならないで経済が発展できるのです。

江戸時代の農民救済に努力した二宮尊徳 沢山の業績を残したにも関わらず自分はこの活動から一銭の利益もあげず相変わらず清貧にあまんじたという。江戸時代の寺小屋教育がこのような偉人を生んだのでしょう。武士道とは貪欲を一番嫌ったのではないだろうか、だから武士は食わねど高楊枝だったのでしょう。またサムライの子供たちが寺小屋で素読を基にした漢籍の古典から習い徳を積むことが自然に身に付いたのだと思われる。 また明治期になって日本の経済発展のために沢山の銀行を起こしまたいろんな会社を興した渋沢栄一みたいな人がいたからこそ日本の国力もついて、世界に伍していけたのだろう。だから彼は “論語と算盤”という著書をのこしたのでしょう。

中国をはじめ東南アジアの諸国が欧米の植民地になったのに比べ日本が其の難をのがれえたのも明治政府の要人が武士道精神を持って滅私奉公で国を守ってきたからに違いない。しかも当時の為政者は私心を捨て国のためを思いがんばったのでしょう。

明治政府の要人が岩倉 使節団として1年間も国をあけて世界中をまわり各国の憲法を調査さらに 経済 法学、化学技術を眼のあたりにしこれを我が国も持ちきたし世界に伍していける体制を整えたのは大変な見識だし素晴らしい人たちだったとおもう。大政奉還からそしてサムライの世界から現代えの転換を見事に成し遂げた当時の若者の偉大なこと。当時の世界情勢をよく見極め世界を見ていたことがこの業をなす根幹となたのでしょう。当時のGlobalization  は大したものですね。 意気に燃える青年がいたことまたGlobal に物を考えられる素地があったことが方向を誤らなかった理由でしょう。長州、薩摩の若者たちの燃えるような愛国心が日本の明治を作り日本を世界に伍していける国を作ったのですね。寺小屋の教育の賜物だと思うし、漢籍の古典の思想の賜物ではなかったのでしょうか。

やっぱり私欲を一番押さえてこれたのが大をなさしめたのではないでしょうか。今世紀の数々のバブルを見るにつけ、この私欲を排除するという意識での経済活動をしない限りバブルはなくならないでしょう。 アメリカのWall Street  が自分の活動にあるいは経済活動に、これは人のため世のためになっているかを自問自答しながら活動すればバブルにはならないのでは。

稲盛さんの言葉を借りて、“動機善なりや、 貪欲なかりしか。” これがバブルを避けるための経済活動の大前提です、そうでないとまたまた大勢の貧しい人たちが犠牲になっていきます。今の中国の不動産バブルリーマンショック の再現のような危機をはらんでいます。

兵たちの墓標

Powered by WordPress & Theme by Anders Norén