NHKの西郷どんを楽しみにして時々見ています。

特に今、西郷が3度目に島流しされた沖永良部島は我が与論島の北32km にある島でありほとんど我が与論島と同じような環境の島です。あの美しい海は与論の海と同じです。奄美群島の喜界島、沖永良部島、さらに与論島はサンゴの島で
珊瑚が隆起してできた島です。鍾乳洞が各島にあります。我が家の庭先から鍾乳洞が海までつずいているようでした、そこまでの探検はしていませんが。珊瑚の隆起でできた島なので、これらの島にはハブはおりませんそれに比べて奄美本島と徳之島は古生層の島でハブがいます。与論島は沖縄本島の北わずかに23kmの地にあり実際手漕ぎのボートでいけそうな距離です。与論島は周りわずかに23km の小さい島ですがFull Marathon の競技も行われているとか。この小さい島ですが、子供の時、小学校まで歩いていくときのとういこと、そして遠足に行く時のすごく大きな島にいた感じでした。年すぎて‘島に帰って車に乗せてもらって一周してもらったらなんと40分で回ってしまった。子供にとっては大きな島だったのですね。1951年San Francisco 講和条約が締結されて日本が主権を回復されましたが、沖縄と奄美大島はアメリカ軍の信託統治となり日本から切り離されてしまいました。とにかくソビエットの共産主義の脅威がすごくまたベトナム戦の勃発などでアメリカとしても沖縄の基地が重要であったのですね。だからその後21年間もの間沖縄の返還が遅れたのです。

奄美では日本が外国になり自由に日本にいけなくなりました。日本の大学に進学したい青年たちは漁船に乗って鹿児島まで密出国して大学に行ったものでした。

その後島全体の民族運動で1953年12月25日にやっと日本に復帰することができたのでした。沖縄はその後21年もの間米軍の信託統治におかれ大変苦労させられています。米軍の沖縄上陸で日本人18万人アメリカ軍人1万2520人の犠牲者を出したのです。沖縄の摩文の戦争記念館を訪問すると、本当に心が痛みます。大勢の若き高校生と島民が鍾乳洞の洞窟で殺されています。日本人としてぜひ一度は 訪ねて欲しいところです。もちろん広島長崎の原爆記念館を含めて。

珊瑚できた島。喜界島、沖永良部、与論島は船から見るとまるで標高10メートルぐらいの島に見えます。いつも冬に名瀬から与論に向かう小さな連絡船にのって沖永良部世論島を見るにつけ思うのですが。台風の時などは波が島全体を超えてしまいそうな感じです。ちなみに与論島は標高97メートルです。しかししまの人たちがあまりにも低いからといってみんなで3メートルほど盛り土をして標高100メートルにしたそうです。一方、沖永良部は240メートル の大山があります。また喜界島は211メートルの丘があります。

西郷さんが沖永良部でサトウキビの収穫と砂糖作りのシーンがありました。サトウキビの葉を落としてそれを圧搾機にかけるのです。圧搾機を回すのに長い棒を機械の回転ぶに入れてその回転部分を牛に引かせて回転させます。牛は一日中絞り機の周りを回っています。一人が圧搾機の後ろに座って次々にサトウキビを絞り機にかませていきます。子供の頃にこの牛追いの手伝いをしたことがありました,絞り汁を集めてから、その砂糖液を 沸騰させて、固まらせて黒砂糖ができます。砂糖のない 当時、黒砂糖は世界中で貴重品だったことかと思います。だから琉球にそして、そこから中国、欧米に売られたのです。大変高価に取引されたと思う。だから薩摩の財政が豊かであったのです。徳川幕府の諸大名のコントロールのための手段参勤交代あるいはまた薩摩藩に課された 宝暦の治水工事などの多大なお金がかかったけれどもその財源となったのです。また薩英戦争のための守備のための砲台ずくり軍艦の買い付けなど様々な費用がこの奄美の黒砂糖のおかげで賄われていたのでした。薩摩の役人の呵責なき島民いじめは正義感に溢れた西郷は怒りを感じて歯がゆい思いをしたのです。

数年前に奄美大島龍郷出身の大江修造 東京理科大学教授にお会いして彼が書いた“明治維新のカギは奄美の黒砂糖にあり“という本をいただき薩摩がどれほど奄美の黒砂糖でその使命を果たすことができたかあるいは明治維新の資金源となったかを知ることができて、奄美の人たちの貢献を誇りに思いました。我々の祖先が明治維新の力になったということで誇りに思いました。しかし農民の苦しみは並大抵ではなかったのです。西郷さんがどれほど怒りを感じたことか。
 
西郷さんはその性格は生まれつきの正義感を持ってうまれた人物だったのですね。彼が3回も奄美大島に島流しにあったことがまた彼の人物を一回りおおきくしてのではないかとおもいます。人はその一番苦しい時に、鍛えられるのだという。そしてまたその時にいい出会もあったのです。

西郷さんが島流しにあった奄美の島々。

私は世論じまに生まれて小学4年生の時に奄美大島の名瀬という街で中学高校を出ました。

西郷さんが奄美の龍郷に島流しにあった時そこには支那から帰って来ていた岡程進儀に漢詩を習い漢籍の指導を受けたことが自分の修養になったのでした。その後徳之島沖永良部島への島流しのたびに行李いっぱいの漢籍を持ってじぶんの修養に勤めてさらなる人物に成長したのです。特に朱子学、陽明学からの影響が多かったようです。西郷の行動は大義名分そして正義感にもとずくものが多く見受けられます。いにしえから支那の聖人たちの書籍はその後の人たちに大きな影響を数千年に渡って与えつずけているのです。孔子であり孟子であり、王陽明であり、数千年の長きにわたり人びとを導いてくれたのです。これらの古典がまた西郷さんを導いてくれたのです。だから西郷の残した言葉は実に人間としての修養から滲み出た言葉が出ています。曰く

郷さんのこの書は京都の日光ホテルの受けつのところに飾っています。

そしてまた、「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」「児孫のために美田を買わず」さすがに利他の心ですね。「己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ」流石に明治の国を作った人たちの心構えですね。私腹を肥やさないことですね。明治の偉人渋沢栄一も “論語と算盤”の本で商売の本質は国をとますことである、といっています。
だからあれだけ多くの銀行を作り会社を作ったのですが。自分は何一つ利益を受けることはなかったのです。

•「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」

江戸城無血開城をはたした山岡鉄舟、薩摩藩士、一人を連れて並み居る官軍のなかをくぐり抜けて西郷にあい無血開城を実現させた山岡鉄舟を評して西郷はこう言っていす。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」山岡鐵舟はその後 明治天皇に使えて日本の発展に力を尽くすのです。英雄は英雄をしるのですね。維新で世の中が大きく変わる時、世のため人のため利他の心を持って  活躍した人がたくさんでています。そしてその人たちがお互、意気に燃えて世の中を変えていいたのです。 この維新の頃に 世のため人のため活躍してくれた先達がたくさん出て国のために頑張ったのですね。坂本竜馬、海援隊を作り外国からの脅威に備えようとして頑張っていました。幕府軍艦奉行の勝海舟は龍馬のことをよく面倒見ていました。そして薩摩、長州の仲を保つためによく働いています。幕末の尊王攘夷、倒幕、そんな、中で、良く幕府を倒さないで、大政奉還に持ち込み、江戸城の無血開城に成功し、政治を正道に戻したことか、徳川慶喜もまた 西郷との交流で 危うい将軍家をうまく持ちこたえさせたものです。徳川300年の歴史、侍がその矜持を持ちつずけたことで外国からの圧力をはねのけて偉大なる明治維新が成功されたのですね。これは一つには教育(寺小屋教育)あるいは姉弟を教えた若き指導者の賜物かと思います。戦後のマーカサー による教育改悪によって日本の良さがどれほどなくなったことか。日本は元の良き教育を取り戻さないと、生きる活力さえうしなわれていくのではないでしょうか。
 
西郷さんの利他の心、鹿児島市の出身である京セラを作った稲盛さんは子供の時から西郷さんにしたしんできたものと思います。故郷の大先輩の教えは身につていたのですね。稲盛さんは西郷さんを尊敬してやまなかったのでしょう。そして利他の精神が身にしみていたのでしょう。

稲盛さんは 素晴らしい方ですね。日本の通信料金が世界各国よりも大変高いことを心配されてこれでは日本は世界と太刀打ちできないと思い若きエンジにヤーとともにKDDI を作ります。NTT こそ国の恩恵を受けているはずですから料金を安くして日本経済に貢献すべきであるはずなのにその公共性を発揮してくれなかったのです。利他の心が少しでもあったら、もっと日本経済に貢献できたはずですが。

それに対して一小企業のKDDIが自力で回線を立ち上げるのですから 大変な苦労だったと思います。 

その後稲盛さんはJAL が破綻した時政府の要請を受けてJAL の再生に参加します。たった2名の部下を連れてJALに乗り込んだのです。従業員3万人、そこにたった3名で乗り込んで行ったのです。戦国時代 3万名の敵陣に対してたった3名のサムライが戦いを挑んで勝ったのに等しいです。稲盛さんは僅か2年余りでJAL をたてなおしました。これこそ利他の心あればこそできたのでしょう。従業員の意識改革だけでこの大会社を立ち直らせたのです。これからも利他の心で益々日本経済に貢献されていかれることと思います。

潮が引いたら沖に砂浜が現れる百合が浜武家社会を思うときやっぱり平家のことを思い浮かべます。
平家は福岡の壇ノ浦でついについに滅びてしまいます。大勢の平家の武士たちがあちこちに落ち延びて行きました。鳥取県の山の中に平家村というのがあり大勢の平家の落人がこのむらに住んでいました。ここの平家村のひとたちは名字を“平家”と名乗っています。三洋電機の鳥取に働いていた優秀なエンジニアーに平家君がいました。こちらは正真正銘の平家の落人の子孫になります。多分壇之浦から遠い奄美にも落ち延びた人たちが多くいたのだと思います。私の“平”姓は 世論島では2軒でした、我が家には平家にまつわるものはありませんでした。明治になって苗字を許されて勝手に平、性を名乗ったのかあるいは平清盛の悪行に遠慮して平家の子孫であることを隠していたのか黙っていたのか。沖縄には“平良”の姓が多いです。また鬼界島にも平家の落人が渡ったという話もあるので世論じままで流れた人もいたのでしょう。人には平家の子孫だと言っています。武士の流れのものだと気持ちがいいし頑張らなくちゃいけないと思っています。You Tube で三波春夫の 平家物語を琵琶法師の伴奏で聞くことができました。物悲しく平家の凋落を語る素晴らしい曲でした。一度聞きたいものですね。琵琶の音も素晴らしい。こんな楽器もあったものですね。“西郷どん“を見て故郷に思いを馳せました、故郷を思い出しました。来年は島に帰って墓参りをしようと思っています。