空海(弘法大使)は777年に生まれ頭がよかったので奈良の大学で勉強します。しかし儒学では世の中の矛盾は解決できないと、大学をやめて修験者に交じって自然の中で荒業をしながら修行していきます。吉野の金峰山、四国の石鎚山、そして土佐の室戸岬の洞窟の中などで修行をつみます。修験者(山伏)は鳥取の大山、山県の羽黒山、吉野の金峰山 などの霊山と言われるところで修行をつみます。とても大変な荒行のようです。四国の石鎚山には登ったことがありますが、頂上近くの最後の50メーターが凄い岩の絶壁になっていてそこには鉄の鎖がつけられていた。勿論昔はこんなものはなかったでしょうから命がけでのぼったに違いない。今では頂上の近くに山小屋がありそこで味噌汁を御馳走になり大変うまかったことをおぼえている。石鎚の頂上に登り詰めると見晴らしがよく瀬戸内海の向こうに本島の山々がみえた。友人で羽黒山で修行している山伏の話を聞いたことがありますが。一日おにぎり1個と沢庵ひときれで1週間険しい山を歩いて修行するそうですが。終わって麓に帰ってきたらお菓子にむしゃぶりついたと言っていました。大変な荒業だそうです。日本は八百万のかみ神が霊山に棲みそしてまた仏も霊山に居られるから人里離れた山には自然かの霊気がただよっているものです。修験道者も仏教の求道者もこのような場所をさがして修行したのでしょう。修行は体力の限界の中から何かをみいだすのでしょう。天台宗の千日峰回行の修行も又自然から学ぶための修行のように思われる。空海は四国の室戸岬の洞窟で修行しているときに明星が口に飛び込んできて悟りを開いたと言う。

西の入り口にある 大門 ここから弘法大使の廟まで4.5キロ程。

804年空海は遣唐使が使わされる事をしり、自費でこの船にのります。当時の遣唐使は国の金でまかなわれていたからもし自費で行くならもの凄く高いお金ではなかったかと思われる。空海は金集めが上手だったのだろう。唐にわたってからも仏典の筆写の費用、仏教の法具の購入などに多くの金をつかっています。まさしく平安時代のEntrepreneur だったのです。日本に仏教をもちかえるための信念にかられてお金も修行もしゃにむに頑張ったのです。当時の金持ちは豪族か或いはお寺或いは天皇家ぐらいだったとおもう。だから心当たりの多くの人達からお金を集めたに違いない。プレゼンテイッションがうまかったか、情熱がほとばしって人の説得がうまかったのか。或いは日本の仏教のためにと強い信念のために人を説得できたのだろう。

考えてみると聖徳太子の頃からお寺だけは立派なものが建っている。聖徳太子が遣唐使の派遣を考えてから中国のお寺の建設の技術が入ってきたに違いない。それにしても法隆寺、四天王寺、などのすばらしいお寺を作るにも相当のお金が必要だったと思う。国のお金でないと難しかったに違いない。それが空海は金剛峰寺のような壮大なお寺を作るのには沢山の浄財を必要としたのでしょう。この浄財を提供する市井の人たちもお金持ちが大半だったと思いますが、他にも沢山の人達が少しづつ提供して大きなお金となったと思われる。これこそ今のエンジェルインベスターに、似てしかもドーネーションですからそれだけ信仰の篤い人達が信仰のためには自分を犠牲して資金を提供したのだろう。西洋の教会は権力、即金持ちだから簡単に素晴らしい教会がいたるところに立てることができたのです。

主殿(総本山金剛峰寺)屋根には水桶が備わっている火事の時の火消し用

不動堂 (金剛峰寺)素晴らし屋根の曲線です。

金剛峰寺の蟠龍庭(ばんりゅうてい)日本最大の庭園兎に角すばらしかった。

奥の院の入り口

奥の院の弘法大使廟までの2kメートルにわたり歴史上の有名な侍或いは詩人、或いは戦国大名の霊屋、墓標、供養塔、その数は何千とあります。そしてまた近代の企業の供養塔や顕彰碑がたくさんあります。小松製作所、化学会社、松下電器などなどたくさんです。日本の先祖崇拝のあらわれです。ですからこれらの会社或いは侍の子孫が毎年ここをおとずれたものとおもわれます。企業の場合などは大勢に人達がおとずれるのでしょう。

毎年訪れる訪問者のための宿坊が沢山必要だったのでしょう。そのため弘法大使も数軒のお寺の建立に力をかしたりしています。 そしてまたこの宿坊には必ず本尊が祭られています。阿弥陀如来像、数々の菩薩そしてまた不動明王などが有名な仏師によって作られています。宿坊には数体の本尊がおかれています。兎に角空海は素晴らしい経済圏をつくりあげたものです。これこそentrepreneur(起業家) の最たるものです、空海はどうして資金をあつめることができたのでしょうか。

当時の遣唐使は20年と言う滞在期間で唐におくられています。さすがに宗教をもたらし文化をもたらすためにはそれぐらいの年月がかかるのでしょう。時の権力者はそこまで理解して遣唐使を派遣していたのです。ところが空海はわずか2年で密教とそして唐の文化、技術を日本にもたらしたのです。空海は唐の密教の祖、恵果阿闇梨に逢った、恵果は空海をみるなり、ああこれが私のおしえを受け継ぐものだと直感します。それから恵果阿闇梨はものすごい勢いで空海に密教の奥儀を伝授します。そしてわずか3カ月で恵果は死んでしまいます。しかし空海はこの間にすべての法嗣を受けたのです。この為中国側の法灯は途絶えて日本に移ったのです。道を極めた人は、人を見る目があるのです、ですから空海と会ってすぐ空海が自分の教えを引き継いで行く人だと分かったのです。空海は密教の他に中国の文化を理解しそして土木工事の技術をも身につけて日本にもっていきます。農業が主体の経済においては土木工事がどれほど役に立ったことか。そして大きなお寺を作る技術も日本に持ち帰ることができたのでしょう。日本の大工の匠はこの為に益々磨きがかかったものとおもわれます。

高野山は約800メートルの山の上にある平坦な土地にできた町です。周りは1000メートル級の山々に囲まれています。ここに空海は天空の仏教都市をつくるのです。

昔は女人禁制の場所で女人口までしか入れなかった、空海の母も女人口のそとに家を作り住んでいたという。戦乱の世の中でどちらかの権力者に拠ってしか生きられない時高野山はどちらにも組しなかったから戦乱をまぬかれています。一方比叡山の方は僧兵などを大勢抱えて権力を行使していたので信長の 焼き討ちに逢い本堂は焼けおちほとんどの 僧侶が殺されてしまった。その後秀吉が高野山にも食指をのばしますが。武氏出身の僧 木食応其 が仲介して存続できたその後秀吉が帰依して高野山の存続が確保された。これも庶民の仏教としての密教がもたらした功徳かもしれません。

高野山の町はわずか128平方キロメートルに小さな町です。しかしこの小さな町に123軒のお寺があります。そしてそのうちの50-60軒が宿坊をかねています。鎌倉時代、そして徳川時代にはいって、平家、源氏、そして豊臣、徳川の菩提寺、など、他に霊屋、供養塔などが何千と建てられこれにお参りする人々が毎年何万人と訪れて宿坊にとまっています。当時のたとえば徳川時代初期の訪問者を推察してみるに

たとえば宿坊とお寺を含めて100軒とする 年間之訪問客が一軒に500名とすると そして一人1万円の宿泊料とすれば約5億円の経済効果となる。そのほかにお土産やとか 籠やとか色んな商売があったでしょうからこの4-5倍程はあったでしよう。 20億として今の価値にする場20倍ぐらいに考えれば400億の価値です。 空海はやっぱり日本一の企業家だったのですね。明治の起業家そして昭和の大企業家と並び称されてもいいような企業かではないかとおもいます。

金剛峰寺のその後の修復に明治の頃の寄進者の立て札がずらりと並んでいる、曰く 一金千円也、どこどこの何とかさんと言うセメントの立て札が沢山ならんでいる。 多分今の金にしたら一千万円ぐらいのかちかもしれません。
これぞ見返りを期待しない投資資金なのです。これぞシリコンバレイの投資家の心意気のお金です。日本もこのような投資家が沢山いたものですね。そうでないとあの壮大なお寺は維持できないです。このように日本経済は仏教の信者の寄進に拠るお金でお寺を中心とした経済を作り上げていたのです。もしかしたら今お金を持っているのはお寺ではないだろうか。このお寺のお金をベンチャーキャピタルの運用に回してもらえば日本経済ももっと早めに回復するのではないだろうか。

空海は Globalize(国際化) された素晴らしい起業家であり又宗教家であったと思う。

遍照光院の精進料理のDinner 豪勢で食べきれなかった、
食べてしまってから写真をとった。

編照光院という宿坊にとまった 本尊は柿不動尊 であったそして阿弥陀三噂、不動明王などが安置されている。これも大変なお金がかかっていたのでしょう。この宿坊も空海が建てたと言う。朝の勤行に参加させてもらった、そして阿字観を経験させてもらった、阿字観は座禅をして自分を無の境地にして仏を見るための行為です。30分の座禅ですが。足が痛くて自分を無にすることなどはまず無理であった、御坊さんにどうですかと聞かれたので足が痛くて それどころではありませんでしたと答えたら、残念そうな顔をされたので恐縮してしまった。

阿字観はこの絵も前にして我が心を無にして仏をみることです。

一泊のたびでしたが 空海のベンチャー精神をみて日本は今こそベンチャー企業を育てないと国がシュリンクしていきそうである。 お寺のお金をどうかベンチャーキャピタルに預けて運用させてください。 先の朝鮮総連の建物跡を鹿児島の僧侶が49億円で買おうとした所を見てもお寺に沢山のお金が遊んでいるのでは。真言宗、天台宗、その他浄土真宗、そのた諸々にお寺が日本経済の発展のために浄財をベンチャーキャピタルキャピタルに預けてほしいものです。
そんな思いをした高野山でした。

弘法大使像 に水をかけて奥の院にすすむ。

奥の院入口ここで皆さんはお経をあげてから境内に入っていった。