仲間と共にNepalに行きました。

成田から香港経由でKathmandu、大変疲れた。すでに夜中、たまたま僕の誕生日でSunset View Hotelのロビーで絹のスカーフで誕生を祝ってもらった。昨年の10月に来る予定だったが伸び伸びになってもうこれ以上延ばしたら 永遠に行く機会がなくなるのではないかということで友人たちを誘って決行してもらった。Kathmanduは盆地でPollitionがひどい、おまけにはげ山のために土ぼこりも加わっている。まるで黄砂です。人口増が町を益々スラム化させている。とにかく貧しい。毎日朝10時ごろから夕方まで停電となる。どうも定期的にやっているようで、多分昼間は停電にするようになっているのではないかと思われる。Kathmanduの発電所は昔日本政府が援助して作られた発電所で、いまだこの一つだけに頼っているようです。昼間の電力を賄えないから自然に昼間を停電にしているのではないかと思う。したがって企業は自家発電を用意しているようです。これが又Air Pollutionを増長させているようだ。ここの企業は電力確保のために相当な苦労をしているのではないかとおもわれます。時間があってNepal Telecomに寄って話を聞いた。Cell phoneの普及は27%近くとふえているようです。Fixed Lineの電話の方が電力が常時ないだけに伸びていない。確かにヒマラヤの奥地に行っても携帯電話はつかえる。インフラの設置に苦労している。電気が常時来ないのでソーラーバッテリーを用いて中継器の電力としている。だから結構金がかかっているようです。このあたりに小型水力発電あるいはSolor EnergyとLarge Capacitorの組み合わせによるLocalのローコストのEnergyが必要に思われる。日本の企業がこのあたりに進出すれば、まだまだビジネスのチャンスがあるようにおもわれる。又今のKathmanduのPollitionを少なくするのに、それこそEco-Cityへの移行を本格的に手助けすれば、これもまた日本企業が進出できるチャンスかと思う。電力と水が必要、水はヒマラヤの山々から沢山供給されている、発電所ができれば又水もふんだんに供給できるはずです。これらの水を農業用にも使うことによって農業の発展が期待できるし、お隣のインドという大きなマーケットも控えているので、水も電力も良いビジネスになりうると思う。日本大使館の藤原公使とのDinnerで公使もこのあたりを日本の企業に働きかけようと計画されていた。誰か頑張って乗り込んできて真剣に取り組めばビジネスも展開されることと思う。どの会社でもいいが鈴をつけに来てくれる開拓者魂を持つ戦士がいればいいのだが。この国の人たちのためにあるいは将来の子供たちのために企業の進出と共にJaicaの資金などを有効に使えばいいのでは。

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次の日は古都パタンの観光と買い物、ヒンズー教とネパール仏教の入り混じったような感じの大寺院がありました。

【パタンの町の大寺院】

ここではヒンズー教と仏教がうまく調和して存在するようです。ヒンズー教の神と阿弥陀如来などが共存しているようです。聞けば、おおもとはバラモン教から分かれた中の良い兄弟のような関係で、お互いに相手の存在を認め合っているようです。まるで日本の神仏混合の様な感じです。

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次の日にいよいよエベレスト と対面、こちらは20人ぐらい乗りのプロペラ機でエベレスト連峰を見学。一人ずつコックピットの後ろから写真を写させてもらった。この写真はガイドのPiterbar氏が写したものをいただいた。やっぱりもう少し近くでみたいものです。あまりにも遠すぎる。ヨーロッパアルプスを見たときはいろいろ本で読んでいた山の歴史とふもとに住む人々の事を知っていただけに身近に感じたがエベレストはテンジンというガイドの名前とヒラリー 卿ぐらいしか思い出すだけであまり感動がない。やっぱり近づきにくい山なのだろうか。またの日にもう少し近づいてみたいものです。

【Pitamberさんの撮影するNepalの山の写真はほとんど、彼の作品が絵ハガキになっている】

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さて次の日からヒマラヤの山々と対面、まず早朝にポカラという町にヒコーキで飛ぶ。ボカラの町からはアンナプルナの山々、マナスルなどが目の前に展開している。かつて日本隊のマナスル登山の活躍などを本や雑誌で興奮しながら読んだ記憶がよみえってきました。8千メートル級の山々は近くに見えて近づきがたく遠くにあります。やっぱり素人には手が出ない山なのだとただ眺めているだけになってしまいます。

【平画伯(自分)のスケッチ】

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次の日はJamson まで飛行機で飛び愈々秘境に足をふみいれる。ジープで3時間ほど乗って、ヒンズー教とチベット仏教の聖地ムクチナートをたずねる。

【ガンジス源流の左岸をジープで登る。石ころの上をジープが突っ走る】

ジープがついたところが何と3500メートルの高地。頭がふらふらする。さらにここからあと200メートルを登らないとお寺までいけない。参加者ほとんどがふらふらで、夢遊病者のように一歩一歩ゆっくりと登っています。ヒンズー教のお寺の周りの清水を流している給水パイプが並んでいる。ここで身を清めるためにこの水に打たれて煩悩を流してもらうみたい。ちなみにパイプは108あった。さすがに水は冷たい。あきらめて我が煩悩はそのまま温存して、手だけ108回濡らして行の代わりとする。そしてその脇に円筒に経文を書いたマニ車があった。これをまわしてお祈りをしていくようです。念のためマニ車を数えたら110個あった・・・。煩悩が少し多いのかなあ。本尊観音菩薩像を収めたチベット仏教の寺があった。この中に清水が流れていてその中から天然ガスが出ていて火がついている。年中絶えることなく火がともっているようです。ヒンドウのお寺も見てジープの待つところまで3500メートルの高地です。帰りはもうフラフラで皆が夢遊病者のように歩いていた。やっとレストランのあるところまで降りて軽い昼食を取り、ネパールミルクティーをいただく。生き返ってようだ。2,3人の仲間が少し横になって回復を待つ。

【あと200メートルでお寺。頑張れ。】

【煩悩よ去れ。】

今晩の宿ナウリコット村のThasang Villege Lodgeに、また3時間ほどジープに揺られて、ガンジスの源流から急な山道のつづら折りを9回ほど繰り返してLodgeに到着。Lodgeは2700メートルの高度にあり、目の前にダウラギリの8167mの山なみがよこたわる。このふもとに80軒の小さな村があり小学校があった。

【ガンジスの源流から登ること300メートル。】

【ナウリコットのむら】

夜空の星の数は素晴らしかった。空いっぱいにちりばめられています。夜の9時ごろ屋上から皆で星空を仰いだ。オリオンが、シリウスが、とてもあかるい。周りの星達の多いこと。こんなに沢山の星があったのかとビックリする。冬の大三角形がすぐ認識できる。シリウスの下に光輝く星の集まり、あれが大犬座なのだろうか。次の日の朝4時ごろに目が覚めてまた懐中電灯を頼りに一人屋上に上がった。今度は夏の星座白鳥です。天の川が凄い。今日は水がたくさんあるようだ。牽牛と織女がまさに川を渡らんとしているようだ。こんなに沢山の星で作られる天の川も初めてだ。この自然を何とかPollusionからまもりたいものです。

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【ダウラギリと仲間たち】

今日は一日ホテルからダウラギリの中腹まで、皆で登る。3000メートルのあたりでヤクが草を食んでいる。ヤクは3000メートルの高さが快適に過ごせる場所だという、おもしろいですね。村の人が朝ヤクを連れてダウラギリの登り口(約2800メートル)に連れてくる。そしてヤクを放すと彼等は3000メートルまで登って行って草を食べるという。そして夕方になると又村まで降りてくるので村人に迎えられて彼らの家にいく。村の家は家畜と人間がともにくらしている。家の半分は家畜の部屋になっている。ダウラギリからの水が導水路をとうして村に流れている。途中水車小屋があり蕎麦をひいていた。村人が一人のんびりと小屋の前で蕎麦が挽けるのをまっていた。

【蕎麦の碾き臼のある水車小屋】

ここに簡単な発電機を数個並べれば発電ができるのでは。そしたらせめて数百Wattの電球をつければ子供達も夜勉強できるのでは。またLEDランプにすれば数ワットでいけるから80軒の光はすぐとれるのでは。本格的に考えてみる必要があるようだ。早稲田大学の大学院生の下田くんにこのプロジェクトを投げてみた研究の結果がたのしみだ。

ダウラギリからは数条の滝が流れている。これこそマイクロ水力発電を行えばこの小さな村とこの小学校に電気が引ける。そしてネットがつながれば子供たちの勉強に役立つが。この思いをカトマンヅに帰ってから日本の藤原公使との夕食で何とかしたいという思いが一層つのってきた。Nepalがスイスの様な観光国家として成り立たせるにはこの自然を早く守り、環境を保全する必要があります。ネパールの政治家が早くこれに気づいて国を守ってほしいものです。

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カトマンズに帰ってから伊藤先生と友人アミラさんの農園を見学に行った。カトマンズの町から3時間のバスの旅急峻な山と谷の間のバスの旅は、ただただ緊張の連続で農園についたときはほとほと疲れきってしまった。この国の農家は大変なところで頑張っているのです。

【伊藤先生と友人アミラさんの農園】

それでもカトマンズという大都市を控えて農産物の需要は相当あるようです。その農園はありがたいことに水が豊富で、農作物は順調に獲れているようです。農園の下の方に、かつて日本政府の援助で作られた発電所があるこれが、カトマンズへ電力を供給している、ほぼ唯一の発電所だという。いつも停電しているからあと2,3個所このような発電所を作らないとカトマンズの停電は解消されないようです。まずは国の政治がしっかりしないと、国民の生活は改善されないでしょう。どの国も同じような悩みがあるものです、信念を持って、将来のために,しかりした政策を打ち出せるリーダーが出てきてほしいものです、さて鳩山さんはいかに。そしてまたObamaの信念はいかに。見守っていきたいが、ぜひとも将来を見越した施策がほしいものです。

楽しくもあり、苦しくもあった旅を終り、ネパールの人のために何かできないだろうかという思いでカトマンズから帰国の途についた。

【ナウリコットの幼稚園】

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伊藤 ゆき さんのこと。
今回のHimalaya行きは同級生の小林禧夫君(埼玉大学教授)とヒマラヤに行きたいねと数年前に話して、そして同じく埼玉大学で国際交流センターの特任教授の伊藤ゆきさんを紹介されて愈々ネパール行きが決まったものでした。伊藤さんはネパールの日本大使館で数年仕事をしていた方で、ネパール語を流暢にはなされます。文京学院大学で国際協力フィールドワークを教えていらっしゃいます。そして学生たちを連れてネパールの現地の人たちのところでホームステイさせています。暖房のない、トイレもない家で村人たちと生活する・・・。こんな経験ができる学生は幸せですね。たまたま我々の最後の日に、その学生たちに会いました。とても喜んでいて、大変なことがあったなどとは一つもこぼさなかった。こんな経験をした学生は社会に出て活躍できるものとおもう。学生がほしかったら伊藤先生に連絡してください。

ハイテクの社会でいきていてSilicon ValleyがEntreprenurのメッカでTie Conが若者の眼を開かせるチャンスだなどと考えて行動している自分に、一つのアンチテーゼをあたえてくれた。ネパールのなかで限られたリソースで生きている人たちの生活を、身をもって経験することが大変かけがえのないことのように思う。短い間で伊藤先生の話を聞いて彼女の活動を網羅するのは難しいが、何せネパールの事を一生懸命に考えて手をさしのべ活動しています。我々がナウリコットのむらの学校を訪ねたのも、先生がNPOの援助で村の女性の大学教育を援助してこの村の先生になってもらった、その女性を鼓舞するのも目的のひとつでした。彼女は幼稚園の園児たちを担当して、楽しそうに授業をしていました。伊藤さんとの再会でうれしそうでした。

伊藤先生はNPO日本ネパール女性教育協会(JNFEA)の理事で、また(社)日本ネパール協会(JNS)の副会長(www.nichine.or.jp)もされています。まるでネパールの母みたいなかたです。今回のガイドのピータバルも伊藤先生を慕い、流暢な日本語で、我々の女性群が絶大な好意をよせていました。ピータバルの生い立ち、その後の彼の努力は又ネパールのすばらしい、Entrepreneurでした。もう一度ネパールを訪ねたい、この次はEverestのふもとまで行ってみたい。

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数週間前に伊藤先生からメールがきた。本人に許可なしてここに掲載したい。
From: Yuki ITO Sent: Friday, April 02, 2010 12:30 PM
To: ‘tsuyoshi taira’
Subject: 平強ブログ

平 様

平様のブログを、「お気に入り」に入れました。
息子たちが父親を乗り越える年齢になって、夫は、少し壁を低くしてやりながら、
「何の仕事をしても、食ってゆければ良い。ただし、虚業はするな。」と言ったようです。
私は、東京外大ヒンディー語科4年だった息子に、「カルカッタで半年、港湾労働者
をしてこい。ただし、インド人労働者の仕事は奪うな。世界のどこに住んでも良いが、
日本で役に立たない人間は、外国へ行ったら、お邪魔になるだけ。」と、運送業をして
いた友人に預けました。優秀でない子どもには、体で憶えさせることも大事。
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伊藤ゆき

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伊藤さんは2人の娘さんと2人の息子さんと一人のご主人の面倒を見ながらネパールのために頑張っています。さすがにお母さん、子供を崖からつきおとしています。きっとすばらしい青年に育つでしょうね。私もハイテク至上主義を少し修正して、私がやっている集まりを少し修正しようかと思っています。いまさら Home Stayは無理なのでガンジス川で沐浴ぐらいが良いかなあ。あるいは又、あのムクチナートで、皆で108の聖水で煩悩を洗いに行くかなあ。

友よ、覚悟を決めておいてくれ。