シリコンバレーのエンジェル投資ブログ

月: 2009年1月

参禅苦行 超禅寺での坐禅

昨年から剣道をはじめた。
われわれの子供の頃には赤銅鈴之介 という漫画が大人気であった本屋で立ち読みするのが楽しみでした、自分も同じようになりたいなと思ったこともあった。
流れ流れてここシリコンバレイに来て剣道に触れる機会もなくすごしてしまった、仏教教会で教えているらしいとは聞いていたが昼夜兼行でわれを忘れて勤務する日本企業に働いていればそんな機会も作れないでいた。最近になって、たまたま 大美 明広さんと知り合いになって彼がボランテヤでアメリカの人達に剣道を教えていることを知り彼の 誠心塾に入ることにした。

昭和の剣聖 大森 曹玄 の”剣と禅”という本のなかに剣、禅 一如 という言葉が随所に現れて剣の達人が禅の修業によって剣の道を会得するのだという。
それも坐禅によってその 道を会得するのだという。
いったい唯、座っていてそんなものが得れるのか不思議でならない、でもそれなら自分も座ってみるかという気になった。大美さんは昨年みんなを連れて京都の禅寺に行ったという是非次の機会に参加させてもらおうかなと思っているときに大美さんがハワイの超禅寺での剣道および 空手道の 参禅訓練を企画してくれた。
大変楽しみにこの企画に参加した。

プログラムは朝の5時起きそしてすぐ坐禅を30分行う。それから剣道、空手の訓練がある。それから朝ごはん 一汁一採であるが沢庵が3切れ付いていた。
どうやら横山禅師が自ら味噌汁を作ったらしい。運動の後さすがに美味い もういっぱいご飯を食べたいが禅寺では一汁一菜と聞いているとにかく我慢しよう。
10分ほどの休憩の後から呼吸法などの訓練があったそれから二回目に坐禅30分、そして老師の禅武道の講話、それからお昼 今回は一汁一菜と野菜の煮つけが付いた大変おいしい少しおなかすくなあー、これが禅僧の生活なのだ、役の行者の修行の話を聞いたことがあるそのときの食事は1日に一度だけ、それも一汁一菜とものすごく薄い沢庵がふた切れという、もう、おなかがすいてご飯の一粒一粒がとてもありがたく大事に食べたという、まだわれわれのほうは野菜の煮つけが付いたりヒジキが付いたりしている。ありがたいと思った。
お昼にはおやつが出た小豆と果物が付いている最高のおやつです。
やっぱりわれわれはまだ甘やかされているのか。

朝ごはん一汁一菜と沢庵が2切

夜はシャワータイムがありそれから 夕食その後に坐禅でそれからお経の朗読、そして9時に消灯してみんなで道場に寝袋でねる。 ハワイなので暖かい消灯の後はさすがにつかれきって直ぐ寝付いてしまう。

このようなスケジュウルが2日半ほど組まれている。
大森 曹玄の”参禅入門“ をハワイ行きの前に読んだ、座り方などが書いてあるそして坐禅することによって人生を知り、無を体験し、そして悟りを開くという。
大体一回の坐禅では40分ぐらいを座るらし。それには線香の一本がほぼ40分だというだから30分あるいは15分にするには線香を短くして線香の燃え尽きをみながら座るといいという。
大体座って人生を考えるなどあるいは悟りを開くなどとは初心のものには無理な話しである。雑念がいっぱい湧き上がって静かに座ってなんか入れないと思う。
そのときは自分の息を数えるのだそうです。

座り方はお尻に座布団を敷きお尻のほうを少し高くして両足のひざとお尻の3点で体を支え背筋を真っ直ぐにして座るという。そして眼は開いて自分の先1.5メートル先を見て座るのだという。眼を閉じたら寝てしまうのでなるほどと思う。
正座ではないのであまり足に負担はかからないがしかし座ったことがないので大変苦痛だ、おまけに膝の関節が直ぐに痛くなってくる。

さて最初の坐禅が始まった、いろいろ姿勢を正して体を安定させてから老師が席に着くそして拍子木を2回たたいてから引磬(いんさん、ちいさいかね)をならす。引磬は4回なったそして4回目の音が消えたところから体を動かしてはいけないのです。
老師が線香に火をつけたあれがみんな燃え尽きるのに40分か大変だなあ、とにかく座り始めたが足の関節が痛いもう年で油が切れている。とにかくこの40分をどうしてすごすかが大変だ。痛さをこらえるには何かを考えて気を紛らわせるしかない。
羊を数えるといいとも言うそのとき福岡で食べたギュウタンを思いださしそのギョウタンが鹿児島の大きな牧場から来るのだと聞いていた。そしてこの牧場の主は1頭一頭の牛の顔を覚えていて必ず朝に皆の牛に挨拶するとのこと、それも牧場全体で千頭もいるという。
この主人は牛の顔を見るだけでその健康状態がわかるとのこと。また毎日何頭かの牛を殺さないといけないのでその日に殺される牛は主人の顔を見ただけで ああ 今日は俺が殺される番だと分かって涙ぐむそうです。しかもおまけにここには千頭の牛がいるわけです。千頭もいるならこの牛を数えたら40分は持つわいと思いこの主人よろしくおのおの牛の顔を作り上げて、牛の勘定に入った。一つ、二つ、三つと勘定していたら牛が大きすぎて4頭目でモウー 頭の中からはみ出していったしまった、仕方なく今度は羊を勘定することにした。スコットランドの牧場で牧羊犬とともに勘定することにした。
牧羊犬は数えた羊を片方に押し分けてくれて数えやすいようにしてくれる。いまのところ牧羊犬はわが意のままに動いてくれている。
21頭目で一匹の羊が群れから外れてしまったこの瞬間に 牧羊犬が迷える羊を追っかけていってしまた。そのためあとの20頭もまたもとの群れに入ってしまった。
そのとたんにアー膝が痛いお尻が痛いさあ大変だ、線香をみるとまだほんの少ししか燃えていないこれは大変だ 途中で降参か。
もはや羊はやめて数を数えることにした。こちらのほうがわれを忘れることができない段々痛くなる。先日あたらしい ビジネスプランを持ってきた男がいた。それは写真をいろんな形でデスプレイしてそれから宣伝をその間に入れていくというものだった。
今のイメジ プラロセッサー ならいろんなことができる。そのうち自分でとってきた写真のイメイジ が走馬灯のように浮かびあがってきた、昔よく行った北八が岳の写真、 奥穂高、スイスの登山鉄道でアイガーの北壁で槙 有恒さんがビバーグしたところから北壁を望んでまたぞっとしたこと、ユングフラウ でスケッチをしていたら叔母さんが覗き見て大変素敵ですね生まれて初めてほめられこと、 そしてグリデンワルドの友人のシャトレー の写真など、がでてくる。
そうこうしているうちにEurope Technology Round Tableであったフイリップス のMr. Wouter Von Roost  の顔が出てきた、彼とはバロセロナの会議でランチを一緒にして 非同期 のプロッセッサー の開発の話をしたことがあった デイストラクテブ な技術の開発を担当しているしかも彼がエンジニヤーではなく哲学科出身だという。
ゲリー ラングフォドの顔が浮かんできた、かれは47士の研究を永年やっていてなぜ浅野匠の守 が 吉良に嫌われたかの説をいろいろ説明してくれたそして47士の一人、  矢間真六光風 を描いた 絵を私の誕生にくれた、一緒に開発した Internet用のIC の会社はうまくいきませんでした。そして次に囚人のためのネット でのサービスソフトウエヤ がとてもよいという報告があってからまた音沙汰がなくなった多分これも旨くいかなかったのでは。シリコンバレイの アントレプレニヤーは飲まず食わずでチャレンジが続いている。
彼は今の天皇が皇太子のときサンフランしこで 47士の話を殿下にされたそうです。彼のうちはレットウットシテイ の山の中にあり仙人が住んでいそうなところでした。パーテーに来ていた連中がまた同じ穴の狢、連中の話題もフリロソフィカルなものに集中している。禅の話デモしてやろうかと思ったがボキャブラリーが足りないのでやめた。まるで霞の味がどんなものかみたいな議論をしていた。

ラリー、キルデル の顔が出てきた、彼はぺブルビーチ、ゴルフ場の16番ホールの上に家を構えていた、IBMがOSを探して訪問したとき残念ながら彼はヒコーキ 乗りに出かけていた、だからデイジタルレサーチの CPMのOSでなく名もない(当時)ビルゲイツ のマイクロソフトのOSが採用されてマイクロソフトが大成功したのでした。その後キルデルはスマートホンを開発しようとして頑張っていました。2インチX5インチのLCD がほしいというので研究所にお願いしてサンプルを作ってもらった
サンプルができたので電話をすると家にもってこいというので家まで届けた。ぺブルビーチの16番のグリーンを見ながらLCD のスペックの打ち合わせをした。家にはランバギーニが2台駐車していた。丁度ガス規制が施行されたので最早公道では運転できないという。時々電話するがまだスマートホンの機能を決めるのに時間がかかっているということだった。しばらくしてテキサスから電話がありLCD に関する質問が2,3きた、どうもプロジェクトはあまり進んでいないようだった。それから数年して彼がハートアッタクで死んだという記事がサンノゼマーキュウリーの片隅に載っていた。確かそれは1994年だったと思う。52歳の若さだった。
成功するかあるいは名もなく消えていくかはほんの一寸したチャンスをものにできるかどうかで人の運命が決まるようです。彼の後半の人生はどのようなものだったろうか。
やっぱり悔しかったに違いないだろう。

線香をみるとまだまだである。突然老師が立ち上がってそして正面の仏壇に向って一例をしてそこから棒をとりだしてきた。そしてわれの前と静かにゆっくりとあるきはじめた。
あ これがあのけ警策(けいさく)というやつで身動きした奴とか居眠りしている奴を打ちそえるものなのだと思った、老師はすごくゆっくりとあるかれる。 右足の指先を天に向けてからそれからゆっくりたたみにおろしてそれと同時に後ろ足のかかとがゆうくりと上がる。
この歩き方はまるで獲物を狙う猟師の歩き方でる。さあ大変だと直ぐに背筋をまっすぐに伸ばすことにしたどうかわが前をと売りすぎてほしいと祈りながらあるきさるのを待った。
警策を細いほうを上にして担いでいる肩をたたくのはひらぺったいほうだと思うのだが。
いずれにしても恐怖の数分が過ぎてくれた。われわれは初心じゃだからたたかれまいと思うけれどもあの獲物を狙うような歩き方は誰か犠牲になるのではないかと思ったがみな無事であった、われわれは総勢 12名 小学生一人中学生一人、女性5名男性5名
のメンバー一回りして老師が自分の席に着いた線香はまだ1/3 も燃えていない。
足がすごく痛いもうだめだ、しばらくして老師が拍子木を一回打ったそしてみんな立てという。ああ足が痛くて立てない何とかこすりながらやっとたちあがった、そしたら今度は手を胸の前で組んで歩けという。 経行(さんひん)という道場を一回りすると今度は道場を斜めに走るそしてまた一回りして自分の席に着き座る。
座ってからまた 引磬が鳴らされるそれからまた坐禅が始まる。この途中に立って道場のなかを歩くのは足の血行を良くしてくれるのでなるほど理にかなている。
線香はまだまだ残っている、走馬灯も中断されてしまった。仕方なく数を数得ることにした。長い長い30分であった。とりあえず一難が去った次は後2回の試練に耐えられるのか。
坐禅悟りを開いた禅僧の話がいっぱい本に載っている。ある僧は20年間も日夜参禅シテやっと悟りを開いたという。達磨さんは壁に向って9年も坐禅してやっと悟りを開いたというあまり長く座り続けたので手も足も出なくなったところから今日の達磨さんの像ができたとのこと、また達磨禅師に教えを請うた 恵可 は達磨禅師に断られてのでわが腕を切って(ほんとに切ったかどうかは定かでないらしいが)その熱意を示しやっと弟子入りすることができたとか(恵可断臂)。 又剣士は昼夜一日に何べんも坐禅して剣の奥を探ろうとす。
山岡 鉄舟 はあばら家で坐禅をすると屋根裏のねずみが静かになるという、また悟りを開いたあとからは鉄舟が書を書いているとねずみが肩まで上がってうろちょろしていたというまたある禅僧は年取ってからも毎日坐禅することを欠かさなかったというそしてもう足がまがらなくなって病気になった余命いくばくもなくなったとき座禅をしたという当然足がまがらないのでついにはボキと骨が折れような音を立てて坐禅をしてそして大往生したという。 とにかくすさまじいかかぎりの話ばかりです。

何のこれしきで30分も座れないのではわが人生も終わりだなと心に決めて最後まですわってみせるわいと心にきめた。

昼食のおいしいことヒジキが付いていた。
それから禅の呼吸法を教わった 大事なのは へその下を丹田というこの丹田に力を入れて呼吸をするという。そして自分の気をこの丹田のしたまで押しこむ。
こうすることによってその気が腹を温めて暖かい蒸気が上のほうに上がっていく、ですから寒いときにもこのような呼吸法を用いることによって暖かくなるという。
数々の剣聖があばら家でたいした布団もなく冬でもすそごせてのはこの坐禅のおかげだという。

禅の呼吸法はこの丹田のしたまで気を静めるというのがこつでまた吸う息よりもはく息を長くするのだという。老師が息を吐いて見せたがその長いことは肺活量がわれわれの数倍あるみたい私のように肺活量のちさい人には無理のようだ。
とにかくはく息のときも腹を膨らませるとのことだから絶えず腹は膨らんだ状態であることがこつみたいです。それだから座っていても腰がまっすぐになっていて長いあいだ座っていられるのです。
4回目の坐禅、とにかくここまではこれたこの最後の坐禅を行えば今日はおわりです。
そろそろ頭が朦朧としてきた、目を1.5メートルさきを見据えている。突然ゆかがもり上がって自分の口の高さに盛り上がっているそしてしばらくするとなんとそれがハワイアンブレットです、もう少しで口のところまでどどきそうである。そうすれば一口たべられそうだ。もう直ぐ口のところに届きそうになってからハワイアイアンブレッドはまたスーと下がっていった。それが何回かくりかえされる。ギリシャ神話でゼウスの神に罰としていけのなかにつながれたタンタロス のようにのどが渇いて水を飲もうとして口を水のところにもっていくと水がスーと下がって水が飲めないまた頭上に大変たくさんの果物があるので手をのがせて取ろうとするとまた水位が下がって手が届かない乾きと飢えの苦しみの罰を与えられたタンタロス なみに罰を与えれれたらしい。 このタンタロスと同じような苦しみを繰りかえした。相当おなかがすいているに違いない。また鐘の音で救われた、経行 のときがきたありがたい少し足の血行を良くして残りに時間に耐えなければいけない。

また 警策が回ってきた突然 大美さんのところで止まった彼が打たれるときがきたのである。合掌してけいさくを受ける肩を落として老師に向う最初場所確認で少し打つそして本番なんと渾身の力で3回も打たれたのである。すごい音がした 休憩時間に壁にかかっていた 警策をみたら真ん中で割れていてそれをテープでとめてある。
話を聞くとブラジルに行って坐禅の指導にいったのだがそのときは 警策を5本も折ったというはしを聞いて背筋がぞっとしたのです。アーこれがあのように 渾身の力でうたれたらいくつあっても折れてしまったのだと思た。
大美さんは代表として誰かが犠牲ならなければいけないと思って警策わざっとを受けたのだと思った。 あのすごい音を聞いてまた背筋に冷や汗た流れて祈るような思いリー、バートン老師が自分の前を問う過ぎるのを待った。

開放されて最後のレクチャーがお経を上げる練習。AOUEI をみんなでがしょうするふしぎに30分も練習するとみんなの波動がいっちしてすばらしいリズムになっていた、どうりでお寺のお経があのすばらしい音色になるのだと理解できた。

9時しょうとう やっと一日が終わった、明日からがまたたいへんだ座るのがこわい。
すっかり疲れてあっというまにふかいねむりについた目がめがさめたら5時近くだった
これからまた朝食まえの坐禅がはじまる。

合宿は道場で寝袋で、女性は別室の畳に上で

朝の坐禅を無事に終えた、庭先にワイルドオオキッテが咲いている。リー老師にこの花は植えたのかと聞いたらそうではないという。
この花は野生の花で人が植えようとしてもうまく育たないというしかしどうしてここに生えているのかと聞いたら、実は 田上禅師が種をまいたという。植えたのと同じではないかというと違うとのこと、ある日田上禅師が種を持って空を見上げてるそして雨が降り始めていた、そこで 禅師が突然種をまきあげた それがこのオキットだという。
自然にしか生えないし人手で植えられないが禅師の気合が花を根ずかすのだという。
またリー禅師が田上天心 師についてのもう一つのエピソードをはなしたくれた。
リー禅師が岡の上にいたとき 田上禅師が おいリーそのあたりに異常はないかというのであたりを見回しても何も異常はないので何もありませんといったらおかしいも一度あたりを見回してくれという 見回したが別に異常はない また異常はありませんというと 田上禅師怒って左に5歩進めそうして後ろに三歩進め何かあるかという。
なんとそこには石をぶつけられてきずつぃた雀があるのです。雀が怪我していますというと。もって降りてこという。雀をもっていくと田上禅師がそれを受け取り左手の中にそっと持っていたそして禅師はほかの人たち仕事の話をしながら あちこち歩いているそして元に戻ってきたときに雀をそっと空にほうり上げたなんと雀は元気に飛び立っていったのです。

そんな禅師が田上禅師だったのです。そしてその禅師に教えを受けた面々が今このお寺の活動をささえている。
素晴らしい禅師であったようです。
田上天心は ハワイ一の剣の達人だったようです。大美さんの話し、大森 曹玄がハワイに来たときに田上天心が 大森 曹玄に教えを請うた。そしてハワイには禅を教える人がいない是非一緒に禅寺を作って禅を教えてほしいと懇願されそしてそれでこの超禅寺を一緒に作ることになったようです。このお寺をすべてポランテヤの人たちが作り上げてお寺だという。たくさんの石をよけたり動かしたりして作り上げたようです。
静かな山奥にあります。 石を動かすときも無理に動かさないで石がうこきたい方向に押せば石は自然に動くのだというそんなことを田上禅師が教えながらこの超禅寺ができたのだという。
田上禅師の教えがその弟子達に受け継がれており更に周りの人たちに薫陶されているようです。

朝ごはんがおいしい、昔の人たちはこの一汁一菜でよくたいへんな修行ができたのだと感心する。しかも剣の修行はたいへんなエネルギーを使う。
精神りょくなのか。れいの丹田の下に気を押し込むことによってエネルギーを蓄えているのか。
お昼の坐禅を何とか切り抜けた後二回、でもあの警策とやらを一度受けてみたい、休み時間にリー禅師にすみませんがれいのけいさくで今度打ってくれますか。とにかくやわらかくお願いしますと頼んだ、さて3回めの坐禅にいよいよ警策の洗礼を受けてみるチャンスがあるぞと心待ちにしていた。れいの鐘の音で坐禅に入った、先ほどから廊下の外で近所の百姓さんがサムイを着て、たっていた。坐禅がはじめまるとくだんの百姓さんが尺八を吹き始めた、朗々として静かな空気の流れのような音色を奏でる。 すごくこの坐禅にぴったりのねいろです。
そして延々とわれわれが座っているあいだ中吹いてくれていた。そろそろ後半の坐禅になったいよいよリー禅師がけいさくをとりに行く時間だが、しかし一向に立ち上がらない。さては尺八の演奏を邪魔しないように今回は けいさくの回遊はないみたい、残念これでけいさくを受けるきかいがなくなるのではないだろうか。
尺八の音は実に気持ちがいいし坐禅の苦しみをやわらげてくれた。
あの百姓は尺八の名手で本田老師だったのです。
なんと午後の講義は尺八の講義であった例の本田老師が講師であった、まずは呼吸の仕方を教えてくれた全く禅の呼吸と同じである息を吸ってから吐き出すときにできるだけ長く吐き出すとのことそしてそのとき腹を膨らませて吐き出すのだという。
本田老師おもむろに腹を出して呼吸がどうんるかを見せてくれたすった息が腹を膨らませる、そうして腹は膨らませたままで息を長いあいだだしつずけている。
まるで坐禅の呼吸そのものである。なるほど虚無僧と尺八があうわけだ。
それからプラスチック の尺八を渡された全員で音だしをする。唇をわずかにつけていきを吹き込むのだという。
吹けども吹けど音はでなかった大美さんと2,3の人が音がでっている。吹いているとやっと音が出できたと思ってらとなりの和美さんの笛の音だったしかなく廊下に出て他の人の音が聞こえないよに一身プランに息を吹くが音がでない。
なるほど芸とはこんなことか何の変哲もない笛が音を出してくれないとは。
尺八には楽譜がないというだから自分の気分で雰囲気に合わせて音を出せばいいという。
そう言えばわれわれが坐禅している間中音に切れ目なしに心地よい音色が最後まで流れていたのです。おかげで慧作の恐怖からも逃れることができた。

尺八の名手 本田老師

休み時間に超禅寺の運営に携わっている会長の リムさん と大美さんとともにあった。
彼はアルコア のエグゼクテブ の訓練を担当していて毎年アルコアのエグゼクテブを30名ほどこのお寺で訓練していたという。そしてその訓練は非常に効果があったという。

アメリカではアスペン講座というのがあって、アメリカのトップの エグゼクテブ をアスペンの山の中に集めて講座を開いているという。この講座は プラトン、とかショペンハウエルとか 波動力学とか シェピクスピアなどの本を参加者が前もって読んできてそれに対して参加者が議論するのだそうです。これでアメリカの指導者のレベルを上げるのだそうです。なるほどアメリカの指導者というのは自分の哲学を持っているのはこういう訓練を受けているのだと理解しました。日本でも経済同友会の小林陽太郎さんが軽井沢で同じような試みをされたと聞いています。
超禅寺が禅の心を理解させると同時に経営者に自分をしかり見直すための機会を与えているのだと感心しました。これは是非とも今後の日本を支える若い経営者をここに連れてきてじっくりと坐禅を通じて人生を経営を考える機会をつくれればなあーと思った。

そして三日目の朝が来ました。今日は警策を受けるぞと張り切って座りました。
早速老師が警策を持ってそろりそろりと歩き始めました。まず大美さんが一番に両手を合わせて警策を受けました。ヘンリーもまた同じ思いで警策を受けました。隣なので横目で見ろと まずは打つべき肩を軽く打って覚悟を決めあせるそしていよいよ本番なんとすごい力で思い切り3回打ったのです。その音の多きいことなるほどブラジルで5本も壊したのだと思うとぞっとした次は私の番です、もう逃れられないあきらめて合唱して警策を受ける。背を平にしてけいさくを受けた痛かったがいい思い出となった。
超禅寺はホノルルのはずれの山の中の小高い丘の上にあります。空気がすんでいて霊気が漂っています。エネルギーが満ち溢れています。
忙しい世の中で2,3日ここで坐禅して経営を考えることも大事ではないだろうか。
勿論人生を考えるのもいいがそれはあまりにも大きな命題だからとりあえず少しはなれての日常の経営を考えるのもいいのでは

リー老師が 沖縄民謡のガジャで風 というのを踊ってくれた。
これは踊り子が宮廷で王に踊りを披露して自分の恨みを晴らすために王に近づくための

おどりだそうです。そしてそのセンスが武器となりこれを王に向けて 放つのだそうです。
リー老師は白の袴をはきセンスをもって踊ります。
すごく ゆっくりした歩みです。足の運びは剣道の摺り足です。あの歩き方は警策を持って歩くときの歩き方です。そしてセンスの使い方に気合が入っています。
又その動きは空手の動きをゆうくりしたものです。ここでも武と舞が一緒になっています。武道の道に通じたものは舞踊の道にも通じています。
リー老師を女装させたらそのまま美女の踊りです。

首筋にハートの刺青にあるザッカリー青年はここで修行している。毎朝6時半になると彼が鐘を鳴らす。7回ならしていた。横山禅師はその鐘の音を聞いて今日はザックは心ここにあらづだとわかるそうです。周囲の住人はこの鐘の音で朝起きるのだという。ある朝ザックが寝坊して鐘を突くのが遅れてしまったら周辺の人たちも会社に遅れてクレイムが来たそうです。この鐘の音はここらの住人の生活の一部となっているようです。
ザック青年はわれわれに呼吸法を教えてくれた、息を吸うとき口を真横にものすごい勢いでひっぱたようにしてものすごい音とともに息を大きくすうのです。
このときのザックの顔がすごいどっかでみたなあーと思ったらお寺に門の横に立っている仁王様そっくりでした。あの仁王様もこのようにして息を吸い込み形相ものすごくして仏様を守っているのだなーと思った。
最後の超食をいただいて 横山老師 いつもまかないをしてくれたソニヤー さんにお礼を言って三々五々超禅寺をあとにした。
ザック青年はニュウヨーク の恋人のもとに帰えるのだという。
また誰か実習に来るだろうか。

日経エレクトロニクス|エンジェルの実像

日経エレクトニクスに私のインタビュウ記事がのりました。
日経エレクトロニクス2008年12月号より転記の許可を得ましたので掲載いたします。


日経エレクトロニクス 12月号

掲載記事PDF 

稲盛 和夫 さんのこと

一生のうちで会いたい人が何人かいます。
松下幸之助 さん と稲盛和夫さんがその人たちでした。しかし松下幸之助さんには生前にはついにお会いすることができませんでした。
日本の企業組織は、社長に会うにはその下の数々の障壁を乗り越えなければ会えないものです。従業員にしてもしかりです。
アメリカの会社だと社長はいつでも、My office is always open , please come to see me.
といってくれるので会おうと思えば簡単に合えます。そしてたいがいが壁のないオープンなオフイスです。
しかし日本の会社の社長は一番奥の大きな個室となっています。多分人事部長の部屋、総務部長の部屋、秘書課の部屋などを過ぎたその先にありますから面談をするのもこれらの部署を経由してアポイントを取らなければいけません。たいがいば第一番目の関所ではねられてしまいます。
どうしても会いたいならこれらの関所のない自宅の門前で座り込みをしなければいけないわけです。信念のある人はそのようにして目的の人にあったものです。
移民の父といわれて鹿児島から農業移民を300名もアメリカに送り込んだ 内田善一郎氏は一週間も座り込みをしてつぃに通産省の役人に会うことができたのです。そして自分のアイデヤを説明して補助金をもらったそうです。

かって三洋電機の半導体事業部USA に勤めていた頃、井上 敏 会長に会いたいと思ってとにかく筋を通さなければいけないだろうと思い、敏会長に一番近いだろうと思われる取締役に面談をおねがいしました。そしたらくだんの取締役氏いわく平君あなたの身分で会長に会うのは失礼だよ、それが日本の組織というものだよとのたまわれた、何か提案があるなら私に持って来い、善処するからとのこと。
敏会長とは氏が群馬でオーデオ事業部長だった頃私はエンジニヤーとしてたびたびお使えしたことがあるので直接乗り込めば会えないことはなかったと思います。
しかしトップグループのこのような硬直ではあまり期待が持てないと思い敏会長にお会いするのをあきらめました。それからしばらくして私を三洋をやめて独立しました。
日本の大企業はほぼ同じような状況かと思います。社長が My office is always open
Please come to see me any time となるよな雰囲気を作らない限りいい人材は育たないのでは。

スタートアップの会社の技術屋を連れて日本の大手企業の事業部長クラスにアッポイントをとるのですが。まづ総務課あるいは秘書室ではねられます。いくら素晴らしい技術だといてもけんもほろろに断られます。アメリカだと興味があれば必ず会ってくれます。またこちらが小さな会社でも快くあってくれます。アメリカのほうがその意味ではビジネスが大変やりやすかったと思っています。

10年ぐらい前に日経ビジネス の何十周年かの行事で大きな講演会がありました。
このときにNASDAQ の当時の会長 Frank Zarb氏を呼べないかということで相談を受けましたので、やってみるかと引き受けました。まずは友人を通じてZarb 氏の電話番号をもらいました。日本だとこの秘書の段階でまず総務部に回されるか、その場で断られるのが落ちですが。Zarb 氏の秘書は話しを聞いてくれました。そして日本経済新聞社主催の講演会に日本に来て講演してくれないかと頼みました。勿論日本経済新聞社のブランドがあるからだと思いますが、話を聞いてくれました。いろいろ話しを聞いてくれてZarb 氏のスケジュウルを追いかけてくれました、そして4、5日かけてやっと訪日を了解してくれました。日経ビジネスも大変助かったと思う。
このときの日本の講演者が ソニーの出井さんでした。 彼はキャシュフローの経営について滝に流れ込む川で流木につかまっている経営者がアップアップしている絵を出してキャシュフロー経営がいかに大事かを話した居られました。多分ソニーではそんなことができてないときに出井さんが導入したのではないかと思われます。このときの出井さんの話が素晴らしくそのうちお会いしたい人の一人に加えておきました。

Zarb 氏は Nasdaq がベンチャー企業の上場を助けそれがアメリカ経済を大きく貢献していることを説明していました。そんなことがあって日本でのNasdaq 市場ができたのかと思います。彼のはなしは アメリカのベンチャー企業のがどのようにして成功してそしてNasdaq に上場した後大きな企業になっているかを説明していました。日本のベンチャーの鼓舞になったかと思っています。

1996年ごろからInternet が立ち上がりまじめました。この頃Yahoo が立ち上がりサーチエンジンが各社から発表されました。このころスタンホードで勉強中のインドの学生数名がサーチエンジンを開発していました。縁あって彼らと会社を始めることになりました。
会社の名前がジャングリー です。資金集めで台湾の友人からシードマネーその後日本の企業からの投資を仰ぎました。そのなかに京セラがはいっていました。
会社はその後波に乗って順調に推移して、創業後3年後にアマゾンの目に留まりました。アマゾンが会社を180億円で買ってくれました。何せIT バブルです。アマゾンの株が半年のあいだに9倍にもなりました。これですべての投資家に相当なリターンをお返しすることができて胸をなでおろしたところでした、何せベンチャー投資の確率が1%も満たないのが常識でしたから。  勿論京セラもこの恩恵に浴しています。
次のスタートアップの資金集めのときに今度は稲盛さんに会おうと思いすじをとうしてアッポイントを入れるのでがやっぱりブロックされました。
多分このときは自分に“動機は善なりや、私心なかりしか” を自分に問いかけてなかったのがいけなかったのでは、ちょっとした、成功だけで押し付けがましくアッポイントを申し入れたのがいけなかったのだろうと思っています。それ以来どうして稲盛さんに会えるかをいろいろ考えていました。

幸いについ最近に盛和塾シリコンバレイができるということで友人の阪 和彦氏におねがいして塾に入れてもらいました後で聞いたら年齢制限をオーバーしていたようですが稲盛さんにお会いしてゆるしてもらいました。

稲盛さんのかづかづの本を読み稲盛さんの人生哲学に触れることができました。
特に西郷南州遺訓の教えに共感を持たれて利他の心を実践されておられます。
すなわち ”動機善なりや、 私心なかりしか。“ということを絶えず自問自答してことに当たられたようです。特に第二電電を作られるときこの問答を繰り返し私心なくして賛同者を集めることができそれでNTTに対抗できる会社を作り上げることができたようです。そして自分は一株ももらわないでこの大事業を成功させます。
まさしく 動機は善なり。私心なかりし。 でした。このおかげで日本の人たちが全国どこでも安い電話をかけることができるようになったのです。昔は東京から北海道に電話すると大変高いものでした。(それにしてもNTTとはどうしてあんな高い料金を設定できたのでしょうか。NTTこそ”動機は善なりや“は思う必要があったのでは。)

成功された方は成功の事実だけが残りその足跡がわかりにくいものです。しかし稲盛さんの ”稲盛和夫のがきの自叙伝“には稲盛さんが企業経営でいろんな苦労をされたこと。仲間を守るための苦労、あるいはあたらし技術の開発に死に物狂いで取り組み世界で始めての多層のセラミックパッケイジを開発して半導体産業の進歩を助けたこと。そしてPHSなどの次世代の通信インフラを作り上げ通信のコストダウン に貢献されたことなどがかかれています。起業をする人たちは是非この本を読んで燃えるような信念を持ち続けて会社を経営すれば必ず成功するとの確信を得ることができます。

稲盛さんは又 フイランソロフアーとしても鹿児島大学に稲盛経営講座を開いたり私財を投げうって稲盛財団を設立したり京都賞を設けて学術芸術の功労者を表彰したりされています。
またアミバー経営法を編み出して利益の上がる会社経営法を編み出しています。

やっと稲盛さんにお会いできて身近にお話を伺う機会ができました。大勢の塾生ともに話をいただき塾生一人一人を大事にその悩みを聞いていただきそして的確なサジェッションを与えてくれます。
仏門に入っておられたので仏の法話を聞いているような思いで一言一言が心に響いてきます。

致知出版社の藤尾秀昭 さんが”ちいさな人生論“ の中で二十代だった稲盛さんが
松下幸之助さんの話を聞いたときのことが述べられています。
幸之助さんは ”ダム式経営すなわち人材と資金をダムのようにプールして経営をしなさいという話をされたようです。そのとき聴講者から質問がありどうしたらダム式経営ができるのですか。秘訣を教えてください。と質問したら幸之助さんいわく“わかりませんな”と答えてそして”ひとつ確かなことはまず”ダム式経営をしょようと思うことです“ といわれたようです”。
このとき稲盛氏は そうかまづは思うことなのかと脊髄の奥に火がついたように感動して心を熱くしてその心の火が信念となって凝固したと述べられています。

そしてその信念が京セラを確固たる地位を確保することになったと言われています。

信念あるいはビジョウン が最も大事でしかものその信念をあるいはビジョウンを従業員全員で共有してはじめて事業が成功するのもです。
稲盛さんはこのビジョウの共有のために絶えず従業員と膝を突き合わせています。
そして仲間をまもるためにどのような経営をすればよいかを絶えず考え続けてこられたようです。

アメリカン エクスプレスからIBM の会長になったルー、ガースナー氏の著書”巨像もおどる“ のなかでも ビジョウンをすべてのIBM の従業員にいきわららるために大変苦労しています。そしてビジョウンがいきわたってはじめて 巨像も踊ったのです。

更に稲盛さんはビジョウのほかに利他ということを絶えず言い続けています。

私はやっと20年目にして稲盛さんに身近にお会いすることができました。そして稲盛さんの燃えるような信念に感化されました。
この感動を次の世代の人たちに伝えたいものです。
合唱。

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