夢海を渡る – カリフォルニア移民の父
内田善一郎 伝 野本一平 著
1955年からアメリカの難民救済法を利用して日本からのたくさん農民をカリホルニヤに送り込んだ 内田善一郎さんの伝記を読むことが出来た。
戦争で焼け野が原になった鹿児島そして台風による被害で鹿児島の農民は大変な苦労をしていました。そこに内田善一郎氏が 農民を救おうとしてアメリカの難民救済法を利用して農民をアメリカに送ります。
ここ鹿児島の串木野の地は明治維新の頃ここから薩摩の留学生19名が密出国でイギリスのわたります、この中には森有礼、寺島宗則 更にはカリホルニアのサンタローザでブドウを作りワイン生産に貢献した長沢鼎 などが含まれています。進取の気風は島津斎彬公の薫陶でありそしてそれが西郷、大久保などにうけづがれていきます。そして国家を思う有能な人物がたくさん生まれています。早くから薩摩が世界に開けていたから絶えずグローバルなものの見方が出来る人材が育ったのだと思われます、勿論、島津斉彬という優れた城主そして維新の指導的な立場を演じた 小松帯刀がいたことも大きな要因ですが。 アジヤとの交易さらにはオランダポルトガルとの交易など世界の情報が入っていたからこそ視野の広い人物が出たのだろう。グロバリゼイッションの必要性がここにあります。
丁度シリコンバレイにある鹿児島大学のシリコンバレイ。オフイスの主催で 篤 姫の話を 鹿児島大学の篤姫の時代考証をした原口 泉 教授が語りその後に 内田善一郎氏の 息子さん 誠一郎氏を迎かえてパネルデスカッショウンが行われました。
ちょうど一週間前に ロスアンジェルスの 鶴亀 彰さんのはからいで内田誠一郎さんからお父上の ”夢海を渡る“ の本をいただいてあったところでした。
内田善一郎さんは太平洋戦争の敗色濃くなった頃にニュウギニア に配属されます。
それからは米軍の激しい攻撃にさらされてニユウギニア、フイリッピン と退却の連続であった。食料はほとんどなし弾薬は尽きて戦いようのない惨めな状況であったようです。
マラリヤに罹り大変な苦労をされた、そして戦友が次々に倒れていく、次は 自分の番と思いながら必死の退却をしていく。そしてついにマラリヤの熱で民家の前で倒れてしまう。
民家の人が彼を見つけてゲリラに襲われたらいけないと地下にかくまって介抱してくれる 善一郎氏は彼を救ってくれたアルフォウンソ、グスマン家族のことはいつまでも忘れることが出来ない。そしてつくづく世界平和を願い他人を大事にすることを行動の規範としていったようです。西郷の精神 利他の精神です。
善一郎氏の父親もまた鹿児島の串木野で自分の田畑を売って人のため町のために尽くした人でした。その背中を見て育った善一郎だからまた彼も人のためを第一にして努力されたことと思う。
いろいろな苦労の末になんと鹿児島から330名の農民移民をカリホルニア に送り込むのです。善一郎氏の思い込んでからの活動にすばらしものがあります、壁にぶつかっても決してあきらめないし目標の成就のために東京にアメリカにまた時のGHQにと飛んで行きます。 また農林省の役人の家に面会を求めて1週間も座り込みを強行してついに面談にこぎつけて農業補助金をかちとります。これも戦争体験からきた利他の思いそして自分が受けたニュウギニヤ フィリッピンで現地の人達から受けた恩をほかの人に分かち合うためにすごい力を発揮していくのです。
その後カリホルニアに移住したひとたちの家族をアメリカに呼ぶためにまた私財をなげうって努力を重ねていくのです。
善一郎さんの長男 誠一郎さんは今 カリホルニアの ギルロイにすんでおられます。
善一郎さんはアイデヤマンでそしそのアイデヤをものすごい勢いで実行していきます。
いわゆるアントレプレニア なのです。
善一郎氏の夢は次々に広がるばかり南米の コロンビヤ のボゴタで花の栽培をやっている日本の青年と意気投合して
“花一コロンビア” を設立します。これで南半球と北半球のすばらしい花を世界中に供給すると言う夢を実現していきます。
南米のボゴタで作られた花の販売を始めるときもわが息子に大学を辞めてすぐ帰って来いと命令します。そして大学で習うことよりじぶんの 内田大学のほうがよっぽど良い勉強が出来るから帰れという。無茶苦茶な親父である、しかしまたこの息子も二の返事ですぐ帰りますという。何か親子3代血が通っている、そして息子に南米からの花を売りにいかせる。
21歳の息子は商売したことがない。デトロイトに行ってから仕方なく親父にどうして花を売ったらいいのかと電話で聞いたら、親父もどうして売ったらいいか知る由もなし 俺は21歳で若いのだ プリーズ ヘルピミーと 言って花を売ってこいという。 息子もまた親の行動力をよく知ている、かれなりの努力で商売も順調に伸びていきます。
ある年に、
移民した仲間を募って日本の会社に投資をすることになるのですが。その日本の会社がおかしくなり、そのために永年面倒を見てきた仲間から訴訟をされます。そして多大の借金を負ってしまいます。
それからまたこの借金を返すために悪戦苦闘が続きます。
あくまでも利他としての投資であったのが残念なことになってしまったようです。
しかし彼はその仲間達を決して恨むことなく自分の不徳のいたすこととして反省します。
すばらしいを夢を持ちいつも利他の精神で動いていた善一郎さん奥さんが一番苦労されたようです。何せ収入もないのに大勢の人たちが絶えず内田家を尋ね寝泊りしていくのです。また子供達もいつも親の意思で動かされて大変は思いをしたのだろう。娘をサンフランシツコのジョン竹田氏に養子にやるのに、“まるで犬の子供を置いていくようにポントおいていたわね”、と娘さんが後で善一郎さんに語ったそうです。
しかしこれらの子供たちは善一郎さんの利他の心を十分に受け継いでいるように思われます。西郷 の“子孫に美田を買わず”、 のそのまます。 しかし誠一郎さんを見ている限りす晴らし美田が彼の心の中に宿っています。多分また娘の富美子さんもお父さんの薫陶が充分とどいてまたその子供達に伝えられていることでしょう。
善一郎さんは その後かってアメリカが大勢の移民を受け入れてくれたことに感謝して今度はわれわれがアジアの貧しい国々の青年を農業実習生として受け入れるべきだということで政府におねがいして数百名に及ぶ農業実習生を受け入れることに成功します。
善一郎さんはこのほかに戦争中から日記をつけていて その日記を息子さんの誠一郎さんが自費出版しています。”鍬で大陸をとる“ 戦争での大変な経験そして内田さんをかついで最後まで助けてくれた戦友達の話、もう涙がぼろぼろ 落ちてとまりませんでした。
そして 廣池千九郎 氏の提唱したモラロジー (道徳教育と科学)に共鳴しサリナスにモラロジー の道場の建設に力を貸します。今は誠一郎氏がその後を受け継いでいます。
日本のすがらしい うつくしい人を見ることがでました。
2006年、積年の業績をたたえて 旭日双光章叙勲 が3月27日に通知されがこのときはすでに病床に付していたそして奥様と誠一郎氏に皇居に行って叙勲をいただくようにと伝えて3月30日にお亡くなりになった。
パネルデスカッション
左から 長嶺 総領事(San Francisco)
原口 泉 鹿児島大学教授
内田誠一郎さん
鹿児島大学理事 面高俊宏 さん
安藤茂彌 さん (Rans Pacific VC)
橋本千香 さん (Gallasus,Inc.)
司会は Pixera Corp の 井手さん
この本は 南日本新聞社の刊行でアマゾンでは売っていない。是非鹿児島の南日本新聞社にコンタクトして是非 かって読んでください。
すばらしい日本人です。素敵です
また今、日本政府も緒方貞子さんの率いるJICA で発展途上国の人たちのためにいろんな援助を提供しています。世界平和のためにそして貧しく困っている人たちのためにみんなが力をあわせていかなければいけないかと思います。