シリコンバレーのエンジェル投資ブログ

月: 2006年11月

山古志村の鯉をすくう男樹神 衛(こだま まもる)

 

10月24日に Kodama Koi Farm の展示会がホノルルで開かれました。
思い起こせば2 年前の新潟中越地震で山古志村の大半が破壊され住民がすべて疎開しなければいけなくなったことはまだ記憶に新しい。
住民が山古志村に帰るすべもなくいまだ疎開先で苦労されています。
棚田の美しいこの村、錦鯉の産地、あの地震で数十万匹の鯉が死んでしまったという。今この錦鯉のブリーダー の人たちはまた一から立ち上がってあの素晴らしい鯉を育てるためにがんばっています。再度稚魚から育ててその伝統を守ろうとしています。
三色、昭和、紅白など素晴らしい鯉を山古志村のブリーダーたちが育ってきたのでした。
この山古志村の鯉を販売しようとハワイで鯉の養殖所を樹神さんが作られました。

 

 

ハワイの州政府とのいろいろな交渉の結果 Mililani 市で パールハバーを望む丘の上に40エーカーの土地を借り受けてKoi Farm を完成させました。

 

 

このような池が70ぐらいつくられている。

鯉の稚魚は山古志村や小千谷、(新潟県)から購入されています。
ハワイの水質がとてもよいのと気候が鯉に最適なので健康な鯉が育つようです。
樹神さんは州政府に鯉の良さをいろいろ説きそしてハワイ経済への効果を順々に説き養殖池の許可を半年かけて得ることができたようです。
樹神さんの誠実な説得と並々ならぬ鯉への思いが州政府を動かしたようです。 樹神さんは山古志村、小千谷などのブリーダーと40年以上の付き合いで新潟の鯉をこよなく愛し新潟のブリーダーの鯉を世界に販売されています。この深い絆が山古志村の鯉をすくうのに立ち上がり今アメリカから世界に鯉を広めて新潟のブリーダー達が又元気を取り戻せるようにがんばっておられます。
日本錦鯉振興会の新潟地区長 伊佐 先 氏(三色 錦鯉の有名なブリーダー)もこの会に参加されて山古志村の復興の現状を説明され今後の発展を祈っておられた。
樹神さんと伊佐さんのしっかりしたつながりがこのハワイの事業を強力に支えています。

 


伊佐さんが育てた三色の見事な錦鯉

今回のこのオープニングにはハワイ州副知事と経済局のかたがたが多数参加されてKodamaKoi Farm の前途を祝福していました。
樹神さんはハワイ大学の経済学のRobert Garrity 教授(Kodama Koi Advisor) さらにハワイ州政府の経済局 の人たちと大変なかよくしています。 逆にみなさんが樹神さんのフアンとなっています。

樹神さんをみているとまるで昭和の錦鯉のようなお顔をしておられる段々自分が愛情をかけているから似てきているのでしょうね。
初めて 樹神さんにお会いしましたが。もうずーと昔から知り合いだったような気にさせる方でした。又この会合でのSpeech は素晴らしかった日本人に限らずアメリカ人もすべて20年らいの友達みたいに紹介していました。言葉の壁を乗り越えて心の通っていること。この会にお見えになった人達一人ひとりに友達のように応対していました。

茶の湯で 一期一会 という言葉があります。
この人と今ここで会うのが最後かもしれないそうだとするとこのひと時を大事にこの人に接しなければいけないそれがお茶をたてて差し上げるときの心得となっています。

起業家としてもその情熱はたいしたものです。そして鯉を売る情熱は大変なものです。
鯉を売ることによって人生の潤いを売っていらっしゃるようです。
そして 一期一会の心得でお客に接していらっしゃるのでしょう。
又この気持ちで40年間も山古志村の人たちと付き合ってこられたものかと思います。
起業家としても素晴らしいです。 起業をするにはまず起業家の情熱が第一です。この情熱なくしては成功しません。ハイテクの投資を主にやってきた自分にとってこのような業種の起業を見るのは驚きでした、又 樹神さんを見ていてハイテク企業の成功者と相通じるものがあります。
きっと大成功されるものと思います。そしてハワイ経済に貢献しさらに世の中の人たちに潤いを分けていかれる事とおもう。

 


Kodama Koi Farm に投資をされた TNP オンザロード の山下社長
彼も 樹神さんの起業家精神にほれた一人かも知れない。

樹神さんは2004年10月23日地震のあったその日に山古志村でブリーダーと話してからから小千谷に向かいそれから名古屋に帰られたそうです。鯉たちが最後の別れを 樹神さんにしたかったのでしょうね。名古屋に帰り5時56分のこの大地震の悲報を聞きすぐに又小千谷に飛んで帰ったそうです。
若いころから自転車で山を駆け回りブリーダーと付き合っていた 樹神さんは寸断された国道でも回り道をしながら山古志村に入りブリーダー達の安否を確かめて回られたようです。
そして山古志村の鯉を救うのにヘリコプターで鯉を山古志村の山の中から救い出すのをてつだったそうです。

山古志村は長岡市から拾数キロ山の中に入ったところです。国道291 号が唯一の外部につながる交通網です。ご存知のようにこの道が地震で閉ざされて山古志村には入れなくなりまた、村に取り残された人たちが自衛隊のヘリコプターで救出される映像は今でも鮮明に我々の中に残っています。
このときの惨状が 樹神さんがKOI usa という雑誌の書かれています。
写真を取らしてもらって下記に掲載します。
山古志村は山の傾斜地の村落です。棚田が素晴らしくその間に鯉を育てる棚池が散在しています。
山古志村、小千谷 に600名ほどのブリーダ がいます。そして錦鯉のいろいろな品種を開発してこられました。この地震で30万匹ぐらいの鯉が死んでしまったそうです。
山古志村、小千谷のブリーダーは今元気を取り戻してこの鯉の素晴らしい伝統を守ろうとがんばっております。
樹神さんはその一助として今ハワイでがんばっています。
ペットのマーケットは大変大きくなっています。世の中がめまぐるしく変わっています。
この錦鯉の美しい色合いを見ていると心が和むものです。是非たくさんの人がこの鯉を飼ってペットとして育っててほしいものです。それが山古志村の人たちへの援助となるかと思います。

樹神さんがんばってください。

 

 

山古志村の棚田と棚池、鯉を育てる池とお米を作る池が交互に存在する。この素晴らしい景色が一瞬のうちに崩壊してしまった。

 


鯉の品評会への出品準備 (山古志村ふたたびから)

 


山古志村の地震の惨状

 


地割れした池と屋内の水槽

ヘリコプターによる鯉の救出親の鯉を救出してやっとタンクに入れてブリーダーの人たちに笑顔が戻った

 


鯉にえさをあげる 樹神さん。

 


樹神さんの KOKUGYO という鯉の紹介の英語の本

 


KOKUGYO の中の1Page

 


祝辞を述べるHawaii 州副知事

 


盛大な Japan Nishikigoi Expedition In Hawaii (at Hyatt Regency)

 


樹神Koi Farm の見学者

参考資料
山古志村ふたたび 、中条均紀 小学館
KOKUGYO by Mamoru Kodama Shin Nippon Kyoiku Tosho Co. Ltd.
www.kodamakoifarm.com
www.japan-nishikigoi.org

孔子の復権

 

孔子の復権

 

安岡 正篤 の 論語に学ぶ を持って スコットランドのゴルフ ツワーに 台湾出身の中国人、数名と出かけた。
論語の漢字の部分を見せて読んでみろといったらなんとさらさらと読んでくれた中国人だし高年だし当然漢字数万をまだ覚えている世代だから当然かと思う。ところで皆さんは何時論語を学んだかと聞いた、小学生のころから学んでおりされに中学、高校と必ず科目があったという。当然論語のある部分はそらんじていることかと思う。孔子の教え儒教は中国人の精神的な支えあるいは道徳観として彼らに中にじっくり浸透しているものと思われる。だから父母への尊敬あるいは家族を大事にする、目上の人を敬うなど自然に身についているのだろう。

孔子という人は紀元前500年も前に戦乱激しき春秋時代に生きてこの儒教の思想を生み出した素晴らしい人ですね。しかしこの孔子の教えも大変は苦難の道のりを超えてきています。まずはあの偉大なる秦の始皇帝が儒教の思想は国政に障害になるとして焚書坑儒をおこなったすなわち儒者を生き埋めにしさらに儒教の本をみんな焼いてしまった。
しかしその後儒教は中国の人々の間にじっくりと根を下ろし精神的支えとなってきている。
残念ながら文化大革命のときも儒教は封建主義的圧制の支柱として毛沢東によって批判され敬遠された。しかし今中国共産党率いる政府は道徳的基盤として儒教を必要としている。共産主義はもはや人民の精神的支えにはなりえなくなっている。
今中国では 貧富の格差、失業、当局への抗議運動などが活発化している。

政府としてはこれらを抑えるのに道徳的基盤としての儒教を見直している。
政府はすべての小学校に儒教教育を必修科目としてとり始めている。
又儒教研究所を随所に立てている。そして世界各国に孔子学院を設立しつつある。

日本人もこの孔子の教えが人々の道徳的基盤あるいは生きる指針として十分しみこんでいます。

中国の古典、四書五経はどれほど日本に影響を与えたことか。日本人は中国の文化をこれらの古典から吸収したのでしょう。
特に明治の偉人達への影響は大きなものがあった者と思われる。

西郷隆盛の伝記を読んでいると彼が徳之島に流されるとき本を行李の中にいっぱいつめて持っていったようです。そしてされに二回目に沖永良部に流されてときも同じよう行李の中に又いっぱいの古書も持っていき流浪の間中読書に余念がなかったようです。
隆盛が折に触れて書き記す漢詩は素晴らしいもので又心打つものです。

明治の偉人たちはこのように漢書に触れて心意気を養い明治維新を断行することができたのでしょうか。
隆盛が揮毫したいろいろな書は詩の内容といい筆使いといい素晴らしいですね。

遣唐使のころに日本人は中国語を話せたかどうか疑問に思うのだが当時は漢文がすらすらと書けるのだからあえて話せなくても筆談で十分であったのでしょうし本を見せてもらえばそれで十分だったのでしょうね。
我々は返り点がどこにあるか分かれないと漢字を追いかけられないですよね。

中国の儒教あるいは仏教がこのようにして日本に伝えられたのでしょう。
下村湖人の論語物語を読んで少しかは孔子の教えをかいも見ることができました。それで安岡正篤 論語に学ぶ を今度の旅で読んでみました。
数年前渋沢栄一の 論語を読みました。渋沢栄一が日本経済の基礎を築いた人

ながら最後までも清貧であったのも又孔子の教えから来たのではないだろうか。
論語は大変奥の深い書ですね。まだまだ論語読みの論語知らずの域を出ません。

なんだかもう一度漢文をじっくり勉強して解説なしで漢詩が味えるようになりたいなと思うこのごろです。
そして自分も筆を持って書をしたためてみたいと思う。
これから習字を習おうかな。

 

 

 

 

 

 

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